巽和泉
葉風の気持ちを知った俺だが、そんなことは知らん! という態度を当面は取ることにした。
だが、食事の世話だけでなく、マネージャーのようなことも始めている。アスリートの予約客が来るとリハビリの状態や選手環境などを下調べしてから話を伝えてくる。とても助かるのだが、あまりに手際が良いので、朝凪を中野友里乃の世話に回したところから企んでいたのではないかと思うようになっている。
葉風、こんなにグイグイと来る女だったかと認識を改めているところだ。
蝶子のように判りやすい直接的な攻めではなく、俺の生活の一つ一つのシーンに自分の居場所を作り、そこに居るのが自然になるようにしている。また周囲の認識を先に固めてくるところは、さすがに三千年以上生きている妖狐だと感心した。いや、感心している場合ではないな。何というかプレッシャーを感じ始めている。
だが忙しいので、助かっているのは間違いないんだ。
大勢のあやかしが働いている神渡ビルには商業施設が多く入っている。そしてどこも盛況なのだが、これには理由がある。屋上にある稲荷神社に商売繁盛のご利益があるというだけでなく、住んでいる家は栄えるという座敷童が俺達と同じ十四階に住んでいるからだ。
奥座敷風に改造された部屋に、座敷童衆が暮らしている。
小学生くらいに見える
座敷童は、頑張って働いている家には居つくが、怠惰になるとその家から離れる。そして座敷童が離れた家は没落する。この
これが神渡ビルで暮らす者はきっちり働かなくてはならない理由の一つ。
あやかしにとって、濃い霊気が多く集まる神渡ビルはパラダイス。厳しい修行しなくても霊力は増していくし、霊格もあがりやすい。一応味を楽しむために食べているけれど、濃い霊気が常時身近にあり取り込めるのだから、生命活動維持目的での食事はあまり重要ではないあやかしも居る。もちろん霊格の低いあやかしに食事は不可欠だ。
修業中の尸解仙の俺にとっても神渡ビルは楽な場所だ。
だから他のあやかし達も俺も遊んでいられない。
葉風から伝えられた今日の予定は、オリンピックを目指しているアスリートのリハビリ。
人間社会での西洋医学的な治療は俺にはできない。だが、霊気功を使った治療や支援はできる。リハビリで負荷がかかった箇所から霊気功を使用して炎症を取り、筋肉や神経に活力を与える。これによって早期回復はもちろん、怪我をする前よりも身体は強化される。
そこそこ評判が広がっていて、アスリートからの予約は後を絶たない。中野友里乃と知り合うきっかけとなった日も、
俺のトレーナー料はかなりお高い。
通常のトレーニングならば相場通りだが、霊気功を使用するメニューとなると……まぁ、客は霊気功を使用しているとは知らないのだが……数回分で日本人の平均年収ほどになる。出張が必要なら更に高くなるし、一定期間……だいたい二ヶ月ほどだが……集中して接するとなれば一流企業のエリートレベルの年収ほどの料金を貰うことになる。
自分でも高いと思っているさ。
でも、そのくらいに設定しないと、他の仕事に差し障りがでるのだ。これでも超一流のプロアスリートからの申し込みを断るのに苦労している。
実は、都内の病院で、入院中の子供達に無料で治療している。頭を撫でたり握手したり、患部近くに触れて損傷箇所に霊気を送って回復の進みを早めている。専門外の重要臓器には関与しないが、怪我等でリハビリの必要がある子の手足の回復を支援している。
本来はそっちの時間を増やしたいくらいだ。そりゃあ、怪我で苦しんでいる人全てに手を差し伸べることはできない。でも近くにいるなら可能な限り手助けしてあげたい。善行を積むためという理由もあるが、俺が十歳で人間をやめることになり、人間としての生活を歩めなくなったのも理由にはある。俺にはできなかった生活を送って欲しいんだ。
蝶子から予約客到着の連絡を貰い十階へ降りる。
葉風も付いてくるのだが、離れるよう説得するのも面倒だから何も言わずに一緒に行く。受付前で蝶子と葉風が、社交辞令的笑顔で挨拶を交わしている。ここに居ると精神が削られそう。
蝶子から客のシートを受け取り、さっさと施術室へ入る。
「えーと、
顔には出さないけれど俺は動揺していた。巽和泉は俺の妹だからだ。俺が十歳のとき、和泉は三歳。シートに書かれている年齢は現在二十三歳。そして俺が覚えている母親にそっくりだった。
多分、間違いない。
「ええ、そうなんです。私の兄……二十年前に失踪した兄と同じ名前なので私もびっくりして……」
「失踪ですか、それは……」
ゴトンと音が背後からした。葉風が何かを床に落としたようだ。
「ごめんなさい。私、ちょっと離れますね」
そう言って、床から小さなバッグを拾い上げて施術室から出て行った。
チラッと見えた葉風の顔色は青かった。
「バタバタしてすみませんね。それで、今日は……」
俺はシートに書かれている情報を確認した。
和泉の字は綺麗で、読みやすくて、それだけで俺はホロリとなってしまう。あのヨタヨタと歩いていた妹が、今ではオリンピックを目指すアスリートにまで成長したのかと胸が熱くなった。
俺は気を強く持ってシートに書かれた情報を頭に入れる。
中距離選手の和泉は膝を故障して現在リハビリ中。だが、二ヶ月後に選考会があり、そこで上位に入らないとオリンピックに出場できない。練習もこなしたいので一日も早く回復させたいと俺のところへ来た……ということか。
判った。全力でやってやる。回復後には以前より速く走れるようにしてやる。俺に出来ることは何でもやってやるさ。
「んー、二週間、毎日通えますか?」
「はい、それで回復するなら」
「お任せ下さい。必ず全快させてみせます。但し、二週間は私の指示に必ず従って下さい」
「では」と和泉を施術用ベッドに座らせて、膝の具合、周辺の筋肉の状態を霊気功を使って確認する。
よし、これなら大丈夫。炎症は弱くなっているし、周辺の筋肉もさほど衰えていない。神経の反応もまぁまぁだ。軟骨の弾力も回復させてやる。
任せろ。
「今日は、膝周辺の治療をします」
そう言って、膝回りにゆっくりと手をあてがっていった。
(うん、ここは今日中に……ここは、あと一日か二日で……)
「ちょっと痛いかもしれませんが、すぐ収まりますので」
大腿筋の膝近くを両手で軽く掴む。こうすると表面だけでなく骨に近いところまで霊気が届く。治癒も早まるし、気が活性化することで筋肉も発達する。
俺は和泉の気の流れを確認しながら手を当てる位置をずらし、慎重にそして全力で霊気を送り込んでいった。
だいたい三十分くらいマッサージし、俺は手を離す。
「今日はここまでです。ちょっと立ってみてください」
和泉はベッドから降りて立つと驚いて声をあげた。
「あっ! 痛くない」
「痛み自体はあと二日もすれば完全に取れるでしょう。しかし、筋肉や関節にはまだダメージが残っていますから、負荷が強くかかるトレーニングを始めると痛みがぶり返してしまいます。ですので、私が良いと言うまではプール歩行等の負荷が軽いメニューでリハビリしてください。ですが、お約束した通り、二週間で必ず全快させてみせます」
スポーツマンらしく短めの黒髪。
痛みが消えたことに喜ぶクリッとした瞳。
トレーニングされて引き締まった身体。
そして母さん似の温和な顔。
「はい! 明日も同じ時間で宜しいですか?」
「事前に連絡してくだされば、都合の良い時間で構いません。とりあえず明日は今日と同じ時間ということで」
「ありがとうございました」と会釈し、施術室から和泉は出て行った。
俺の顔は父さんか爺さんに似ているのかな?
もしかしたら和泉は気付いたのかもしれない。
でも、同姓同名の他人としてやり過ごすしかない。
……俺はもう人間じゃないしな。
和泉が去ったベッドに座り、天井を見ながらそんなことを考えていた。
「やっぱり妹さんだった?」
葉風が戻ってきて俺の隣に座る。表情はもういつも通りに戻っていた。
「多分……いや確実かな」
そう言うと、葉風は俺の頭をガバッと抱きしめて「ごめんね、ごめんね」と涙声で耳元で謝った。もう気にしていないことだし、謝られるようなことでもないと思う。でもやはり葉風は気にしているようだ。
「いや、家族のことをずっと忘れていた俺の責任だ」
崑崙では、気功術の師父である霊峰が父親のように厳しく優しく接してくれた。仙女達も母や姉のようでさ。
十二歳になる頃には、元の家族のことを思い出さなくなっていた。日本に戻ってきてからも、日々の仕事に没頭して探して会おうなどと考えもしなかった。
「ずっと償うからね?」
俺から身体を離した葉風は涙目で言う。彼女の頭を撫でて、俺は微笑む。
「もう気にしないでくれ。俺にはお前達のような仲間が居る。そのうち家族もできるかもしれないしな」
葉風の頬を指でつついて立ち上がる。
「とにかくだ。和泉が選考会で良い成績を出せるよう尽くすだけさ」
「選考会で他の選手の邪魔しようか? 簡単だよ?」
「おいおい、やめてくれよ。和泉は実力で代表の座を掴みたいんだ。俺達に出来るのは万全の状態で選考会を迎えられるようにすることだけだよ」
巽という字は、東南を意味する。そして八卦で東南は風。
和泉が風を切って走れるよう全力を尽くす。
俺を心配そうに見つめている葉風にクスッと笑う。
「さぁ、昼飯を一緒に食べに行こう。今日は、朝凪が準備しているだろうが外で食べようか?」
「そりゃぁないっすよぉ」と朝凪が騒ぐだろう。だが、今感じている想いを葉風と共有して、いつもとは違う場所で物思いにふけりたいんだ。
許せ、朝凪! と心の中で謝って、ベッドに座る葉風に手を差し出した。
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