第4話

「リオン」

「どうした?」

「私、ここまで来たのは初めてだ」


次の日。約束通り、二人で森に出かけていた。


「君が初めてなのか?」

「そうだね。薄々気付いてるかもしれないけど私はここから出られない」


ミコトはあっけからんとそう言った。何かしら訳ありなのは明らかだったので、さして驚きもなく返事をする。


「〈神の指先〉か」

「多分。教えて貰えなかったのは、まあわざとだろうけど」


くしゃりくしゃりと散った白い花びらを踏みながら女が木立の間を先に進む。周りの木が桜色の花を咲かせて散り始めるまで、この白い花びらは地面を覆っているらしい。


「……定期的に人が来るんだ。あと半月もすれば来ると思う」

「男なのか?」


リオンが言うとミコトが一瞬表情を固まらせた後、嬉しそうに表情を変えて口を開いた。


「やきもちかな?」

「馬鹿め。君が男には滅多に会わないといったからそいつがそうか確かめただけだ馬鹿め」

「馬鹿という奴が馬鹿と言うのは意外と真理だと思うんだ」

「すると、世界中が馬鹿だらけになるな」

「戦争だらけになるね」

「真理だったか」


残念ながら、変わらず世界は仲が悪い。


世界の偉い学者があと数十年で人間が住める場所が今の十分の一になると言っても。機獣が今もまさに人類を脅かしていても。人の世はもうすぐ終わると、そんな確信に満ちた噂が世界中に蔓延していても。

先進諸国は言葉と金と政治で、途上国は鉄と血と命で。

闘争はいつまでも続いている。

しかしそんな事は、こんな片田舎で慎ましい生活を送る新婚夫婦にはまるで関係がない事もまた事実。


「よし、このくらいでいいだろう」


山菜と茸と、あとは罠で捕まえておいた兎が二匹、手足を縛られて籠に収まっている。それで出来上がる夕飯の行方の方が、よっぽど重要な案件だった。


「そう言えば、その男はどんな奴なんだ?」

「うー……ん、何だろう。変わった人だよ。基本的には無気力で、時々気が触れてる」

「キチガイかな?」

「……そうだね。怖い人だよ。こう、長い金髪でね」


人物像を頭の中で組み立てようとしたが、ほどなくその失敗を悟る。まあいいか。とリオンは再考を諦めた。


「さて、じゃあ悪いがこれは頼んだ。ジョータロー氏」


背中に抱えていた籠を、ミコトの隣で護衛をするかのように黙して立っていた木製の人形に手渡した。木目が露出しているだけの顔では何を考えているか分からないが、"彼"は緩慢とした動作で素直にそれを体の前で抱きかかえた。


「リズ」

『声紋認証。起動しました。命令をどうぞ』


ひらり、と昼間の中空に淡い光が舞う。


「わ、わ」

「どうした?」

「これ……、第二世代の"PIXY"だろう?凄いな、初めて見た……」

「ほう、よく判るな」


ぴたりと空中に留まる『リズ』に触るか触らないかと言うところで、ミコトは興味深げにリズを凝視する。そして、時折こちらに視線を向けた。その視線を解読するに、観させろ。触らせろ。出来れば少しだけ解体させろ。との事。


帰ってきてからな、と伝えるとぶんぶんと首を縦に振った。


「手早くね。早く帰ってこないと寂しいかも知れないし、そしたらもしかしたら泣いてしまうかもしれない」

「任せろ。走れば韋駄天。舞えば天女の如くと言われたこの私だ。造作もない」

「うん、よく分からないけど期待してる」

「舞うかね」

「いらない」


ミコトはそこで立ち止まり、リオンは更に先に進んでいった。

向かうのは炭鉱の街。目的は食べ物の調達と、"今のところ魔女はいない"という報告と。

森は危険だから近寄らない方がいいという忠告。嘘を吐くわけではない。彼等が心配するような魔女はいないし、例え幻だったとしても機獣を見たのだから安全でもない。

ミコトと出会って数日のうちに一度顔は見せている。山狩りなどしてもらっては困るからだ。その時にもう少し念入りに調査をすると言ってあるのでより信憑性は増すはずだ。

ふと、直感的に目の前に境界を感じた。触れると、妙な感触。しかし、入る時の億分の一の抵抗もなくするりと体は外へ出た。幻想的な木立の森から、鬱蒼と茂る冬の森に景色が切り替わった。上下左右を見渡してとりあえず見える範囲には誰もいないことを確認する。


「リズ」


更に魔術探査の網を広げ、改めて周りに誰もいないことを確認し、リオンは目の前の藪に足を突っ込んだ。



例の店主に森は問題ないと報告をして、報酬に調味料や米やパンを分けてもらって、少し重くなった荷物のせいか、森に戻ってきた時には一時間ほどが経っていた。

それなのに、ミコトは一時間前と同じ場所で、同じ格好のままそこにいた。白い花びらが少しだけ頭に積もっている。


「お帰り韋駄天。今日からリオンはその名を欲しいままにしていいよ」

「……待ってたのか?」


こちらが近付くのを察してへらへらとした笑みを向けたミコトに、リオンは思わず呆れた声を返した。傍らにある開けられていない弁当を見ての声だ。


「甲斐甲斐しいでしょ? 一緒に食べよ」

「世間では重いと言われるらしいぞ」

「難しいね。私としては妻一人の愛ぐらい受け止めて欲しいものだけれども」

「まあ、人によるだろう。ちなみに私は力持ちだ」

「ふふ、よかった」


そこ等を歩き回った跡も無いし、白い花びらに埋もれているのでここらを散策したと言うわけでもない。つまり呆れるしかない。


「折角の休日の午後だ。もう少し探検したいな。ダメ?」

「そのつもりだよ。しかし思ったより荷物が多いな、どうするか……」


ふっと、不意に両手で抱えていた荷物が軽くなった。


「む?」


見るとミコトの傍で突っ立っていた機工人形が反対側から段ボールを持ち上げてくれていた。木目面では何を言いたいかは分からないが、どうやら荷物を持ってくれるらしい。


「ああ、ごめん。荷物があったんだったね。手伝うよ」

「構わんさ。ジョータロー氏はこの私と渡り合った男だ」

「心配なのはリオンの方って話はしない方がいい?」

「そうしてくれ」


ジョータローが重い段ボールを持ってくれたので、リオンは代わりに網籠を受け取って背負う。水の瓶を軽々と運んだだけはあり、ジョータローの足取りに危うさは感じない。


「見た目は本当に機工人形にしか見えないな」

「機工人形(オートマタ)は比較的手に入りやすいけど。やっぱりいつか魔工人形(アンティーク)とか呪工人形(マリオネット)もよく見てみたいかな」


のしのしと力強く歩いていくジョータローの後ろをリオンとミコトが歩いていく。

待っている間に体が凝ってしまったのか、ミコトは歩きながら器用に背中を伸ばしていて、その足がはたと止まった。


「あれ、何だろう……?」

「ん?」


ミコトが止まった事に気付いたのは、リオンとの距離が3歩分に広がった頃。そこからは何も視認できず、3歩下がって視線を合わせると、その何かが視界に入った。


「あれは、何だ……?」


ずばり、とリオンがその答えを言う事は適わなかった。何かとしか言えないのだ。木々の間から覗くそれは、ネズミ色でそしてかなりの大きさを誇っている事しか分からない。


「……ダッシュ!」

「甘いわ!」


好奇心旺盛なのは研究者(?)特有のものなのだろう。きらりと目を輝かせたミコトは白衣を翻してその何かに突進していった。とは言っても小さい体。リオンと比較すれば短い手足だ。それほどの速さは出ず、あっという間にリオンと、そしてジョータローにすら追い付かれて、"それ"にミコトが辿り着いたのはリオンがそれに辿り着いた10秒後。


「これは、岩宿、かな……?」


息を切らしながら膝に手をつき、それでも顔を上げてミコトはそれを見上げた。岩宿。なるほど、確かにその呼び方は正しいだろう。いくつかの平たい岩が折り重なってテントの様な三角錐状のドームが形成されていた。


「すごい。秘密基地だ」


中の広さは半径8メートルほどだろうか。見上げればその頂点は天高く、周りの木々に隠れきれないほどだ。ぐるりと一周回ってリオンはこれを"建造物"だと判断した。


「ミコト……?」


気付けば、見慣れた白衣の姿が消えていた。慌てる前に岩宿の間に人が通れるほどの隙間と、その間に足跡を見つける。後を追って穴を潜ると、思ったよりは広い空間が眼の前に広がった。

少なくとも二人が今住んでいる小じんまりとしたウッドハウスよりは広いだろう。所々にある隙間から陽が漏れ、光の帯が地面へと延びている。

どうしても少年心がくすぐられるその場所の中心に、ミコトが光の帯を覗き込みながら立っていた。傍にはジョータローも付き添うように突っ立っている。


「ミコト、この外でいいか。弁当は」

「うん、すぐ行く」

「……ああ」


魔術の気配にミコトも気付いたのだろう。子供染みた好奇心はなりを潜めて、真剣な探究心が滲み出ていた。それならば邪魔するのも無粋だろうと、リオンは今しがた通ったばかりの入り口を潜り直して外に出た。さて入り口付近は苔くさいのでレジャーシートは少し離れた所にと、そんな事を考えながら前を向く。

ちらちらと相変わらず白い雪のような花弁が散っていて。


──そしてそれは。すぐ間近を落ちて行った花弁が一瞬だけリオンの視界を遮った、次の瞬間だった。


「よう」


視線の先にありえない物があった。

二本足で立っていて、灰色のコートを着て、気軽にこちらに声をかける。それは、ミコトとリオンと、そのどちらでもないもう一人。


「────っ」


その男の外見はひどく浮いていた。この情緒的な森にはもちろん、何時如何なる場所でさえ目を引くであろうその姿。


耳にピアス。口に煙草。適当に延ばされた、着色料で染め上げた安い金髪。


人形特有の適度に美形なその風貌は浅薄な装飾品によって上塗りされ、なにがおかしい訳でも無いだろうに口元は歪み、不敵に笑っている。

反逆的だ。我欲的だ。俗物的だ。煩悩的だ。色情的だ。雑念的だ。軽薄的だ。衒学的だ。しかし、その在り方はどこまでも神秘的で倒錯的で蟲惑的。神性と欲望を綯い交ぜにして形だけ人の形にしたような、そんな物が目の前で人の真似をしていた。


「──誰だァ、お前?」

「……さてな」


しかし、"そんな異常な物は慣れた物"。相手が銃口をこちらに向けようが、それに対して体が反射的にナイフに手を伸ばす事になろうが、慣れた物。


「《人形》か」

「へぇ、分かる?」

「奇天烈な恰好をしている人型は、大概そうだ」

「じゃあ、おたくも?」

「さて」


悪意がある。敵意がある。害意がある。それを見抜けない程腐ってはいない。


「まあ、どうでもいいか」


ならばそれは敵である。敵、即ち撃滅すべし。

無感動な銃口がこちらを向く。


「悪いなァ」

「こちらこそ」


がちりと敵の銃の撃鉄が下りる音と同時、リオンはすらりとナイフを引き抜いた。

終わってしまった二人だけの世界を悲しむように、白い花が身を擦りながら散っている。



「こんな所が、あったのか……」


リオンが出て行った後、ぽつりとミコトは呟いた。

思わず口にした独り言。こんなに虚しく響くものだったかと驚いた。

ふふ、とくすぐったそうにミコトは笑った。苔だらけの岩肌に手を添える。

ざらざらざらざら。手を触れたまま壁に沿って歩いてみると、手が壁を擦って音を立てた。


「ここに来て半年になるんだけどな……」


家からここまで1kmもない。

最初はこの場所に半年も留まれるとは思わなかったし、あまり出歩くなと言われていた。だから知っているのはあのウッドハウスとその周辺だけ。そこだけが自分の世界になりつつあった。


(それなのに)


洗濯が上手に出来るようになった。好きな食べ物が出来た。包丁の使い方を知った。気付けば世界が広く見えるようになった。繋がって絡まって増えて、どんどん広がっていく。


(できるのなら、このまま……)


あのプロポーズは出来心だった。だからどうしていいか分からない。

お互いの過去も知らない。呆気なく終わってしまう事は分かっているのに、まだズルズルとタチの悪い冗談を続けている。

ただ思ったより気が合って。思ったより穏やかで、なのに楽しくて。


「……馬鹿げてるなぁ」


全く馬鹿げている。本当は引き留めるような事をしちゃいけないのに。

一言。リオンがあの木の下でポツリと呟いた一言にかこつけて、こんな事になっている。

リオンは知らないだろう。私があのプロポーズをした後にどれほど後ろめたさを感じたか。

リオンは知らないだろう。自分の傍にいるだけで、死に瀕す危機であるという事を。


「──貴女は、相変わらずね」


突如聞こえた声は、閑静な森に響き渡った銃声と同時。

銃声はリオンのいる場所──。

弾かれるように振り向き、そして次の瞬間には、歩みだすはずだった足は止まった。自分と岩宿の入口との間に“彼女”がいたからだ。綺麗な白の長い髪。“彼女”の人形と対をなすその色は静かな強かさを讃えている。髪の色と同じ双眸がこちらに向いた。


「奏(かなで)……」

「久しぶり。それで命(ミコト)。あの男は誰」

「……あの人は、私の夫だよ。だから──」


続けようとした言葉は喉で詰まった。冗談で始まった関係を盾にするのはあまりにも不誠実だった。奏がじっと、こちらを見ている。


「……そう」


奏は口にしなかった言葉をどう予想したのか。静かにこちらに手を伸ばした。差し伸べるためではない。向けられた手のひらには静かに敵意がこもっている。


「何にせよ、約束を破ったのは、貴女」


ひゅん、と風を切ってその手の中に何かが巻き込まれて集約する。──魔力。それを知覚すると同時、ミコトは地面を全力で蹴って横に跳んだ。


「──":Blast(ブラスト)"」


短い言葉。

教書にも載っている"一(はじめ)の魔道"。ただ魔力を集約させ指向性を持たせて叩きつけるというそれだけの魔術。


「……ッ!」


しかし咄嗟に跳んだミコトにそんな呑気な考えはない。

どおん。と冗談のような轟音が響き、巻き上げられた豪風がミコトの体を岩宿の端まで吹き飛ばした。


「……丈夫な場所」


ぽつり、と零したその声はいつも通りの端とした声。その語り口が恐ろしくて仕方がない。

攻撃が直撃した壁は岩肌の苔が禿げただけで他に傷はないようだ。確かに丈夫。瞠目するほどだ。何しろ彼女は冗談でも誇張でもなく、"一の魔道"だけで城壁を砕いてしまう。ただ今は、その手のひらが再びこちらを向いている。瞠目などしている暇はない。


「貴女を殺すつもりはない」


奏は言った。その表情には変化がない。


「あの妙な男をワルドが壊すまで、貴女はここに居なさい」

「え……?」


ただ、彼女の言葉にこちらの表情は固まった。ふつ、と強い感情が体の中を走り抜けた。


「駄目だ。そんな事は許さない」

「知ってる。貴方がそう言う事も、知ってる。でも、」


言葉少なな彼女の声は、ひどく印象的に耳に残る。


「貴方が貴女と一緒に過ごさせるという行為は、私が彼を殺そうとしている行為と何も変わらないのよ」

「──っ」

「自覚なさい」

「止めてくれ……」

「貴女は一人で生きるの」

「止めろっ!」


ミコトは駆け出した。神の指先と言われる手で拳を作って。そんな決死の拳を、奏は冷たく見下ろした。


「だから、貴方は甘えてて、吐き気がすると言うの」


もう一度、魔力の奔流がミコトを吹き飛ばした。



白金色のスミス&ウェッソンが硝煙と発火音を撒き散らしながら、鉛弾を吐き出す。

しかし銃弾と言うのは動いていれば当たる方が難しい。鉛の弾はリオンの残像を貫き、背後の樹の幹に当たって破片を散らした。


リオンは一瞬で金髪の男の背後に移動していた。白い花弁が降り積もった地面に、ぐるりとリオンが通った跡ができ、一瞬遅れて一斉に花弁が舞う。


しかし、ナイフを振った先に男はいない。直感的に、右側にナイフを振り上げる。眼帯が死角を作っている方だ。

銃口と刃先がぶつかり合う音。ジリジリとリオンのこめかみを狙おうとする銃口を押し退ける。その向こうにある男と視線が交錯した。


「俺ァワルドだ」

「私は田中ワシントンだ」

「そうか、よろしくワシントン」


ぎ、と銃口に力が籠ってじりじりと銃口が下がってくる、──その前に。ナイフの上を滑らせて銃口を弾く。距離が開いた。銃には近すぎ、ナイフには遠い程度に。


「……銃か」

「んあー……、これは趣味だからよ、意味はねェ。ただ50口径だから当たると痛いぜ」

「……ミーハーめ」

「バカヤロ、すぐ機獣になるんだから大変なんだぜ?」


《人形》が近代武器を使う事は珍しい。いや《機工人形》ならば近代兵器武装も可能らしいが、目の前のこれは《機工人形》特有の人間味の薄さはない。

《魔工人形》だ。かのアルトリウス王が用いた憎き金色ではない。不滅の銀光でも、印度の雷でも、黒の背表紙でもない。ほぼ間違いなく、未だ表の世に出ていない《魔工人形》。一国が総出で入手したがる程の遺産であり、神器である。


「まあ、察しの通り俺ァ《人形》。しかしまあ、──お前は何だ?」


碧い瞳がこちらを見下ろす。答える言葉はない。


「まあ、バラせば分かるかね……。悪いなァ、これも命令だ」


ボリボリと男は不用心にも銃口で頭を掻く。不用心なその恰好は、恐らく好機でもなんでもない。むしろその余裕がこの状況が窮地である事を指し示しているだろう。


「──リズ。起きろ」

《了解マスティ》


リオンの周りに光球が舞う。精密な機構が音もなく走り、その能力を如何なく発揮する。


《前方の目視可能位置、南南東の建築物内にそれぞれ登録外反応あり。要警戒》

「魔術師もいたか……」


じりじりと後退していた足が止まった。その瞬間だ。タイミングを狙ったように岩宿の中で、地面ごと揺れる轟音が響いた。パラパラといくつかの花弁が木から散る。


(ミコト……!)


ミコトの身が危ない。

しかし駆けつけるどころか動くことも出来ない。

ワルドの視線が、こちらを射抜いている。いい加減な恰好で変わらず隙だらけだが、しかしその目は真剣にこちらを観察していた。目を離そうものなら、その一瞬で命を落としてもおかしくはない。

しかし、もう一度先ほどの爆発音が聞こえた時、僅かに視線を岩宿の方に移してしまった。そして三度、ワルドの姿が視界から消える。同時に硬い銃口の感触が後頭部に押し付けられる。


「……ちぃっ!」

「おっと」


それを振り払い、バックステップで距離を取る。白い花弁が忙しなく宙を舞う。


(速過ぎる……!)


ぞわり、と嫌な感覚が背中を撫でる。駄目だ。単体で魔術師付きの《人形》には歯が立たない。勝てる訳がない。

その辺の《機工人形》ではなく、生粋の《魔工人形》。

それも感じる魔力の質からすれば今までに見た事がないほどの神秘を含んだ、──加えて内包された魔力量も凄まじく裏にいる魔術師の力量の高さも伺える。どうする。勝てる訳がない。これは想定以上を想定した、その更に二つほど上だ。


(ならば──、)


かちん、と電卓でも弾いたかのように一瞬で解が求められる。逃げるべきだ。

問題はミコトだが。


(おそらく、おそらくだが……)


目の前の人形はおそらく先程ミコトが言っていた”男”だ。無気力そうで、時々気が触れていて、長い金髪。特徴も一致している。殺されるような事は無いはずだ。


『本当に──?』


はっとしてワルドを見る。しかしワルドはその視線の意味が分からず小首を傾げるのみ。幻聴か。いや、きっと己の声だったのだろう。

ぎちりと、奥歯を噛んで正面からワルドを睨んだ。その形相にワルドは一層楽しく笑う。


「"四の魔道"」

「は……?」


手の平から肘の辺りまでが鈍く熱される。ワルドが目を見開くのと同時、その熱を吐き出した。


「":Berst(バースト)"!」


一の魔道とは違う。違うが、ほとんどは同じ。ただ魔力の規模が十数倍に跳ね上がり、攻撃範囲が大幅に増えるだけ。放射状にリオンの手の先から視界を覆うほどの魔力の波がうねった。しかし遅い。高速移動を己の業とする《人形》に当たる訳もない。


「魔術師だぁ……?」

「見ての通りな」


咄嗟にリオンの背後に移動したワルドは、リオンの魔術に予想を外されたのか一瞬だけ動きを止める。対して、背後に移動しただワルドの動きはリオンの想定通り。事前に配置したのは五の魔道。魔方陣の上に入り込んだものを攻撃する、感知式の罠の型。


「":Prism(プリズム)"」


がちん、と高濃度魔力の正十二面体が形成される。大きさは直径二メートルほど。大人しそうな外見だが、中は魔力が荒れ狂っている。単体への攻撃力としては第四魔道の数倍。


(これなら──)


ワルドが脱出できたようには見えなかった。しかし次の瞬間、特有の発砲音が聞こえたかと思うと、何かが前髪を掠め、少し前方を飛んでいたリズが弾き飛ばされる。

銃弾。飛んできた方向に目を向ければ、ワルドが優雅に足を組んで木の枝に腰掛けている。


「よく見りゃその廻ってんのは《人形》か。随分古い型だなァ、また」


移動したのならば、いくら速かろうと、いや速ければ速いだけ降り積もった花弁が舞うはずだ。しかしワルドが先程まで立っていた地面はまるで乱れていない。つまりは──。


「空間転移……!」

「ハッハぁ、御名答」


先程の攻撃をああも簡単に躱されるのならば、相当の実力差がある。駄目だ、逃げなければならない。

くそ、と内心で悪態を吐く。どうしてこんな所にこんな規格外がいるのか。


ああ、いや──。辺りを見渡す。ここは世界屈指の神秘の場。ここだからこそ、こんな出鱈目がいるのだ。


「魔術師ねぇ。──ふぅん。俺ァてっきり《人形》かと思ったんだが」


楽しげに咥えた煙草の先を上下させる仕草は、底を全く見せていない余裕が伺える。だからそれは、何気ない一言だったのだろう。


「ッ……」


ただそれはリオンにとって致命に至るほどの一撃に等しかった。ぐ、と奥歯が人知れず噛み締められる。


「どうして、私が《人形》だと思う……?」

「”生存する事を命じられてんだろう”?分かるよ。嫌になるよなぁ、俺らの意思より優先なんだから。と思ったが、薄情なだけか、お前。適当な言い訳作って見捨てようとしたろ、今」

返す言葉も、なかった。ただ、悔しさに歯噛みをする。

「しかしまあ、たかだか一月か二月一緒に居ただけだもんなァ。悪いね。命令の為に人を見限る人形に似てたんだ。人間も情が浅けりゃ、さっさと見捨てる事もあるわな」


勝手気ままに知った風な事をワルドは吐き散らし続ける。


「ミコトの事だ、どうせ何も話さず問題だけ先送りにしたんだろ。あいつも一緒さ。自分の事しか考えちゃいねぇ。オレ等が来る事なんて判り切っているのによ。ああ、あれか。いつもは来るのオレだけだから何とかなると思ったのか。まァどっちにしろ気にすんなよ。いいぜ?逃げちまっても」


何か、何か反論を。と苦しいほど焦っているのに、言葉は出て来ない。頭が理解してしまっている。奴の言葉がうんざりするほど正鵠を得ていると。


「──別に、こんなすれ違った程度の女に、何か期待してた訳じゃないんだろ?」


殺してやりたいほどこの人形が憎たらしく思った。

でも、どうしても言葉は出て来ない。最後の言葉に至っては、自分でも本当が分からない事に気付いてしまった。ああ、どうだっただろう。自分は、彼女に──。


「お?終わったか」


突如新たに現れた人影に、意識を取られた。現れたのはどこか機械的な銀の色の髪を持つ女。そして現れた場所は、岩宿の入口。そしてその手には。──髪を掴まれて引きずられているミコトがいた。


「──ワルド。どうして壊していないの」

「こいつは《人形》じゃないらしいぜ。そうなると壊せないしぃ?なら殺すかどうかはご主人たまにお伺い立てなきゃ駄目だろ?」

「……そう、そうね。ステイよワルド。いい子。後でジャーキーを上げるわ」

「この野郎」


ミコトに意識はない。お互いの服の汚れ方はまるで違うが、戦闘の跡が見られる。とにかく、死んではいないようだ。


「名前は?」


ミコトの体を地面に放って、女は無警戒にリオンに近づいた。自分よりも頭二つ小さい女。威圧するわけでも、特に存在感がある訳でもなかったのに退がってしまいそうになったのは、きっと生存本能だ。


「……リオンだ」

「おいワシントン、コラ」

「そう、リオン。彼女を家まで運んであげて。食料もすでに運んだから」

「は……?」

「ワルド」

「ジャーキー寄こせよ」


そう言うと、女は近づいたワルドの肩に手を置いた。空間転移する気だと気付いた時、ワルドの顔がこちらを向いた。


「一週間後、また来る。それまでにお前は消えてろな」


こちらの反応を楽しんでいるのか、ゆっくりとこちらを覗き込んで、わざとらしく、ニコリと笑った。瞬間、瞬きすらしていないのに音もなく二人は消える。ざわざわと木がざわつく音が戻った。いや違う。元からあったのだ。聞こえなかっただけ。嵐のように去って行った二人の存在感がどれだけ大きかったのかを知る。


「は……」


乾いた笑いが漏れる。頭の中では、“すれ違っただけの女だ“、と先程言われた言葉が言い訳がましく反響している。

分かっている。だから逃げようとした。適当な言い訳を用意して。問答無用で連れの人間を攻撃してくる時点で、ミコトとあいつ等の関係が良好でない事など分かっていたはずなのに。気付こうとしなかった。いや、気付かないようにしたのだ。

その証拠に、たまらず膝は折れ、倒れ伏したミコトを他所に、リオンは震える我が身を抱きしめている。



「どうして殺さなかったのか。話しなさい」

「ああ?やっぱそこ聞くのね」

「ええ」


リオン達と別れて一秒後。結界の外の町の、その更に数十キロ離れた町にあるモーテルの一室で、静かに奏はワルドに問い詰めた。


「貴方の目に留まるほど、大した男には見えなかったけど」

「まあな」


ボリボリと安っぽい金髪を掻き乱しながら、ワルドはベッドに転がった、ぐりぐりと煙草を枕元の灰皿に押し付けて、また唸る。この男が言葉を濁すとは珍しいなと、奏は返答を待った。ワルドはというと、主人が頑なな態勢に入ったと溜息を吐き、言葉を選びながら話し出した。


「俺はそりゃあもう勘が鋭い。観察眼に優れてるっていうのかな。視野が広いっていうか、思慮深いっての?」

「ええ」

「真に受けんなよ」

「貴方の直感は無視できないわ」

「……ま、それが連続で外れたんでな。気になった」


ふむ、と奏は思考に耽る。

この男は情けをかけるような人間ではない。その堕落的な恰好に見合って殺す事さえ楽しむ男だ。事実、ミコトに近づいた人間を殺したのは一度や二度ではない。ただミコトに意図しない接触を許したのは初めてだった。それに関しては、あの出来過ぎた結界のせいで気を緩めたせいもあるだろうが。


「まあ、結果的に全く大した奴じゃなかったんだけどよ」

「ええ」

「俺が勘、──つまり、最初に見たとき、何を思ったか分かるか?」


また、楽しみの趣向が変わった。まるでありえない物を思い起こしてその奇妙さを一笑に付すように、半ばあきれた笑みだった。


「どう思ったの?」

「死ぬかと思ったんだよ」


え、と口を開ける奏をよそに、カラカラとワルドは笑う。笑いながら思い出す。目が合った瞬間、体中から力が抜けそうになった事を。体が生存を諦めた事。崖に飛びこんでも、化物が目の前で大顎を広げていても、そんな事はなかった。思い出しながら、やはりカラカラとワルドは笑う。


「なあ、ジャーキーまだ?」

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