水泳勝負

 和泉のリハビリにどうかと神渡ビル九階を紹介した。九階にはプールとジムがある。八階にはサウナとジムがあり、新宿で働く方が仕事帰りに気楽に立ち寄れる施設になっている。


 プールの従業員は全員あやかし。河童と人魚が変化へんげして務めている。

 水の浄化は、垢舐めあかなめが地下三階の設備室で濾過し浄化槽から出る老廃物等を美味しそうに食しているのだが、人様に見せられるようなものではない。あ、水は何も問題ないのでご安心を。垢舐めが触れることはない。問題ないどころか弱い霊気が含まれているので疲労回復効果もある。

 

 いくら和泉のためとは言え、担当外のリハビリトレーニングにまで付いていくことはない。これまで一緒に頑張ってきたコーチとトレーナーとやっている。やったことと言えば、俺の霊気功治療を含めて神渡ビルでのサービスを格安で利用できるように各所へ根回ししたことくらい。可愛い妹のためだ。頭を下げることなどなんてこともない。俺の稼ぎから支払うのもやぶさかではない。


 初めての治療から十日過ぎ、和泉の回復は順調。今日も確認したが、ほぼ治っていた。筋肉は良質な霊気をたっぷり含んでしなやかで強靱なものへと変貌している。だからと言って、タイムが急激に伸びるわけではないが、少なくとも、怪我しにくい全力を出し切れる筋肉になっている。


 更なる肉体強化も可能だ。霊気功を利用して筋肉の増強はできる。筋肉の量や質を大きく変えることすら可能だ。けれど、それは改造と一緒。アンフェアだからやっちゃいけない。勝たせたいけれど、和泉を信じてフェアな範囲で手伝う。



「和泉様はお帰りになりましたよ」


 まだリハビリしているかなとプールを覗くと、緑色のスイムキャップを被った曇兵衛どんべいが教えてくれた。曇兵衛には、それとなく和泉に注意していてくれるよう頼んでいた。


「そっか。ありがとうな」


 曇兵衛は河童。常時、水の中をうろつき……いや、泳ぎながら水の事故が起きないよう注意している。他の河童達とともに、プールの安全を守っている。朝凪ととても仲が良いあやかしだ。


 ちなみに、監視員などの水の上での仕事は人魚が主にやっている。綺麗な人間女性に変化へんげしていて、男性客の目を集めている。正直言うと、人魚の女性を監視員にする方が、事故を起こすんじゃないかと思っている。裏方の仕事を人魚の男性がやっているのだが、逆の方がいいんじゃ? と思うこともある。だが、他の部署の仕事に口端挟まない。


 河童が監視員をしてはという見方もあるが、それはしない理由がある。

 河童は、頭の皿が、変化へんげしようとも皿が乾かないようにしなくてはいけない。では変化した河童はどうなっているか? 

 目の前の曇兵衛のように、スイムキャップを被っている。スイムキャップは外すことはできない。そう、皿をスイムキャップに変化させているのだ。


 プールなのだから大量の水があり、湿気を帯びた空気が充満しているから皿は簡単には乾かない。

 しかしだ。湿り気具合によって河童の能力は変わる。つまり、河童の能力を活かそうとするならば、常時しっかりと皿が濡れている方が良い。

 ということで、常時濡れていなくてもかまわない人魚がプールサイドで、プール内は河童が担当している。


 余談だが、胸のさほど大きくない女性には、朝凪が「タイプです! 付き合ってください」と告白して、全て玉砕した。人魚や河童だけでなく、このビルのあやかしで朝凪のタイプの女性には全員フラれている。


 中野友里乃にもいずれ玉砕するんじゃないかと思っているが、今のところ仲良くやってるようなので温かく見守っている。風香に『エターナルハートブレイカー朝凪一号』と最近陰で呼ばれていることも内緒にしておこう。

 何にせよ、根性はあるし、立ち直りが早く、めげないところが朝凪の凄いところだ。

 ……可愛い奴。


「曇ちゃん。混んでる?」


 そろそろ十八時半で、退社した社会人が押し寄せてくる時刻。

 混んできたら出ようと思っているが、それまでは少し泳ぎたい。早朝や空き時間にトレーニングを積んでおかないと、師父が来た時叱られてしまう。


「三十分ほどは大丈夫じゃないでしょうか?」


 曇兵衛は、プールサイドの壁にある時計を見て、多少余裕があることを教えてくれた。。


「じゃあ、少しだけ泳がせて貰うね」


 「またね」と言って、曇兵衛と別れ、更衣室へ向かい水着に着替えた。プールサイドで身体をほぐし、水に入る。じんわりと纏わり付くような水の感触が心地良い。


「お、総司さん、これからトレーニングですか?」

「ああ、空き時間ができたからな」


 声をかけてきたのは河童の九兵衛きゅうべい。スイムキャップや髪に濡れた様子がない。どうやら曇兵衛と交代で仕事に入ってきたようだ。


「総司さん、勝負しませんか?」

「勝負って、水の中での戦闘はできないだろ?」


 ちょっと挑戦的な表情で言ってきた。だが、神渡ビル内での戦闘は玖音から厳に禁止されている。


「はい、ここで戦ったら玖音様に叱られます。水泳クロールでですよ」

「おいおい、人化してるとはいえ河童が水泳で勝負? それはズルイだろう」


 尸解仙だろうと、人魚や河童の水泳能力に敵うわけはない。


「たまには私等に花をもたすのもいいじゃないですかぁ。普通の人間相手ならさすがにやろうとは思いませんが、尸解仙の総司さんなら万が一があることですし」


 トップスイマーのような広い肩幅、厚い胸板、ぶっとい太腿を持つ九兵衛きゅうべいはニッコリと笑う。


 (そうか、確か、人魚と河童はあまり仲が良くない。だからここで俺に勝って自慢したいのか……)


 チラチラとプールサイドの人魚を意識しているような視線でそう感じた。


「まぁトレーニングの一つということで……いいよ」

「では、一往復で」

「判った」


 競泳練習用にコースロープで仕切られているコースの一つに俺、その隣に九兵衛と決めた。プールサイドで腰を曲げて準備する。


「総司さんがスタートの合図してください。多少はハンデになるかもしれませんよ? イヒヒ……」


 こいつ、調子に乗ってる!

 ちくしょう。完全に舐めてる。

 だが、ここでムキになるほどガキではない。


「判った。では、位置について……よーい、ドン!」


 プールサイドの縁にかけていた足に力を入れ、手を伸ばして遠くに飛び込んだ。

 バシャッと水飛沫があがり、俺は手を前に伸ばして水をかく。バタ足で水を蹴り、ひたすら前を目指した。


「アハッ、やっぱり両手を使わなくても勝てそうですね」


 横を見ると、九兵衛は両手をピンと伸ばして脇につけたまま、バタ足だけで泳いでいる。それにも関わらず、徐々に俺を追い抜いていくスピード。やはり河童強し!


 (この野郎……真面目にやらないって言うのなら、俺にも考えがある。霊気功は水の中なら離れていても十分に有効なんだからな)

 

 俺は片手を九兵衛の腰の辺りに照準を合わせて霊気功を放った。そして素知らぬ顔で再び泳ぎに集中する。


「へっへ……これじゃ勝負にならないですね。水の中では総司さんも形無しってことで」


 (フッ、今に見ていろ。そのままスピードをあげて進むがいい)


 この時、俺は悪い顔をして笑っていただろう。


「さぁて、折り返しですね……え? あれ?」


 (クックック、どうだ、手も腰も動かせないだろう)


 俺は先ほど、霊気功で九兵衛の腰と腕の辺りの霊気の流れを乱しておいた。これで十数分は自由に動けない。

 そのままではターンできまい……先に折り返すのは俺だ! とその時俺は一つのことに気付いた。


 (あ! このままではスピードも落とせない……このままじゃ……)


 俺の予想通り、バタ足を止めても九兵衛はスピードを落とせない。河童の身体は水の抵抗を受けにくく、人化していてもそれは変わらない。だからさほどスピードが落ちないまま、プールサイドの壁に頭から突っ込んでいった。


 ゴゥン! という鈍い音がして、九兵衛は沈んでいく。俺は慌てて隣のレーンへ水を掻き分けて入っていった。すると水中からうつ伏せのままの九兵衛がゆっくりと浮かんでくる。両手を脇にぴったりつけたまま、気をつけの姿勢で浮かんできて、ピクリとも動かない。俺は仰向けに治して声をかける。 


「おい! おい! 大丈夫かぁ?」


 ピタピタと九兵衛の頬を叩いたが、目を開けない。背中を支える手に伝わる霊気の動きで、生きているのははっきりしている。だが、意識を失ったまま目を開けない。

 「おーい!」と声をあげ、普段着に着替えた曇兵衛がやってきた。遠くから俺達の様子を見ていたのだろう。

 そしてプールから九兵衛を引き上げて、スイムキャップを確認する。


「割れてない……これなら大丈夫だ、気絶してるだけです。人化したときにラバー状のスイムキャップに変化していたから良かった。もとの皿のままなら割れてましたね」


 ホッとひと息ついた曇兵衛が冷静に状況を説明してくれる。


「そうかぁ、良かった。俺もイタズラが過ぎた」


 目を覚ましたら謝ろうと決めた俺の背後から、


「ホント人騒がせね。河童ってバカなのかしら」


 監視員役に人化している人魚の美保が、見下みくだした冷たい視線を九兵衛に向けてつぶやいていた。そして無事だと判ると、監視台に戻っていった。

 この状況に、


「まぁ、河童のくせに総司さんと泳ぎで勝負しようとしたんですから、バカと言われても仕方がないですね」


 美保を見送った曇兵衛が寂しそうな目で苦笑している。そして、九兵衛を背負って控え室へ歩いて行った。

 俺は曇兵衛に申し訳ないと心の中で謝り、今度食事を奢ろうと誓う。 


 ……後日の話になるのだが、ラバー製でメッシュ地のスイムキャップを、自前のスイムキャップの上に河童達は被るようになる。その理由は人魚達によって吹聴され、神渡ビルで働く者達に知れ渡り、俺も玖音からこっぴどく叱られるのである。

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