第5話
『あんなすれ違っただけの男に何を感じた訳もない』
『私達がこういう行動に出る事は、分かっていたわよね』
『夫、と言ったわね。……おぞましい』
『本気で未来を考えていた訳じゃない癖に』
──無機質な言葉が、頭の中で渦巻いている。
「あ……」
自宅のベッドで目を覚ましてすぐ、ミコトは自分が気絶した要因を思いだした。
「──リオン!」
丁寧にかけられていた毛布を跳ねのけ、立ち上がる。見渡した限りではどこにも人の気配はない。
「リオン、どこ……? リオン……!」
あの二人の強さはよく知っている。目的がリオンを殺す事だとも覚えている。なかば心のどこかで諦めながらキッチンを覗き、階段を駆け上り。そして。
「む、目を覚ましたか。済まない、先に湯を借りた」
「え──?」
風呂場で全裸で体を拭くリオンを見つけた。思えば全身黒尽くめのリオンの肌をこんなにはっきりと見たのは初めてで、思わずまじまじとその全身を観察する。
正確に言えば股間にはタオルが巻かれていたのだが、その全身はミコトの視線を奪うには十分だった。
鍛え抜かれた体はもちろん、ミコトの目を引いたのは、人間の物ではないその足。
鉄のようなブリキのような、見ただけで未知の素材だと分かった。
「大丈夫だ、ミコト」
呆れたように、リオンは笑った。
「まあ何となくだが、性的な目線でない事は理解しているぞ」
自分が舐め回すようにリオンの体を見ていた事に気付いて、ミコトは数秒固まった後──。
「──ご、ご、ご、ごめん!」
ミコトは顔を真っ赤にして浴場を飛び出した。リオンは対照的に落ち着いていて、しっかりと服を身に着けてから脱衣所から姿を現した。すぐにミコトと目が合った。ミコトはさっと目をそらす。
「わ、悪気はなかった。ほ、ホントに」
「それは構わないが、警戒するな」
ミコトは自分でも意識しないままにベッドの端まで逃げて体を隠すように枕を抱きしめていた。見兼ねたようにリオンは小さく笑ってベッドの端の方に腰を下ろした。
「怪我は痛まないか」
「……うん、大丈夫」
「そうか。君は3時間ほど眠っていた。食事は冷蔵室だ。温め直そうか」
「う、うん、助かるよ」
そのやり取りを最後に部屋の中に沈黙が下りた。外は変わらず晴れ。何事もなかったかのように白い花弁が散っては舞っている。ミコトはその静寂にせり上がってくるような焦りを覚えた。
「ど、」
焦りに任せて口を開いたのは、きっと〝それ〝をリオンの方から言われればもっと傷付くだろうと、そんな小賢しい考えが働いたのだ。
「どうするの、これから……?」
少しだけ間を置いて、リオンも口を開く。少し硬くて、何気ない口調だった。
「ああ。ここを出るつもりだ。迷惑になってもいけない」
「……そうか、うん。そうだよね」
再び沈黙が部屋を満たす。まるで空気が湿って水が溜まっていくように、じめじめと空気が重くなっていく。
「悪いと思っている」
「え……?」
「私はな。優秀で、外見もよく、頭も良いが──」
一瞬だけ言葉を詰まらせてから、“誰かを守れるほど強くはない”と、リオンは零した。
「……そうか。うん。そっか」
「……すまない」
「ううん。私こそ、ごめんね」
ミコトは特にそれ以上何か反論するわけでもなく、あっさりと別れを認めた。その顔にはせめてもの笑みが作られている。
「今すぐ、出て行くの……?」
「いや、そうだな。彼等が再来するのは一週間後だ。そう急ぐこともない」
ミコトは一層笑って見せる。リオンもぎこちなく笑う。その不自然な空気に吐き気がした。
「君を、少なくとも人参ぐらいはまともに切れるようにしないとな」
「……うん」
それでも。息が詰まりそうな喪失感をごまかす方法をそれ以外に二人は知らない。
◆
今日の夕飯はオムライス。以前卵を三つも使って作ったふわとろオムライスは、ミコトから今までで一番のリアクションを勝ち取った。今日はミコトがそれを作っている。
この後は洗濯に掃除の披露が待っているらしい。ミコトが妻らしい働きを披露してやると、突然言い出したのだ。
「……悪魔的すぎませんかね!」
「特別珍しい料理でもないが」
こんこん、と自分の分のオムライスをリオンはスプーンでつつく。しかしまあ珍しくないという事は長く愛されているという事だ。一口掬って口に運ぶ。優しい味だ。
「どうすればいい。卵を手に入れた時、私は卵かけごはんとオムライスと茶碗蒸しと。無限?これが無限か……?」
「何を言ってる」
興奮したミコトの耳には、そんなリオンの言葉は届いていない。このオムライスを作れるようになりたいという事で、案外器用に作り方を覚えると、白衣の上からエプロンをしてそして出来上がったそれを自分で平らげた。
「ひにゃっ!?」
ふに、とミコトのお腹をつまんでみる。
全然肉がついていない。一体毎日あれほど食べている物はどこに消えているのか。むー、と恨みがましい視線がこちらを向く。
「……言っておきますが」
「んー?」
「私が食いしん坊なのではなく、料理がおいしいからでありまして……」
「と言うより君の以前の食事が酷すぎたんだ」
白ご飯にサプリふりかけとは恐れ入る。
「正直恋しくなる時もあるけど」
びしりと脳天にチョップを落とす。笑い事ではない。この滅びゆく世界は医療機器さえ機獣に変化してしまう。一度病気に懸かれば、痛風や糖尿病でさえ致死の病と化すだろう。
「これで十種類目か」
「うん」
「とりあえずそれをローテーションすればいい。あとは日本語の料理本もある」
「料理本? うそ、どこに?」
「あるよ。コミックばかり読んでるから知らんのだ」
「コミック? 何の事だろう……?」
もはや隠す気もないだろうに、彼女は楽しそうにそんな事を言う。そう言う遊びのつもりだろうか、全く幼稚な事だ。くすぐったくて頬が緩んでしまう自分も人の事は言えないが。
「リオン、リオン」
「なんだ?」
「ふむこんな言葉がある。"八王子命"曰く、コミックも料理本も用は絵と文字の羅列であり、そこに貴賤などない"。ふむ」
「……なんのつもりだそれは?」
「君の真似」
「……私はそんな芝居がかった話し方ではない」
「ふふふ、韋駄天の如しと言われたこの私いふぁいいふぁいいふぁい……!」
「不細工な顔してどうしたハニー」
ぐりぐりと頬を手で挟み込んでその口を塞ぐ。この女、ちょっと気を許したと思って調子に乗りやがって。
「っもう!」
ミコトはリオンの手を掴んで手を振りほどくと、不機嫌そうな顔を作った。しかし、耐え切れずにへらと表情を崩す。
「よし、次は洗濯だ」
「ああ」
するりとミコトはリオンの手を握ると引っ張るようにして歩いた。ミコトは丁度回り終わっていた洗濯物を籠に移して持ち上げる。ぽろんと桃色の下着が零れてきた。
「……中止」
「正直、時折り普通に干しているが」
「リオンがまた盗もうとするから中止」
「了解した」
さてまあ、これも大丈夫だろう。水の追加と除水を人力でやらなければならないが、力仕事ならジョータローもいる。それに彼女はやろうとしなかっただけで、本来要領もいい。家政婦も、世話焼き専業主夫も必要ない。彼女に必要なのはそんな役回りではない。
「……じゃあ、次は掃除、かな」
ふと、沈黙を許していた。二人しかいないのだ。言葉を繋げなければ、すぐ空気は静けさに冷えてしまう。はっと顔を上げれば、困ったように苦笑するミコトがいた。
「ああ……」
せめて残る時間は、とそんな暗黙の了解の中の日常。両者とも判っていたとしても、口にするのは無粋だった。
「ほらここは──」
つとめて明るく、ミコトはリビングと、キッチンと、ベッドとを披露して回った。
全て一部屋の内だ。リオンは玄関に立ったまま、それを眺める。
「……以上、終わり」
ぽつんとミコトが言って手が離れた。白衣をふわりと膨らませて、ミコトはこちらを向く。
「どうかな? 完璧?」
「完璧だ、君はやはり覚えが良いな」
「……そっか、完璧か」
家事などあっという間にものにしてしまった。様々な才能に恵まれているのだろう。人類の至宝"神の
「ミコト」
「うん」
それを確認して、まとめて玄関先に置いていた荷物を手に取った。空の色は黄昏色。外の時間での夜を示す、ここに来た時と同じ空の色。時間だった。
「それじゃあ」
「うん、じゃあ」
後ろ髪を引かれる思いはあった。ただ足を止める理由にはならなかった。だから振り向いて笑顔を見せた。
「楽しかったよ、ありがとう」
「……うん、私もすごく楽しかった」
それからリオンは目を伏せるようにして視線を外し、ミコトに背を向け、外へ出た。一心に小さな丘を下りていく。森に入り、降り積もった白い花弁の地面を進んだ。
「──む……?」
ふとリズがいない事に気が付いた。そう持ち主からは離れられないはずだが。
辺りを見渡すとその姿を見つけた。そしてその傍にもう一つの人影を見つける。のっぺらぼうのマネキン人形・ジョータロー氏その人である。彼は疲れたように木箱に腰かけて、じっと目の前に浮かぶリズを見つめていた。
「リズ」
名前を呼ぶと、リズはそのまま一瞬だけジョータロー氏と対面を続けた後、こちらにふわりと舞い戻った。
「話していたのか?」
『質問の意味を理解できません。マスティ』
冗談交じりに言ってみるが、機械的な声はユーモアなど理解しない。
◆
森を出て、すぐに気が付いた。既に辺りは真っ暗で、リズがフワフワと辺りを淡く照らす。
街がおかしい。異常という事ではなく、少し空気が変わっている。それに人が減っていた。誰の目にも明らかなほど、町中が閑散としていた。時刻は恐らく20時を過ぎた辺り。さほど夜が更けこんでいる訳でもない。数人程度は道の端に見かける。故に緊張感はなく、ただ物寂しさと静けさが漂う様だった。不審に思って、例の大衆食堂に足を向けた。
頼りない光が入口から漏れている。ただ人の気配は無い。ざわざわざわと、囃子のように騒ぐ失職者達が欠けているのだとすぐに気が付いた。
「ん、おお、よう兄ちゃん。今度は一週間ぶりだな」
「……何か、あったのか?」
「ああ、まあ、あれだ。少し、機獣の被害が出た」
大衆食堂の主は、苦笑しながら言った。手はその間にも動き荷物を仕分けまとめている。洋服を詰め込んだキャリーケースを叩いて、やり切れなさそうに、しかし歯を覗かせて笑う。
「まあ、限界は来てたよな。いくら炭鉱掘っても運搬の方法もどんどん限られていくし、周辺諸国は潰れて需要は減っていくばかりだ」
「どこに行く気なんだ?カザフスタンの首都はここからだとかなり……」
「アスタナは“ラピュタ”のラクダが踏ん付けちまったよ。アルマトイも、アクタベもタラズもオラルもセメイも。いつの間にやら」
ああ、それは、ならばもう──。
「俺の祖国は滅びたらしい」
からん、と氷の音がした。ふと見るとカウンターの向こうのシンクに大量の食器が置かれていて、そのグラスの一つが中で氷を溶かしている。その近くには食料と思われる幾つかの缶詰、麻袋に段ボール。
「未来のために未来のためにって節約してたせいか、食べきれなくてなぁ」
「持って行けばいいだろう」
「長旅になる。かさばる物は置いていくさ」
「ああ、そうか。そうだな」
「あんたにやるよ。家ごとな」
「戻らないのか」
「ああ。まあ墓参りぐらいはいつか来るかもしれんが」
「墓参り……?」
はっとしてカウンターから厨房の方を覗き込んだ。すっかり灯りは消えている。その奥に人の気配は無い。寝静まっている訳ではない。こんな夜更けに出かけている訳もない。
「──何でだろうなぁ。バカ息子の為にも、あんな太った女の為でも死ねる自信はあったんだ。チャンスすらくれないんだもんなぁ」
硬直した喉は気の利いた言葉を作れなかった。しかしおそらく、沈黙が一番求められていたのだろう。また、からんとコップの中で氷が溶けて落ちた。
「……いつ出るんだ?」
「明日の朝だ。出来るだけ固まって移動した方が良いし、兄ちゃんもよければどうだ?」
「いや、遠慮しておく」
大勢で移動するのは、リオンに限って言えば危険きわまりなかった。主に周りの人間がだ。
「ま、気が変わったら言ってくれ。寄り合い行ってくる。ここ、好きに使ってくれな」
「ああ、助かるよ」
マスターはキャリーを引きながら出て行った。がたんがたんと階段を構わず引き摺る音はどこか投げやりだった。
その背中を見送って小さく息を吐きながら椅子に腰かけた。途端に疲れが体に押し寄せる。
当初の予定通り中国に入る事になるだろう。
ただ車も馬もない。国境越えはどうするか。今更中国が亡命者に執心しているはずはないので入国自体は容易だが、あそこも国土の半分以上は機獣の集団生息地となっている。
「う……」
ぶるりと冷気が肌を付く。寒い。暖炉が消えていて冷たい外気が入り込んでいる。この寒気の中を身一つで越えていくのは骨が折れそうだ。
しかし機獣の生息地になっているという事は身も隠し易いという事。
食糧はどれぐらい持って行くのが良いだろうか。重すぎると足が傷むし、少なすぎると地獄を見る。ともあれ腹の中にはできるだけ詰め込んで、朝になったら出発するのが良いだろう。
(……良い?なにが良いというのだろう?)
そんな思いが首をもたげた。
そこまでして逃げても別に何か目的がある訳ではない。リオンが世界を巡っているのは、ただの我が身惜しさの逃避行でしかない。
終わりはなく、あるとすれば捕まった後の惨めな末路だけ。
足が、体が重い。このまま眠って、そのままリオン=アルファルドの生涯を終えられるのならばそれでもいいかと思う程、疲れていた。
ずるずると机に覆いかぶさるように頭を下げて、目を瞑って──。
『リオン、リオン、これ見てくれっ』
幻聴が耳を付く。そう言えば名前を呼ばれたのは随分久しぶりだった。
「──ああ、そうか……」
きっと彼女に哀れな怪物としてではない未来を期待してしまったから。
結果としてそれは分不相応なものだと突き付けられただけだったけれど。
──不意にピー、と短い電子音がした。はっとして顔を上げるとリズが赤く点滅している。
(甘えるな、情けない……)
逃げるように飛び出た世界は驚くほど敵だらけだった。同時に呆れるほど善良でもあった。だけど善良さには限りがあって、リオンに割り振られた分はどこにもなかった。この地にもどうやら無かったようだ。
「……リズ。登録番号5515」
『この家屋を出た後、敵性魔術反応と思しき14名と接触し、更に離れていきます』
「5516」
『行動及び存命を確認。5515と共に移動しています。5515は虚偽の報告をしていました。以後、5515を敵正反応として登録しますか?』
「いや、いい。敵の詳細は?」
『機獣ではありません。人形ではありません。別所に存在する16名と同様に魔術師に該当。登録個体に該当しません』
「わかった」
黒のターバンを被ってマスクを上げる。天井を見上げた。吹き抜けになっていて、ロフトのような二階の更に上に天窓がある。およそ5メートルと言ったところ。
「戦闘行動」
『了解』
──"それは、水面に落ちた月の加護"
その左足は、触れられない事を許さない。
階段を上がるような気軽さで〝空を踏む〝と、跳躍した。右足で壁を蹴って、もう一度空を蹴って梁に乗る。そうすると天窓にたやすく手が届いた。驚くべきはその速さ、そして静けさ。するりと外に出る。警戒すらせず立ち上がった。髪も服も肌すらも黒く夜に溶けている。
『直近の敵を方向指示。南南西15メートル地表』
空に触れられるのは左足だけ。強く、今踏みつけている空中を蹴りつけた。夜の街の上空を跨いで、着地したのは一つ隣の家の裏。潜んでいるつもりの敵の背後――。
――いや、正しくは〝着地〝ではない。足を付けたのは、地面近くの宙空だ。ゆえに無音。敵もさる者、ふわりとそよいだ風に振り向くが、一呼吸ほど遅い。膝の裏を蹴り跪かせ、首筋にナイフを当てる。
「動くな息を止めろ。挙動したとこちらが判断すれば殺す」
男はその言葉を聞き、強張っていた体から力を抜いた。抵抗の意思はないと判断する。
(傭兵か……)
黒のミリタリースーツにブーツ。あの人形のように今時銃を隠し持っている事はないだろうが、魔術師や人形の風体らしくはない。
「リズ」
『捕獲しました。解析します。必要時間推定64時間です』
「……命令行動をキャンセル。警戒行動」
『了解。マスティ』
リズが捕獲していたのはこの男の"機工人形"。リズと同じくほぼ端末の様なものだが、それでも誰でも使えるものではない。
「……ゆっくり息を吸え」
リズは索敵に特化させたピーキーな個体だ。男の端末から情報は引き出せないだろう。
「お、お前、何者だ」
「質問はこちらからする。目的は何だ?」
数秒、沈黙が流れた。話すべきなのか迷っているのだろう。時間はない、この男は処理して次に行く。
「待て、分かった話す。俺と街にいる兵は雇われの傭兵だ。村人を拘束し話を聞く事、目的は最近見慣れない人間を──」
──リオンはするりと男の喉を掻き切った。
頸動脈と気管と声帯にキチンと刃を通す。パクパクと死にかけの魚のマネをしながら倒れた男を素早く蹴飛ばし心臓をナイフで突いてから懐を確認する。そこにあった物を見て目を瞠り、舌を打つ。
『心拍の停止を確認』
「……敵正反応探査」
『了解。────終了。19名が先程の大衆食堂に踏み込んでいます』
「数が合わないな」
『残る敵性反応10名は魔力信号を消失させています。考えられる可能性を列挙します。六ッ星以上の魔法の施行・機工人形の機動による妨害、何らかの方法での索敵範囲外へ──』
「消失地点は?」
『南西1100mです』
弾かれるように振り向いた。丁度背後にあったその場所は、街の外れ。視線の先では、鬱蒼とした森がより濃い黒で夜を塗り潰している。
"俺と街にいる兵は"。
"見慣れない人物を"。
嘘を言っていた訳ではないだろう。ただ事実をはぐらかして時間を稼ぐぐらいの心算はあったはず。そして懐にあった写真染みた似顔絵だ。
どこか西洋風の街並みの大通り。その端で丁度振り返った黒髪の少女が映っている。
「行くぞ」
『了解。現地点からの離脱を開始します。ルート指示を開始──』
横目で先程殺した男を見る。切り裂いた頚動脈から流れ出した血が池を作っていて、男は目と口を半開きにして息絶えている。
──"リオンリオン、ねぇ、リオン"
久しぶりに人と長く接したからか、表情と声がこびりついている。その顔が血に沈み、その喉が切り裂かれている光景が脳裏に浮かんでしまう。
「……すぐにこちらに気付かれる。交戦するにしても撒くにしても森に入った方がいい」
『────……』
「可能なら、ミコトにも知らせよう。そのぐらいの、義理はあるはずだ」
恐らく街を出た方の10名は雇われではない。森で反応が消えたという事は、あの結界の中に入ったという事だ。間違いなく、この傭兵とは比べる事も出来ないほどの手練れ達だ。
リズは何も言わない。いつもならここは何があろうと逃げの一手だから、対処が遅れているのだろう。
きちり、きちりと音を立てる己の胸に手を当てて、冷たい空気をゆっくりと吸い込んで、吐く。大丈夫、大丈夫だ。手練れといえどこの時代の若い傭兵だ。碌な訓練設けていない山賊崩れだ。罠に追い込むのは難しくないからと、宥めるように。臆病さが起動しないように、語り掛ける。
『──了解しました』
「……? あ、ああ」
ふと、違和感が森に向かうリオンの足を止めた。それを、すい、とリズは追い越していく。
『ルート指示を開始します。随行して下さい』
「……ああ」
それはとても些末な物だったのだろう。違和感を感じた事すらもすぐに忘れると、リオンは走り出した。
◆
深々と首の付け根に突き刺したナイフを引き抜いて、リオンは血を払い死体を蹴やった。
「っこれで、最後か……」
森に向かったリオンに雇われの傭兵たちが群がってきた。大衆食堂に踏み込んだ際に人数が足りない事に気づいて、仲間の死体を見つけたのだろう。撒く事は出来ず、先にミコトを追った手練れの魔術師達と合流させるわけにもいかなかった。
罠の解除を後回しにしていたのが幸いだった。問題なく、殲滅する事が出来た。
「ミコト……」
嫌な熱さの血が体中を巡って脳をも侵している。興奮と不安と、あとは恐怖と。
とは言えそんなものにかかずらっている暇はない。がさがさと一直線に例の場所に向かう。
切って張り付けられた世界の境目。数分もせずに辿り着いた。
「……無茶をする」
この自然結界は世界に干渉するほどの大魔術だ。突破が難しいのは分かるが、酷い綻びになっている。ガラスのように境界はひび割れ、あちらの景色が覗ける。手で払うようにその入口を広げて、潜り抜けた。
がらりと景色が変わる。一面の白い花。地面に降り積もった花弁。その白さが月光を受けて、ぼぅっと辺り一帯が光っている様だった。
びー、びーと場違いなけたたましい電子音はリズが放つ警戒音。
『退避してください。異常な魔力密度です。心身に重大な影響を及ぼす可能性があります。退避してください』
警告されるまでも無い。驚いて足は止まり、声も出なかった。どろりと温くなった油を吸い込んだかと思うほど、空気中の魔力が濃い。途方もない濃さの魔力が途轍もないほどの量で吹き上がって埋め尽くして、辺り一帯を飲み込んでいる。
「っ……!」
冗談じゃなく一般人が入り込めばそれだけで昏倒してしまいそうだ。魔力の奔流は肌に痛く、しかし徐々に濃くなるその中心はこちらを吸い寄せるようにも見える。
『退避──』
「黙ってくれ」
──どん、と遠くで音がした。
それは字面ほどかわいいものではない。地面も空気も激震させ、迸った衝撃はここからでも見えるほど高くまで爆風を撒き散らし──。
『──警戒態勢』
音より僅かに遅れて爆風と瓦礫の弾丸が飛来した。
「":Block(ブロック)"」
魔力の壁がリオンとそれの間に立ち塞がる。壁越しに吹き荒れるその余波に、改めて目を瞠った。白い花びらが蹂躙される。木に咲き誇っている物も、地面を飾っている物も一切合財吹き飛ばしていく。
飛来物が落ち着くまで数十秒ほどが掛かった。
それからリオンは歩き出した。走ることはしなかった。争いは終わったのだろう。虚しくなるほどの静けさが訪れていた。
(ああ、そうか……)
焦りもない。もう手遅れだと気付いてしまった。
──それはきっとずっとずっと前から。だからゆっくりと歩いていく。
『────……っ!』
延々と続くように思えた森の景色と静けさ。それを最初に破ったのは、絞り出すような声だった。苦悶と苦痛に喘いで、怨嗟を吐き出す呪いの怒号だ。
「……て、心ない……っ」
森が拓けている。重なる木々が薄くなり、隙間からその開けた場所が垣間見え始める。
──血、肉、腸。
──死体、生者。
──白い花弁に、差す月光。
──白花、夜闇、真紅。残酷で、血生臭くて、悲しく虚しい光景だった。しかし何故か、目を奪われるように見惚れていた。
「呪ってやるぞ、糞、悪鬼、悪魔、思いしれ、この──ッ」
そう叫ぶ男は半分削がれた顔で仇を睨み付けながら死んでいくだろう。哀れにも、懐から刃を取り出し、悠然と男を見下ろすその誰かに飛び掛かって──。
「──":Blast(ブラスト)"」
無機質な声に応じて吹き荒れるは爆風と轟音。今度は幾らかの指向性を持ったそれは、リオンの所まで余波を届かせる事もなく。しかし、呪詛を吐いた男を原形留めぬほどに砕いて殺してみせた。
本来は夜と花と月光のみの世界が、ビチャビチャと音を立てて血と肉でさらに美しく汚れる。
「……ミコト」
そして、リオンはそれを為した少女の名前を呼んだ。
「え」
気付いているのだと思っていたが、違ったらしい。小さな肩がピクリと揺れて、ゆっくりとその顔がこちらを向いた。大きな目が小さく見開かれる。
「どうして……」
顔の四分の三ほどは返り血がこびり付いて真っ赤だった。髪には脳漿が絡まっているし、靴は血の池に浸かってじゅぶじゅぶと音を立てている。
リオンはそれらを見て、ミコトもまたその視線を追って自分の成りを改めて見た。隠しようもない事を悟ったのだろうか。それとも今更隠そうとした自分が滑稽に思えたのか。
彼女は泣きそうな笑みをこちらに向けた。
「……どうしてここにいるんだ、リオン」
リオンは血の池に踏み入る直前で足を止め、改めて辺りを見渡した。酷い光景だ。
「大丈夫か?」
「……慣れてるから」
「そうか」
ひたひたとミコトの黒髪の先から血の雫が落ちている。ミコトはそんな事は気にもとめず、妖しく笑みを讃えている。
不思議とあまり驚いていない自分がいた。
衝撃だったのは確かだが色々と腑に落ちたという方が大きい。似ていたのだろう、自分達は。境遇も、何を求めているかも、何を諦めているかも。だから、不思議と気が合ったのかもしれない。
「大丈夫だから、ありがとうリオン。もう行ってくれ。嫌な物を見せてごめん」
ミコトはこちらに笑みを見せた。器用で、どこかこなれたような笑顔だった。
「……確かに、嫌な光景だ」
ばしゃりと無遠慮に血の池に踏み入った。腸やら糞やらが浮いていて非常に気色悪い。命をぶちまけた汚さだ。
「……何人殺した?」
「え?」
「見た所、10人ほどか」
「……その100倍でも足りないかな」
死の匂いと人の残骸に塗れてなお、彼女はいつも通り笑えるようだった。
「殺しも殺したりか」
「うん。得意なんだ、こういうの。才能があると思う」
「そうか?」
手袋を取って袖を上げ、ハンカチを取り出した。
「まあ、私から見れば下手くそだがね。もっと綺麗にできないのか全く。ほら、そこに泉がある。行くぞ」
目を丸くして言葉の意味を理解しようとするミコトに近付きながら手袋を外した。袖を捲り、ハンカチを取り出す。
「へ、下手って……んぅ」
「そりゃあそれだけ殺しの経験があって、挙句がこの様ではな」
されるがままに額や頬を拭かれながら、ミコトは眉根を寄せる。
「私ならもっと上手くやるぞ」
「……リオン?」
「私もここに来るまで大勢殺してきたが、ほとんど痕跡も残してないし、汚れてもいない。雑なんだよ君は。何事も」
何事かを注意しようとしたのだろう。ミコトは顔を拭く手を押し退けるようにして。
「リオン、あの、あんまりそういう風に──」
「つまり私から見れば」
──退けしようとして、しかし、ぐい、とハンカチ越しのリオンの手で頭を押さえつけられ、ミコトは無理やり視線を落とされた。
「君に、人殺しの才能など無いよ」
ぴくん、と手の平の下でミコトが小さく震えたのが分かった。リオンの手を押し退けようとしていた手から力が抜ける。ふふんと笑みを作ってみせる。
「すまんな、君が必死に悩む物が些事に見えて。遥か上空にいると、世の雑事など豆粒にしか見えんのだ」
ミコトの頬に手を添えて髪を拭く。
ハンカチから滲んだ血が滴り始めた。ここではこれ以上綺麗にできないだろうが、ある程度は拭き取った。きっと浸み込んだ分は二度と取れる事はないのだろうが。
「……リオン」
「ん」
泉へ連れて行こうとミコトから一旦手を離すと、今度はミコトがリオンの手を取った。
「リオンに直接ふれたの、初めてだね」
「ああ、そうかもしれんな」
「手、冷たいね」
声が少しだけ震えている様だった。気付かない振りをして言葉を紡ぐ。
「冷え性でな。君は随分温かい」
「そうだよ。体温が高いんだ。寝る時まで殆ど肌みせない人には分からないだろうけど」
「一張羅だ」
「もう、やっぱり変だ。君は変だよ、リオン。本当に……」
そうか、と相槌を打つと、うん、と短くミコトは返した。顔を上げた彼女は変わらず泣いているような顔で笑っている。諦めたように笑っている。
「──本当に、変な奴だ……」
何も拭えていない。変わっていない。下手くそな言葉では、まるで、何も。
ならばきっと、彼女は言葉を尽くすだけでは救えない所にいるのだろう。
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