第6話
それは、蜘蛛の糸のように脆かった。強く撮むとそれだけで崩れてしまうその金と銀の糸。
視界中に溢れるそれ等は、あまりに脆く、あまりに膨大で、鬱陶しくさえあった。
視界の中のそれを容易く壊せる自分が、そんな物に価値や違いを見出す事はなかった。
『忘れちゃあ、駄目だぞ』
ああ、そうだ。言われたのだ。だから守っている。どうしてかも何があったのかも覚えてはいないけど。
『忘れないで。君は──』
最初の記憶によく似たその言葉だけが、残滓のようにこびり付いている。
いつの事だっただろう。誰の物だっただろう。どこでの言葉だっただろう。
何も思い出せない。遠くで、悲しそうに、稲穂の様な金と銀が揺れていた。
──ふわりと、視界の端でリズが浮き上がった。
「────……」
カーテンの無い窓から月明かりが差している。
結局はミコトの家に戻っていた。
考えるのはあの傭兵達の事。おそらくここを見つけられたのは偶然だ。ミコトの足跡でも辿って調査していた所、最近男の旅人が森に入って返ってこないという話を聞き、結界を見つけたのだろう。傭兵は一名逃がしたが、良くも悪くも連絡手段が乏しいこの時代だ。追手がかかるまで数日は掛かる。
ふとリズが仄かに警戒色で光っている事に気が付いた。リオンはベッドから上体を起こし、扉の方を向いた。
「……リオン、まだ起きてる?」
控えめなノックの後、か細い声が聞こえた。ふわふわと浮きっぱなしのリズに視線を送ると、察しよくリズは元の位置に戻った。
「ああ」
「入っても?」
「大丈夫だ」
一拍あって、き、と扉が開く。ミコトがいた。いつもの白衣ではない。リオンが物置から探し出して宛がった寝間着を着て、おずおずと部屋の様子を見渡しながら入って来た。
「……なぜそんな挙動不審なんだ」
「だって、入った事ないし……」
言いながらミコトは腕に抱いていた大きな枕に顔を埋めるようにしてこちらを睨んだ。なぜ枕を持っているのかと聞くのも今更だった。
「ほら、おいで」
ぽんぽんとベッドを叩く。照れ隠しなのか、また枕で隠すように小さく笑ってミコトはリオンの隣に座った。
「で、脱がせていいのか?」
「エッチな事はしません」
「なにぃ……?」
「……今日ぐらい一緒に寝たいなって。駄目かな。朝までで、いいからさ」
「かわいい。OK」
ミコトの腰を引っ掴んで投げるようにベッドに転ばせる。わざとらしい悲鳴を上げながら、ミコトはけらけらと笑った。
「えい」
ミコトはリオンの手を引っ掴むと、手袋を引っぺがそうとする。
「……おーい」
「何で君は寝る時までマスクと手袋なんだ」
「生憎赤ちゃん肌でね。おいやめろっ、離せ、この」
「どうせマジックで魔方陣か何か書いてるんだろっ、見せなさい笑ってやるから……!」
「やめい!」
リオンの非難の目を無視しながらくつくつとミコトは喉を鳴らして笑う。
「リオンは変なやつだなぁ」
「変だ変だというがな、君もよっぽだだぞ。話し方も服装も」
「……格好の事を君に言われたくないんだけど。B級アメリカ映画みたいな話し方だし」
「まあ、国を転々としたからな。故郷と呼べる場所もなければこういう事にもなる。そもそも"言語国境崩壊"があるからな」
「"失語郷の癇癪"というやつだね? 私も本当に色んな所を巡ったから助かったけど……」
「どこに行った?」
「ヨーロッパをぐるりと回ったね。カムチャッカから徒歩だよ」
「それは凄いな。私はエジプトからだ。ヨーロッパをぐるりと通ってきた事は同じだがな」
自然とミコトはリオンの手を持ち上げて自分の頬に当てている。手の感触を覚え込むかのように、ミコトは口と目を閉じて、少しだけ手に力を入れた。
「皮手袋の感触だ……」
「はいはい」
消え入るように会話が途絶えたが、気まずいものではない。それは、十秒間ほどの沈黙だっただろうか。ミコトにとってはきっと覚悟する時間で逡巡する時間だったと思う。
やがてぽつりぽつりと零すように、ミコトは話し出した。
「……追われてるんだ」
「ああ」
「"人類至上主義(ヒューマニズム)"って連中だ。それに加盟している国々の首脳たちも秘密裏に探しているらしい」
「"人類至上主義(ヒューマニズム)"……」
その名の通りの組織である。まるで人間の様な人形(ドール)を嫌悪する人種は紀元前より存在している。特殊宗教ともいえる規模は世界中に根付いており、当然派閥もある。テロリスト紛いの武闘派も多い。
「私の事を知っているのは、それこそ数人らしいけどね」
「そうだろうな……」
科学が廃れ、生産性と安定性の無さから歴史の影に回っていた魔術と人形が台頭する時代だ。4人目の"神の指(マエストロ)"は大量の兵器を生み出す金の鶏。それは時代のうねりの中心となり、辺りには血と死が積み重なるだろう。おいそれと明るみには出せない。
「あとは、私が殺した人達の家族とか友人とかが個人的にっていうのもあるかな。今日のは、たぶんどっちも」
自嘲じみた笑みでミコトは言った。
「結果的に街ごと滅ぼした事もあったからね。無理やり従わされていた人もいたと思う。でももうその頃には慣れていた」
「奏とワルド。あの二人は?」
「最初にあの二人が助けてくれたんだ。私を殺す方向で話がまとまったそうで」
「殺す……?」
「うん。物心つく頃から変な施設に居た。何の研究をしていたかは知らない。黴臭い所だったよ。クローンでも作りたかったのかもね。無理に決まっているのに。いつまで文明人でいるつもりなんだか」
恐らく何らかの研究機関にいたのだろう。それはわかるが、研究者からすれば二度と手に入らない素体であるはず。様々な考えがあったのだろうが、それにしても短絡的に思えた。
(行き詰って解剖に踏み切った可能性もなくはないか──?)
いや、それにしてもおかしい。彼女は女だ。少なくとも、その”遺伝子を持った解剖可能な素体”の確保は難しくはない。科学の代わりに狂気を要する方法を用いるならば。
「……リオン?」
ミコトの声にはっと我に返った。
「何で殺す事に決まったのか、って思ってた?」
「……ああ」
「まずね、私は5歳の時に奴等に見つかったんだけど、それまでの両親は育ての親で実の親じゃなかったんだって」
「確かなのか……?」
「さあ。DNA鑑定なんて技術も昔はあったらしいけど。でも、両親と、後は両親に産ませた弟や妹も何人か解剖していたから。何かしらの確信は得たのかもしれないね」
「……そうか」
「それで、私が初潮を迎えた時だったかな。まあ多分進展しない状況に煮え切って受精させようとしたんだろうけど。そういう事を迫られた」
淡々とした口調だった。あまりに平淡な声が、逆にリオンの不安を煽った。ミコトの頬に触れている手とは逆の手で、ミコトのもう一方の手を握った。ミコトは少しだけ目を見開いて、そして、小さく笑ってくれた。
「抵抗した。当時そういう知識はなかったけど、本能的に怖かったのかな」
「ああ」
「良性の遺伝子が選ばれたのかやたら屈強な男だった」
「……それで?」
「ガスを吸わされて容易く拘束されて、眠らされた。そのまま寝てればよかったんだろうけど、よりによって男が覆いかぶさってくる所で目が覚めた」
聞くに堪えない内容だった。想像力が勝手にその光景を頭に再現し、不快感が滲む。
「悲鳴も上げなかった。薬を嗅がされていたせいで脳が機能亢進していたのか、私は直感で何かを口にした」
「何か……?」
「契約呪だ。人形を支配下に置くための呪文。男は一瞬だけ虚ろな目をして、そして辺りにいた研究員に殴りかかった」
ただ嫌でも想像できた悲惨な結末は、あらぬ方向に転がった。
「男はその場の人間を殴り殺すと、甲斐甲斐しく私の拘束を解いて服を羽織わせた」
愕然とした。それはつまり、ミコトは──。
「今度は髪や血などの契約代償どころか言葉もいらなかった。視線をやるだけで、今度は殴り殺されて首の骨が折れていた研究者達が立ち上がった。すぐに制圧されたけどね。殺される事が決まったのはそのせいかな」
はは、と乾いた笑い声で、ミコトは笑って、何でもないようにそれを言葉にした。
「人を支配できたんだ。何でも言う事を聞く人形として」
静かに驚き、目を見開いた。いや、ただ言葉を無くしていたのかもしれない。
「たぶん、私が作る人形の性質のせいだと思う」
「……待て。待ってくれ。それはおかしい。そんな事が出来るのなら、君はあの奏とかいう女に負ける事もないだろうし。人を殺さずとも無力化できるはずだ」
「死体なら、視界に入れるだけで操れるよ? でも生きている人は契約呪がいる。奏はこの力の事を知っているし、敵はそれほど待ってくれない。無敵の力という訳じゃないよ」
「……とは言え、人間至上主義の連中からすれば、放置出来る事でもない、か」
「うん。自分達が弄っているのが魔王だったと気付いたんだってさ。だからその前に解剖して、素体だけでも確実に手に入れようって所だろうね」
ミコトはそこまで言って、小さく息を吐いた。
「これが私の過去だけど、本題はここから」
「本題?」
「リオン、ここに残って」
彼女は何の臆面も無しにそう言った。リオンの体がびくりと反応する。体を強張らせたリオンに、ふ、とミコトは笑う。
「……ごめん。意地が悪い言い方だった」
「いや……」
「あいつ等に見つかったから、私は出ていく。ここは好きに使ってくれていいと、そういう事。リオンはこの場所が必要でここにいたんだろう?」
図星だ。しかし今もなお真実なのかと言えばそうではない。それなのに。
「奏達なら大丈夫だよ。そこまで問答無用の連中じゃない」
そうじゃないと口にする事が出来ずに、口を中途半端に開閉する。
〝今ここにいるのはこんな結界なんかのためじゃない〝
〝奏達などどうでもいい。君はたった一人で大丈夫なのか〝
かけてやりたい言葉はこんなにも明白なのに。平気じゃないと、と答えられるのが。それに尻込みしてしまう自分が露呈するのが恐ろしかった。
「……平気だよ、大丈夫」
見透かされたようでどきりとした。そしてその答えに安堵した自分を嫌悪する。
「君は……?」
「え」
「リオンは、一人でも平気……?」
ミコトはそれ以上身を寄せる事も、離れる事もせずに、ただ絞り出すようにそう言った。
「ずるいな、ごめん、忘れて」
「……ずるい、とは?」
話すかどうか、一瞬だけ悩んだのだろう。ミコトはごそりと背中を丸めるように身動ぎをしてから続けた。
「リオン、君が私に言った最初の言葉を覚えてる?」
「確か、喉が渇いた、と」
「ううん。君はね、私が外で君を見つけた時、少しだけ意識を取り戻して言ったんだ」
「憶えてないな……」
「……"一人は嫌だ"って、言ったんだよ」
体を硬直させ、リオンは目を瞠る。呼吸の仕方が分からなくなり、ひりひりと喉が渇く。ただ、そんなリオンの様子に、ミコトは気付かない。小さく小さく体を丸めて、彼女は今にも消え入るようで、そんな余裕はなさそうだった。
「ああ、この人は一人ぼっちなんだなって思ったんだ。だから、そうなのだったら、いいかなって思ったんだ。傍にいるのがこんな私でも、喜んでくれるかなって」
ミコトはそう言ってから言葉を詰まらせて、ますます体を縮こませた。
「……そうか」
「いや、いや。もっとひどい。一人ぼっちの人なら私を必要としてくれるかもと思った。そうすれば、巻き込んでも許してくれるんじゃないかと思ったんだ。そんな訳ないのに」
「ミコト。いいよ、わざわざ言い方を汚くしなくていい」
「……そうだね、ごめん、ごめんね。ずるいよね」
今にもミコトは消え入りそうだった。発した言葉も、縮こまらせた小さな体も。それを抱きしめたいと思ったのは、同情だっただろう。
「……君自身が言うのなら、君はそういう人間なのかもしれないが」
傷付かないように出来るだけ優しい声を選んだ。
彼女もまた打算的で臆病で卑怯だったのだ。きっとそれはほんの人並み程度に。
「だけど、私が君を責められるわけがない」
ミコトの首の後ろに手を回して、こちらを向かせる。
「私と君は、似ているな」
「え」
「私はそう思ったよ」
「私は、どうかな。私は……」
困ったようにミコトは笑う。皮肉にもこの表情が彼女にはよく似合った。いや、沁み付いて、馴染んでしまったのだろう。
「……リオンは、私を勘違いしてるって、思うよ」
ミコトはリオンから体を離した。上体を起こしてベッドに座る。淋し気にベッドが軋む。
「私は人をいっぱい殺したけど、でもね。本当は何も気にしてない。内心では自分は悪くないって、きっと思ってるんだ」
彼女を追うように、リオンもベッドに腰かける。しかし彼女は逃げるように、今度は立ち上がって扉まで歩く。
「だって、そうだろう? 私から手を出した事はないし、こんな力を望んで持った訳じゃないし。最初は、殺さずに済まそうともした。だからそれでもやって来る連中を殺すのに罪悪感なんてまるで沸かなかった」
彼女はどんな顔でそれを口にしているのだろう。見てみたかったが、振り返って扉に背を預けた彼女は既に話し終えていて、顔に浮かぶのは変わらぬ笑みだ。
その表情が”蓋”だということぐらいはもう分かっている。
「引きずる事もない。なら仕方ないかと割り切れる。……そんな淡白な人間だ」
リオンは座ったまま。立ち上がれば彼女は逃げてしまいそうで。
「善良じゃない。強くない。面倒だなと思いながら人を殺してる」
その声は淡々と、顔は嘲笑しているように歪んでいく。
「だって、奴等が言う事と言えば、"救える命があるんだぞ"とか、"使命を果たせ"だとか、〝この世界の素晴らしさだとか〝。私のお父さんとお母さんと、生まれた事すら知らなかった"弟"や"妹"をバラバラにしたその手で──!」
ミコトの指が木の扉を引っ掻いた。がり、と音がして、ミコトははっとしてそこを一瞥し、傷付いた扉を指で撫でた。少し間があった。ミコトの語調が少し落ち着く。
「──まあでも、理屈は理解できるんだ。最低私が解剖されても少しは人の役に立つ。子供を作らされても、兵器を作らされても。犠牲はたかが人間一人。それで二人以上が救えるのなら意味はあるかもね。考え方自体は、むしろ嫌いじゃない」
"でも、でもね"。とミコトは続ける。
焦るように、逸るように、語気が荒れていた。顔には歪んだ笑みが張り付けられている。
「──なんで私が、大嫌いな連中の為に、そんな事しなくちゃいけないんだ?」
ミコト、と彼女の名前が口を付くが、ミコトは捲し立てるように続ける。
「見当違いなんだ。"救ってくれ"なんて。だって、私はもう世界に好きな物なんてない。私は──」
最後に膿を吐き出すように、彼女は告げる。
「私は、こんな世界、滅ぼしてやりたいのに」
◆
傭兵の男が荒地を駆けていた。転げそうになりながら必死に足を動かす。待たせていた馬が、機獣に背中を一口齧られていたからだ。
(だから、金属の鞍は駄目だと言ったのに……!)
あの黒衣の男からはうまく逃げおおせた。不測の事態が発生した場合、指定された場所に行く。それもまた契約で、それでもまだ報奨は出る。
だが失敗した時の準備まで十全に行っておくほど彼等は抜け目のない集団ではなかった。杜撰な準備で用意した馬は死んだ。電話など半世紀以上前に無くなった。
手紙は脚が遅すぎる上に、そんな郵便サービスもまた既に廃れて無くなった。この時代ではもはや、直接顔を合わせるしかないのだ。だから。
「だか、ら……」
だから、そうだ。あれ。
目の前に電話機が置いてあるのは変なのではなななななな、な。
『いい、そっちはいいんだ。ほら、何よりも報告だ。大丈夫、お前の目の前にあるのは古めかしい黒電話。盗聴の心配もないだろう』
しかし、しかし。だって、電話など。子供の頃壊れたそれを祖父にチラリと見せてもらって以来だ。
『安心していい。それでお前の仕事は終わりだ。家に帰ってお湯を沸かしてシチューを温めて、暖炉の傍のソファでゆっくりとワインを飲めばいい』
あ、ああ。そうだな、それはいい。金もたくさん入る。地下にある燻製をもって来よう。
『それは素晴らしい。ならばほら、その電話口に、ほんの、一言二言だ』
「ああ……」
その電話機はどこかぼんやりとした感触だった。
「もしもし」
『ああ、もしもし』
手に取り、耳に当てて今日一日の事を話した。朝起きたところからだ。ずいぶんな無駄があったが電話口の相手は寛容に聞いてくれていた。
「そうか」
男は受話器を置いて、ゆったりと安楽椅子に腰掛けて微睡みながらグラスを傾ける。
「おやすみ」
そして、男は荒野の真ん中に膝をついて座り込み、虚ろに開いた瞳に干し肉とシチューとチーズと赤ワインを映したまま殺された。痛みもないうちに殺された。じゅわりと熱した鉄に水滴が落ちたような音がした。骨と肉と皮が、炭となって灰になって塵になって、荒野に吹いた。
「リオンか」
傭兵を殺したそれは、傭兵が来た方向を眺めて呟いた。
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