第12話
右足と左足の踵を付けて気を付けをすると心地が悪かった。
何でそんな事を気にしていたのか、どうして今それを思い出したのかを考えていた。しかしどうでもよくなって考えていた事すらすぐに忘れた。
風を切って歩く度に、体に纏わりついていた糸が解けていくような感覚を覚えた。その度に身軽になって、研ぎ澄まされて、シンプルな存在に近づいていく。
それはなんなら気持ちの良い事で、足は止まらなかった。解けて風に乗りどこかへ飛んでいく糸と、その先に繋がっていた物に気付かない訳ではなかったが。
そんな事を考えながら、荒野となった森の奥の方に豆粒の様な人影を見た。
同時、胸に衝撃を受けた。
リオンの体は正に人形のように吹き飛び、一度、二度地面を擦って、静止した。いや、踏み止まった。首を地面で捻りながら背中を強く打ち付けながら、足から着地して。がしゃりと立ち上がって、かりかりと眼球を動かして瞳を上げる。
いない、消えた。いや。
そのブリキの鼻は、淡き審判を嗅ぎ分け笑う。
そのブリキの左足は、水面越しに月を踏む。
そのブリキの背は、羽より軽く正義よりも薄い。
人形は酷く匂う。むせ返る様な黴臭さだ。嗅ぎ付けたそこに左足を振るう。幻覚が拉げ砕ける。そして勢いのままその先にいた人影に向かって背中の羽が三枚走った。
小さくその人影は息を吐いて、ようやくこちらに向き直った。億劫で緩慢とした動きだが、それでもこちらからの攻撃には対処したのか、羽は見えない何かに弾かれる。
見た。
弾かれた羽と、目の前の男と、そして攻撃された己の胸を見た。かりかりと眼球は相変わらず不快に音を立てる。
("斬れない"事で形状変化に使われるはずのエネルギーが衝撃に転換している恐らく可視光に明確な切断能を付加した際光自体に極々微量の質量が発生し抑えられていた衝撃が斬れない事で式を崩され一部が顕れている狙っての物なのかは判別不可頭部に被弾すれば意識障害を引き起こす可能性──)
「退け、リオン」
再び不可視の光刃を被弾した。それは文字通り光速。発動してからの回避は不可能。最後の顔の一部は右目の十分の一とその奥のこめかみの辺り。塵となって分解される。パキパキと音がする。すぐブリキに変わるだろう。
しかし吹き飛びはしない。羽を地面に突き立て衝撃に耐える。
「恐ろしく硬いな。その体は」
間をおかず放たれる追撃に対応、あるいは幻術を残しミコトを追うこの男を追走。そのどちらかのつもりで膝に力を貯めていた。話し掛けられるのは予想外で一瞬固まる。だが時間を稼げるのはこちらとしても好都合だ。
一抹の不安がよぎる。匂いは目の前の姿が実像だと示しているが本当にそうなのか。何か水面下で進行している可能性はある。なにしろこの会話の意図がまるで分からない。
「なぜ逃げない」
ため息交じりに彼は言った。
「それ程にあの"神の指先"が大切か」
「……誓ったんだ」
「そうか。それで?」
「もう、ここでお前を殺すしか、欲しい物を手に入れる手段がない」
「──それで?」
突如。彼のそれは、ふつ、と茹だる様な殺気だった。
「それで、お前はそれに、どれほどの犠牲を払うつもりだ?」
あるいは噴き上がる蒸気、這い上がる冷気、或いは刺すような、押し潰すような殺意。ブリキの部分は麻痺したように不感だったが、人間の手の平はびっしょりと汗をかいている。
「払えるだけ払うさ」
「身を挺して誰かの為にか。"リオン=アルファルドらしい言葉だな"。随分変わったものだ」
「……そうだな」
「変わったのか、変えられたのか。欲しい物? それはお前の意思か? 本当に?」
「……何が言いたい」
「──まさか、今の自分が意志があり人間らしいなどと思ってはいないだろうな」
突き付けられた言葉と、強い視線に僅かにリオンはたじろいだ。
「お前のそれは人としての情愛か?いや、違う」
「……黙っていろ」
「お前のそれは予定調和の変質だよ。──見ろ」
瞬きの瞬間に、それが目の前に現れた。
化け物だ。
ブリキの肌が全身に広がっている。人間の肌との境目は引っ張られて歪み、呼吸の度に捻じれている。背中から広がった羽根は忙しなく蠢き、虫の触角か萎びた花弁染みている。表情が作れていない。口角も目尻も、表情を作る器官ではなくなっていた。
身じろぐたびに、きぃ、きぃ、と軋む音は鏡の向こうから聞こえている訳ではない。
──カリヴァーンが光を反射させて作った鏡の向こうで、その虚ろな人形は、悍ましい物を見るような目でこちらを見つめている。
「……っは」
ただそれでもリオンは笑った。がり、とやはり上がらない口角に爪を立てる。カリヴァーンは鏡を解除した。
「はっはっは、っくっく、っふ、ははははははっ!」
「……哀れな」
結局乾いた笑い声しか出て来なかったので、消え入るようにリオンの笑い声は消えた。代わりにため息が出た。疲れている。だが心地いい疲労感だ。
「投降しろ。命の保証は出来んが、努力はする」
「何で俺が戦っているかって──?馬鹿な事を聞く」
「止めろ」
「諦めたくない物を、諦めるのを止めたからだ。許せないものを許す事を止めたからだ。もう逃げないと、戦うと決めたからだ──!」
「止めろと言っている」
「俺は! 確かに人間か人形かも分からない。だがな、本当の自分も分からなくても、リオン=アルファルドじゃなかったとしても」
──この勝利の後に、今の自分が消えていたとしても。
「でも、だけど……!」
泣きそうだったのだと思う。
悲しかったというより、己の高ぶりに充てられてただ涙が滲んで硬い頬をつるりと落ちる。頬が砕けるほどに大きく口を開けて、がちりと奥歯を噛む。
そこからは一息に。左手でナイフを抜き放って右腕に突き立てた。
「──ぃ、ぎィッ!」
「な──」
足りない。こんなんじゃ全然駄目だ。もう一度さらに強く奥歯を噛む。ばきりと残った歯が砕けた。構うな直ぐにブリキが覆う。一度は離したナイフの柄を握り直して、思い切り手の平の方に引き下ろした。骨が削られ、肉と皮は裂け、神経が千切れて中指と薬指の間からナイフが抜けた。
「リオン、お前……っ」
「足りない──」
今度はナイフの柄を噛み砕くように咥えて、左の上腕を刃に突き立て、また引き下ろす。
「ぎ、ィ、が、ぁあああああああああァ──ッ!!」
今度は親指の付け根からナイフが抜けた。目の前が白く明滅する。脳から脊髄へ脊髄から全身へ、塊の様な巨大な痛みが神経を無理矢理押し広げるようだ。
「……分かった。もういい」
瞬間、全身に衝撃が走った。鉄砲水かジェット機に衝突されたかのような衝撃に、それこそ人形のようにリオンの体は吹き飛んだ。光で攻撃されたと遅れて認識する。
生存機構が機械的に状況を見る。地面に額を叩きつけられながら、衝撃で"取れた右腕"が彼方に吹き飛んでいくのを目の端で追いながら──。
(次)
丁度"生えてきた右腕"が地面に当たったタイミングで地面を弾いた。一際高く宙に飛び体勢を整え着地する。視界は漆黒。世界に闇の帳が降りている。
――〝究極技工(アルテマアート)"が来る。
視界は無く時間の感覚すら薄い。耳鳴りがするほどに意識が研ぎ澄まされていくのが分かる。一秒後には極光の一振りがすべてを焼き払うだろう。
理解する。会話を誘った目的は二つ。
ミコトがまだ生存しているかの確認。
そして恐らく連発はできない究極技工を使うまでの時間稼ぎ。ならば、ならばならばならば。奴の狙いはまだ──。
――"そのブリキの左腕は、逃れ得ぬ刑死者を吊るす糸を手繰った"。
人差し指からささくれのように糸が伸びて何かに繋がっている。直感的に思い切りそれを引っ張った。糸が張り重い感触が腕に伝わる。
そしてほぼ同時、本能的に空を仰ぐほどに体を反らした。奴の攻撃に音はない光もない。何かが見えたときには死んでいる。前髪が塵になって消える感触に寒気が走る。
構うな構うな構うな、走れ――!
背羽を広げ、暗闇の中に突っ込んだ。その直後に闇が晴れる。絡んでいた糸に足を引っ張られ体勢を崩したカリヴァーンが目の前にいる。
糸に気付き、奴はそれを光で攻撃した。糸であろうがそれも魔導のブリキ。千切れるのにおよそ0.2秒。その隙にリオンの左腕がばらりと解け編まれて、巨大な拳に変わっている。
「小賢しい!」
直様振るわれたその拳に群刃の光が殺到する。凹んでひしゃげて押し返されるがそう簡単に切れはしない。だが地面に叩き落とされた。拳に隠れていたリオンの体が露わになる。
刃光が来る。
しかしカリヴァーンは己の腕に細い糸──いやそれを編んだ紐が結ばれている事に気づいた。
リオンを刃光で吹き飛ばせば自身も吹き飛ぶ狙いを、カリヴァーンは瞬時に見抜く。
カリヴァーンは紐を引っ張りながらその場で跳躍しコマのように回った。同じく紐と繋がっていたリオンは体勢を崩され、顔面に後ろ回し蹴りが減り込むことを許した。
カリヴァーンは膂力も並ではない。
リオンの口の中にわずかに残った肉がブリキに食い込み血が口腔に満ちて飛び出た。地面に叩きつけられるがすぐに体勢を立て直し顔を上げたのが、着地したカリヴァーンが糸を再び引っ張り引き寄せようとしたのが同時。
糸を解く。すかさずカリヴァーンが刃光を放った。
――それと、その攻撃を狙いすましたリオンが血塗れの右腕を体の前に持ち上げるのが同時。一瞬で右腕が肩口まで消失して消えるのと、目を瞠るカリヴァーンの顔を見たのもほぼ同時だった。痛みはもはや無かった。待ち構えていたかのようにブリキがガリガリと右腕を作っていく。
「……それで?」
追撃の代わりに言葉が投げかけられた。
「──人でも人形でも、リオン=アルファルドでなくとも。それでも、何だ?」
完全に人の物ではなくなった両腕を持ち上げて、一度強く拳を握って解いた。ガチリガチリと動かす度に撃鉄のような音がした。
強く目の奥に力を入れて、正面からカリヴァーンを見た。
「簡単な話だよ。人とも人形とも言えずとも。リオン=アルファルドですらなくなっても──」
4本あるナイフ。その最後の一本を腰からゆっくりと抜く。どんな物より手に馴染んでいたはずのそれは、がきりと硬い感触をブリキの指に付き返してきた。
「だけど、俺は男だから」
カリヴァーンはほんの少しだけこちらをじっと眺めてから、そうかと短く納得の意を示した。不意に"カチリ"と頭の中で音がした。何となく視界が広くなった気がして遠くを見るように背筋を伸ばす。
「だから、ミコトを、守るんだ」
「……そうか」
肌に当たる向かい風の感触、目に入る景色の色、聞こえる音、口の中の味、苔臭い森の匂い、全てがどこか変わっている。いや切り替わっていると言った方が正しいか。いつからだっただろうか。分からない。
――そのブリキの左腕は、逃れ得ぬ刑死者を吊るす糸を手繰る。
左手が指先から解けていく。手からロープに、ロープから紐に、紐から糸に、糸から繊維に、繊維からさらに解けて景色に溶けていく。
──そのブリキの右腕は、腕の形をした力の腕。
手首を返すとそれだけで砂塵が巻き起こり、僅かに残っていた白い花弁を撒き散らした。
──そのブリキの鼻は、淡き審判を嗅ぎ分け笑う。
──そのブリキの左足は、水面越しに月を踏む。
──そのブリキの背は、羽より軽く正義よりも薄い。
カリヴァーン相手に視界は判断を鈍らせる材料にしかならないので目を瞑る。途端にむせ返る様な臭いの奔流が脳に流れ込んできた。鈍痛がする。ただ辺りはより鮮明に脳内に浮き上がった。
背中の羽は時には盾に。時には足に。時には矛となる。ある一枚はリオンの体の前に身を投げ、ある一枚は蛇のように首をもたげ、ある一枚はまるで脚のように地面を踏みしめ、力を貯める。
「──行くぞカリヴァーン。お前を殺す」
「ああ、来い」
戦端は再び開かれた。
どん、と地面に罅を入れてリオンは消えた。
瞬間、カリヴァーンの後方で空が爆ぜた。カリヴァーンが視線をやる暇もなく、次は右斜め前、続け様に左斜め後方上空、前方斜め下、直上、そして再び背後。
ドドドドと破裂音が鳴る音はリオンが踏み切る音。その度に空中がまたは地面が大きく抉れている。
リオンの姿はもはや目に留まらない。速くもあるがその不規則さが視界から外れやすい。時に地面を蹴る羽と空を蹴る左足が動きの予測線を尽く外している。カリヴァーンの攻撃は光速そのもの。発動してからでは避けられない。だが受けるしかないという訳ではない。
「……中々やるが」
攻撃を行うと判断してから攻撃が行われるまでの時間に避ければいい。しかし人形の命令伝達は人間の神経伝達速度(インパルス)より遥かに短く0.1秒の半分もないだろう。弱点と言えるほどの物ではない。ただカリヴァーンにそもそもそんな物は存在しない。ただ長所はある。それならば"長所でない"所を付く事は出来る。
「どうした?跳ねるだけか」
余裕ぶった言葉に歯噛みする。飛び跳ねているだけではもちろん無い。ナイフで羽で糸で幾度となく攻撃を行っている。小さいものまで合わせると100は超えそうな攻勢を全て弾き飛ばして、彼奴は未だポケットに手を突っ込んだまま。
──そのブリキの喉は、恋人のように親しげに背後から。
「────……」
「ッ──!」
あまりにあからさまにカリヴァーンに動揺が走った。さて、アルトリウス公の声など知る由もないが上手く聞こえたらしい。
初めて攻撃に弾かれる以外の感触。目を開けるとカリヴァーンの頬に薄らと傷を負わせていた。瞬間、ぴきりと羽から音がした。驚いて視線をやると、羽の一つに罅が走っていた。
「そのブリキの体。壊れないという訳ではないようだ」
「……案外冷静だな」
「人間とでも戦っているつもりか?」
カリヴァーンは頬の傷を指でなぞった。傷の程度を測ったのだろうが、あの程度の傷はものの数十秒で完治する。一方こちらも自動修復は行われるようだが、今一つ速度が遅い。しかし単純な頑強さならばこちらが上だろう。
「……伸縮自在の刃の翼。触れ辛いものほど干渉できる左足。嘘をも嗅ぎ付ける嗅覚。どこからでも必ず敵を捉える鋼糸の網腕。そしてそれは、エネルギーを喰って貯める力の腕か。聞いていた通りだな。大した絡繰りだな。手を焼きそうだ」
でもな、リオン。とカリヴァーンは幼子を諭すように言う。
「そんな絡繰りがあっても、どんなに崇高な信念があっても、人間を止めても。怪物に堕ちようが」
「……」
「……お前では、俺には勝てないよ」
答えの代わりに足と羽と糸で全力の推進力を得て真っ直ぐに突っ込んで槍のように蹴りを放った。身を捩るだけで躱された。通り過ぎ様に糸を走らせ、羽で打ち、拳を薙ぐ。
体に触れる寸前で全て弾かれる。いやそれどころか身体中に衝撃が叩きつけられた。吹き飛ばされる最中、これは致命の隙だと本能が喚き散らす。
着地してからでは間に合わない。衝撃にも抗えない。故に辺りに張り巡らせていた糸で無理矢理に吹き飛ぶ体の軌道をずらした。
瞬間、体のすぐ横を破壊が通り過ぎた。地形が消失したのだろうが視線をやる暇はない。
(……知ってるよ)
勝てる訳はない。
カリヴァーンの攻撃は避けきれない。高速移動を続ける事で軽減はしているが、方向転換をした所で、単調な動きをした所で、すかさず奴の光が体を打つ。だが止まる訳にはいかない。これは想定した内、この体の無事はとうの昔に切り捨てた。
動け。動け。動け。
それこそ壊れた人形のように、糸が切れて動かなくなるまで。
もしくはその役を演じ切るまで。
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