妲己の想い・娘達の想い
不穏な空気
神渡ビルに戻り、
一通り聞き終えた玖音は難しい顔をする。
「芦屋家ですか。悌雲にも注意しておくよう伝えておきますね。ご苦労さまでした」
そう一言だけ言い、目を閉じて瞑想しているかのように座ったままになる。
霊力を集めて貯める仕事は、空狐である玖音でもかなりの負担がかかると葉風から聞いたことがあり、邪魔にならぬよう静かに退席した。
芦屋栄が何を企んでいるのか判らないうちは、どうすることもできない。俺は粛々といつもの仕事に戻るだけだ。それに今日は午後から和泉のバイトが始まる。何から教えたらいいかは考えてあるので、葉風を付けて様子を見るつもり。
今日から始めさせたいのは、自身の気を感じること。最初は体温の変化であったり、心音の伝わり方であったりで、気そのものを感じることはできないだろう。だが、こればかりは体得できるまで、自身の感覚を研ぎ澄ませていくしかない。これができて気功を学ぶ入り口に立てる。
地道な修行にも関わらず、最初は精神の疲労が激しい。和泉がどこまで続けられるのか。最初で最大のハードルになるだろう。
和泉が来るまでには時間もあるし、予約客もまだ先だ。
「葉風、昼飯食べに行こう」
以前、家事回りを担当してくれていた朝凪は、荼枳尼ショックのあとはこの部屋には滅多に来なくなった。正確には来れなくなったという方が正しいな。荼枳尼の
「坊や、〇〇で季節のケーキを買ってきて?」
「プールに行くから、付き合いなさい」
「今日は、××のお寿司が食べたいわ。お願いね?」
……その他、オイルマッサージ、ショッピングのお供、衣類のお洗濯、部屋の掃除、靴磨き、そして月に一度の体交法。
神渡ビルで、自由意志なく最も忙しいのは間違いなく朝凪だ。
だが、一度は精神面でマゾに堕ちた朝凪のこと。この日々もきっと喜びに変えてくれるに違いないと俺は確信している。……まぁ、巨乳嫌いは更に拗らせているようだが、性癖というセンシティブな話は俺の知るところではない。
ごく当たり前に腕を組んでくる葉風に違和感を覚えず、BAR薫風のある飲食階の十一階へ向かった。
十一階にある飲食店は全て、あやかしが店長である。オーナーは玖音で、金は出すけど口は出さない。だが、お店の業績が悪いと神渡ビルにはいられない……という噂があり、神渡ビルで働くあやかし達はいつも必死だ。
実際には、悪さをしたり、注意されても働かないあやかし以外がこのビルから放り出されたことはないらしい。だが、玖音の格の高さが圧力となり、全あやかしはその噂を真実だと信じている。
今日のお昼に向かっている店は『寿司処
江戸前の気っぷの良い職人の店ではない。寡黙で厳格そうな職人の店。食材は毎日、神渡ビルのあやかしが市場で注文してくる。魚介類は人魚、肉類は化け猫、野菜類は首なし馬が、それぞれ人化し神渡ビル全体で使う食材を、それもその日一番鮮度の良い品を注文してくるのだ。
運搬は、巨大な猫バスならぬ猫トラックの
ホール従業員は、人化した化け猫。
猫の嗅覚で知る、その日の食材の状態を的確に察知して客へ説明を行う。また、猫の嗅覚は客の状態も掴む。体調が優れなそうな客には、酒を控えるようやんわりと伝えたり、胃腸に優しいメニューを勧めてサービスに役立てている。
俺と葉風を確認したホール従業員は、「いつもと同じで?」と訊いてくる。
常連っぽい扱いは他の客の目もあるので好きじゃない。だが、同じビルに住み、仕事抜きでも毎日顔を合せている。ある意味、家族のようなものだから、この扱いを気にしても仕方ない。
「親方、お勧めを二人前頼む」
カウンターの端に葉風と二人並んで、従業員からおしぼりを受け取る。
ビルのどこへ行っても顔馴染みばかり。ここでも同じ。
「総司さん、隣宜しいですか?」
声をかけてきたのは、ビル警備を担当している一人、
弦左は、優しい面持ちの上に、クシャッと笑う笑顔が人懐こそうで客からのウケもいい。
「休憩かい?」
椅子を引いて、座ってくれと言う。
「夜勤明けで、これから休むんですよ」
「そうかぁ、お疲れ様」
湯飲みをすすり、ひと息置いたところで、弦左に葉風が声をかけた。
「弦左さん、霧氷さんがおめでたなんですって?」
「へぇそうなのかぁ、おめでとう」
葉風と俺のお祝いに照れた弦左。
「いやぁ、連れ添って三年ですからね」
霧氷は氷雨と同じく雪女。結婚の話を聞いたとき、「天狗って添い寝の時冷たいの大丈夫なんだろうか……」と心配したものだ。だが、「その程度を辛いと思うようなら、霧氷と
俺の様子を見計らいながら出される寿司を口に入れ、そのいつも変わらぬ美味しさと、仲間との楽しい会話に笑みを抑えきれずにいた。
ちなみに、このビルには育児施設がある。だが、それは人間の赤子や幼児用。近隣に住むお父さんお母さんが仕事の間、人化したあやかし達が預かっている。
ではあやかしの育児はと言えば、両親の都合に合わせて休暇を取ってもらう。それだけのこと。片親が休んでも、両親揃って休んでもいい。個々人の事情に合せて休みが貰える。
稲荷神社の
まぁ、どのみち給与をたくさん貰っても、あやかしが使うところなどあまりない。ほとんどの場合、ビル内で用は済むし、店は従業員価格で購入・利用できる。俺もそうだが、貯金は貯まる。
だから、うちのビルで働く人間には素晴らしく良い環境だろう。
育児の話に戻ると、人間社会と異なり良いと思われるのかもしれないが、あやかしの場合そうするしかないのだ。どのあやかしでも赤子は母親からの乳しか飲まない。能力を制御できるようになるまでは、あやかしの種類によって対応が変わる。誰かに預けて、赤子や幼児全員の面倒を見てもらうことなどそもそも不可能なのだ。
「生まれたら弦左さんも休暇とるんですか?」
葉風は興味津々で、照れている弦左に訊く。
「いえ、私は休みませんよ。仕事していないときで、おっぱいの時間以外は
「弦左は寝ないのか?」
「四時間ほどは寝ますね。でも、このビルにいる限り、それで十分ですよ」
まぁそうだな。あやかしの活力の源である霊気が濃いこのビルでは、疲労の回復は早いし、
夫婦で話し合っているようだし、仲間とはいえ第三者が口出すようなこともでない。
幸せそうで何よりと、親方が出す寿司を再び堪能する。
「あ、そう言えば、客が話しているのを小耳に挟んだんですけど……」
寿司を飲み込んだ後に弦左が話しかけてきた。
「この界隈で良からぬことをしている連中がいるようです」
弦左が言うのだ。噂と切り捨てられるような話ではないのだろう。
「判った。食べ終えたら俺の部屋へ来てくれ。俺は別件があるから聞けないけれど、葉風に話しておいてくれ」
「ええ、任せて。聞いておくから」
既に食べ終えた俺達は、代金を支払って店を出た。
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