第2話


再び意識が浮上している。そう思った時にはゆっくりと瞼が空いていた。

視界がぼやけて光が目に痛い。

少しだけ長く眠っていたようだ。とは言っても気絶のようなものだったから、体は怠いばかりで良い目覚めとはとても言えないが。


「ああ、起きたね」


声がした。

平坦で涼しげな声だった。ぱたんと響いた音はたぶん分厚い本を閉じた音。

表紙からしてよくわからない何語かがびっしりと書き込んである。ベッドの毛布は少し重くその分温かい。暖炉の暖かい空気を、天井扇が優しくかき混ぜていて心地よく、するすると瞼が落ちようとする。


「あれ、寝ちゃった?」


ふと後頬に何かが触れた。

細くて柔らかい髪の毛、その感触に惹かれるように目を開けると、丁度その髪を掻き上げた彼女と目が合った。

にこりと愛想良く彼女は笑った。


「何か飲む? 紅茶、ココア、緑茶に、オレンジジュース。薄くて不味いワインに、あとはまあ水もあるけど」


その声に誘われて、目だけを動かし女の顔を見た。

肩に触れる前にばさりと切られた黒髪に黒目。塗りつぶされたようにその黒は、濃い東洋の気配がする。あくまで東洋人的な白肌は病的ではなく、化粧っ気も無い割りに染み一つ見当たらない。黒目がちで、少し上向きな目尻はたいそうな利発さを思わせる。


つまりは、目が覚めるような美人だったのだが。

今の男にとって、その麗しさもただの感想を超えることは無く。


「み、ず」

「分かった。ちょっと待って」

「一口だけでも、いい、頼……」

「大丈夫だよ。いっぱい飲んでいい」


口の中を舌で触ると厚紙でも舐めているかと思う程ガサガサとしていた。起き上がろうとしても中々うまくいかない。すると、コップに水を注ぐ少女の反対側から、誰かが男の背に手を回した。そちらを向くと、木目の顔面があった。

人形だ。古い機工人形の”糸契約”。それでも普通の人間ほどには腕力がある。その彼が男の体を抱き起すと、少女が口元にコップを持ってきていた。


「いや──」


流石に悪いと思ったが、零してシーツを汚すと更に悪い。


「……すま、ない」

「気にしないで」


コップ一杯の水を一口一口ゆっくりと、五分程をかけて飲んだ。

水が全身に染みわたっていく感覚を噛み締めながら、全部で三杯の水を飲むと、ゆっくりと木目の彼が男をベッドに寝かせ直した。


「休んでて。丸一日意識が無かったんだ。まだ万全じゃない」

ごくりと唾を飲み込んで喉の湿り気を確認してから、口を開いた。

「ありがとう。しかしこれ以上迷惑は……」


潤った喉はするりと音を出す。


「遠慮深いね。私の祖国では美徳だったらしいけど」


残念そうに微笑む少女の後ろ。大きな木枠のガラス窓の外で白い花びらが散っていた。


「ここは、あの空間の中、か……?」

「うん。すごいよね。自然に出来てるんだものこんなのが。私も最初は驚いた」

「……すると、君が魔女だろうか」

「魔女? まあ魔女かもしれないけど。どうして?」

「その魔女に会いに来たんだ、が……」


目の前の少女が、マダムが捲し立てるように話してくれた魔女と同一人物だとは思えない。全面的に信用するとは言わないが、いきなり『君が村の物を盗んだり機獣をけしかけたのか』と聞くのは恩人に失礼が過ぎるだろう。


「……顔でも洗う? 一応水瓶と洗面器とタオルもそこに持ってきてるから」

「ありがとう」


ベッドに腰かけて装備を確認する。全身を覆う黒のレザーコートにパンツ、顔の半分ほどを覆う眼帯もある。どこにも怪我らしい怪我はない。顎の下に下げられていたマスクを上げた。傍らに置かれた手袋とブーツ、頭がすっぽりと入るヘアターバンを身に着ける。


「……」

「変な格好だろう?」

「え。えー、と。いやあ、そりゃね、右目しか顔が出てないし。と言うより脱がしにくかったなぁ、って思い返してた。潔癖症なの?」

「いいや。好きでこんな格好をしている訳じゃないんだ。色々あってね」


まあしかし変な格好と言うのなら、少女だってそうだ。

男に比べると頭一つ分ほど低いが、女性にしては高い160センチほどの身長で、それでも明らかに大きい男物の白衣を羽織っている。事ある毎にずり落ちてくる袖を捲る仕草はそれはそれで可愛らしくはあったが。


(まあ、それはともかく)


足に力が入る事を確認して立ち上がった。手の平を閉じて開いて、肘を曲げ伸ばし、屈伸をして、ぐい、と背筋を反らせる。多少のだるさがあるがだいぶ力が戻っていた。一時的な脱水だったようだ。


(──どうするか)


ちらりと少女を盗み見る。じ、とこちらを見る目には警戒の色は見えないが、冷静さと知性を思わせる。敵意はないが、目論見はあると言ったところか。


こちらとしてはこの場所に留まりたい。

広さ、住みやすさ、外敵の有無。それ等を確認するにも良好な関係は作っておきたい。

それに何より、受けた恩には感謝と働きで返すべきだろう。


「お礼をしたいが、その前に片付けるよ。この瓶はどこに戻せばいいんだ?」


そのまま風呂にでもするのかという程でかでかとベッドの横に鎮座している瓶を叩いた。


「いや、それはいいよ。慌てててその子に持ってこさせちゃっただけだから」

「問題ない。これでも鍛えている。この程度の人形には負けないさ」

「む」

「……?」


何故か少女はほんの少しだけ不機嫌そうな表情を見せた。原因が思い当たらずとりあえず瓶に近づいて中を覗き込んだ。


「む」


思ったよりも近くに水面があった。どぷんと挨拶するように水が重い身体を揺らす。ざっと見積もって150L程あった。思わず少女の顔を見る。にやりと少女は口の端を曲げた。


「へえ、すごいね。じゃあ頑張ってもらおうかな」

「……いや」


ほとんど満杯の水瓶を見て、頼りなさそうな機工人形を見て、もう一度水瓶を見て、そして少女の方を見る。今度はにやにやと笑っている。


「……本当に、この機工人形が一人で?」

「うん。ほら、早く」

「……よぉし、分かった」

「あはは、ごめんごめん。冗談だよ。客人にそんな事させないよ」


男の神妙な顔に少女は笑って立ち上がる。それを男は手で制した。


「大丈夫だ。このくらい」

「気にしないで。その子は少し特別製だから」

「いいから、見ていたまえ」

「いや、でも。無理だよ。一人じゃ」

「──いいから」


強い口調で男は少女を留めた。尋常ならざるものを感じ取ったのか、少女もいったん笑みを忘れる。ぴん、と空気が張りつめた所で、男は静かに水瓶に手を回した。それから、もう一瞬の沈黙の後、ぎちりと筋肉の波が男の全身に広がった。


「君──」

「いいかね。そこで見ていなさい。私がやる」


男は歯を食いしばり腕を震わせる。女が再び声やら肩やらを可笑しそうに震わせているが気にしない。無謀な挑戦にきっと人は笑うだろう。


「努力とは、常にそれと闘い、抗い!捻じ伏せる力を言うのだ……!」

「……君は、あれだね」


しかしそれはそれとして瓶は一ミリも浮かなかったので、さっさと手を離した。こちらを見てくすくすと笑う少女からふいと目を逸らす。


「すごく意地っ張りだね」

「さてとレディ。そこの人形の彼に助力を頼んでも?」

「恥じらいも見せないとは、驚いた」

「私は全力で挑戦する事を恥ずかしいとは思わない」

「あはは。そりゃあ、なんていうか、立派だ」


ベッドの上へ無造作に本を放ると、少女は椅子から立ち上がった。


「私は昼食にしようかな。君もどう?」

「いいのか? ああいや、手伝うよ」

「だいじょぶだいじょぶ。客人はもてなされるべきだし──」

とん、と少女は男の胸を押した。

「む」

「病人は休んでいるべきだ」


まだ体調が戻り切ってはいないのか、男の体はへたりとベッドに尻をついた。


「瓶の件は君の体調不良が原因かもしれないし。ひょっとしたらだけど」

「いや、しかしだな……」

「えい」


立ち上がろうとしたがまた肩を押されてベッドに尻餅をつく。ちょっと滑稽さを演じてみたせいか、随分気安い態度にびきりと額に青筋を浮かべる。


「……私と君は、初対面で間違いないか」

「うん、まあそうだね」


ベッドテーブルに手を伸ばし、六回目の水を喉の奥に流し込む。一息ついて、コップを置いた。楽し気にこちらを見下ろす少女をジトリと睨む。


「君は人見知りしない人間だな」

「君が変わった人だから」


そう言ってすぐ、悪戯っぽく笑っていたその顔が、少し申し訳なさそうにはにかむ表情に変わった。


「ふふ、ごめん。まあそうだね。分かってはいるんだけど、久しぶりの客人にあがってしまった。許してくれると嬉しい。これからは謙虚にいくからさ」

「……まあ、助けて貰って何か言える立場でもなかった。こちらこそすまない」

「ううん」


そういえば、とふと思った事を聞いておくことにした。


「ところで、君は日本人の生き残りか?」


女は驚いて少し目を瞠り、そして寂しげな表情を一瞬だけ垣間見せ、「そうだよ」と答えた。


「中国人と間違われるかと思ったけど」

「彼の国では、謙虚なんて言葉は埃をかぶってるよ」


そこまで言ったところで、男の腹がキュルキュルと妙な声を上げた。くすりと笑って少女は背を向けた。


「待ってて」

「お願いします」


女の言葉に甘える事にして、まだわずかに重さを残す体をベッドに横たえた。


「できたよー」

「なにぃ……?」


横たわって三十秒ほどで声がして思わず声を上げた。数秒待ったが冗談だと続く言葉は無い。どうやら本当に三十秒で支度を終えたらしい。恐る恐る起きてキッチンに向かう。


「いらっしゃい。どうそどうぞ」


そして恐る恐る彼女の背後を覗く。すると、食卓の上に広がった惨劇を見た。


「よぉし、緊急会議だ。そこに掛けたまえ」

「何だよもう。偉そうな人だな」


差し出がましいのは判ってはいるが言わねばならない事もある。今回は主に彼女のために。


「これは何だね」

「お昼ご飯」

「これは」

「君のお昼ご飯」


机の上に並べられた白米と各種サプリメントを眺めて、これがジョークでも何かの間違いでもない事を思い知って愕然とする。


「……分かってるよ? 言っておくけど」

「安心した。君な、若いからと言ってこれでは」

「これだろう?」


にやりと自慢げに置かれた味の素を放り捨てる。


「ああっ!」

「頂きます」


しかし食材達に罪はない。何故か絶妙な炊き上がりで逆に腹立たしい白米をもさもさとかき込んだ。


「さて、一宿一飯の礼だ。そこが冷蔵室か?開けても?」

「え、ああ。そうだね、地下室になってる」

「ほう。良い代物だな」


床の扉を開けるとひやりとした空気が頬を撫でた。少し不自然な冷気だ。どんな魔術構造かは知らないが、中に保存してある食材を見るにかなり上等な造りになっているようだ。


「好き嫌いは?」

「何でもよく食べます」

「よし」

「って、料理作れるの?」

「君が作るんだよ。教える。お節介ですまないが。医者にも満足に罹れないこんな時代だ、栄養状態には気を付けるべきだろう」

「ううん。ううん! 嬉しいな、本じゃ全然分からなくて」

「"言語崩壊"が本の意味をほぼ全て壊してしまったからな」


"言語崩壊"と"機獣"のせいで失われた技術は数えきれない。料理もそうだ。まあともかく、彼女も一応努力はしたらしい。


「ふふ、君は優しい人だね」

「恩がちゃんと返せそうでよかったよ」


好奇心に駆られた小動物の様に駆け寄ってきた彼女を台所に招き入れながらそう言った。


「え」

「ん? どうした」

「うーん。よし、料理教室は中止にしよう」

「なにィ?」

「ほら、君にはさ、もっと別の事を頼みたかったから」


やはり何か目論見があったらしい。訝しんでみるが、何にしろうら若き女性には健やかであってほしいものだ。


「料理ぐらいタダで教えるよ」

「ホントに?」

「ああ」

「……うん。よし、じゃあやっぱり頼みたいな。……ああ、そうだその前に、一つ質問。正直に答えてね」

「……? ああ」

「魔女に会いに来たって言ってたけど、私を殺しに来たとかじゃないよね」

「ないな」


よし、と彼女は満足気に笑った。

そして戸棚の奥から何かを取り出すと、それを机の上に広げた。目を凝らすが、それは"日本語表記ではないため読めない"。


察するに何かの契約書。

さて、何が出てくるか。少女の考えを想像して人知れず額に汗し、生唾を飲む。

何か危険な仕事か、押し売りか。酷いものなら魔術的な要素を含んだ主従の契約。奴隷化などという事もあるやもしれない。

だが、この場所に留まるためだ。大抵の事は──。


「婚約届だ。結婚して夫婦になって」

「はっはっは。バーカこの」

「なにィ!?」


そしてその日。なんやかんやすったもんだの後、結局しっかりと結婚届に記名して拇印を捺し、男と女は夫婦になった。



ぱきり、と乾いた音がしてせっかくの手頃な枝を踏み折ってしまった事に気付いた。


「……軟弱な枝め」

少し小振りになってしまったが、それでも薪に使うには支障がなさそうなので屈んで拾い上げ、背中の籠に放り投げる。僅かに背中に重みが加わった事を確認して、一息つく。

男が妻を得てから三日が経っていた。


(……どうしたものか)


やはり気になるのは、突如妻となってしまったあの女の事だ。とりあえずこの奇跡の場所に留まりたい男としても好都合な、しかしあまりに何の変哲もない毎日が続いている。

今日は夫が森に柴刈りに。嫁は洗濯機と天王山。洗濯機は可能な限りのテクノロジーを排除した古風な物で、窯や井戸なども慣れない人間が一人で使うのは難しい。今まで使えなかったのも無理はない。ゆっくり使い方を紐解きながら、料理は夫。皿洗いは夫。皿出しは嫁。洗濯は手が空いてる方。掃除は夫と、こんな具合。


何だか妙な事になったと男は苦笑交じりの溜息をついた。

ふと視線を上げる。木の至る所に桃色の木の芽が目に入った。


「……芽、か」


この辺りは少し魔術的な仕掛けが施してあるらしく、生えている木は全て同一の物だ。

そしてそれが可愛らしいほどロマンチックで。まるで子供向けの絵本のように思う。

春は陽気を吸い込んで桜色の花を。夏には太陽の光を吸い込んで瑞々しい緑の葉を。秋には落陽を吸い込んで橙色の落葉を。冬には雪を吸い込んで淡く白い花を咲かせるのだとか。

生態系に変化を与える訳でもなく、動物も昆虫も生息している。しかし普通と言う訳ではなく、蓮根や芋が枝から実り椎茸が地面から生えていたり。外と比べて四時間ほどの時差があったりと。やはりおかしく、しかして酷く情緒的なこの世界。


「帰るか」


一応機獣がまだいるかどうかを見にきたのだが、すでに姿を消しているようだった。

既に編み籠一杯に薪やら山菜やらキノコやらが詰め込まれている。

栄養バランスさえとれていればいいと女は言っていたが、その日の夜に少し手の込んだものを作ってご馳走してみれば、目を輝かせてそれを平らげた。


それ以来夕飯を何より楽しみにするようになったのは良いが、馬鹿でかい冷蔵室の中には少々の野菜と肉と米と、それに業務用の味の素が一ダース入った箱が一ダースぐらいしか残っておらず、こうして山から助けを貰っている訳だ。


「さて、今日は何を作るか……」


一般的に男性としては胃袋を掴むより掴んでほしいものかもしれないが、紫蘇と蓮根のはさみ揚げをほおばって、目を輝かせる嫁を思い浮かべると足取りは重くない。


(日本人、か……)


同情がないと言えば嘘になる。

"日本"。その名を聞けば、今や世界中の人間が同情と憐憫の感情を顔に浮かべるだろう。

今は亡き、悲劇の国。


「ただいま」


帰ってくる声は無い。洗濯は既に終わったのか、窓の外で元気に洗濯物が揺れている。段々と手際が良くなっているらしい。

さて、それならば一体どこに消えたのか。まず風呂場とトイレの戸をノックしてみるが反応はない。ベッドに居ないとなると寝ている訳でもない。


「……二階か?」


そう言えば、何か言われた訳でもないが二階に上った事がなかった。家が狭いせいかひどく急な階段の前で上を覗き込んでみるが、薄暗くてどうも見えにくい。上ってみる事にする。良い木を使っているのか、かなり古そうな階段だったが僅かに軋んだだけで、かなりの安定感があった。


ぎ、ぎ、ぎ。


木の音に言い知れぬ心地を感じながら二階に上った。二階は薄暗く、少し埃っぽい。三日かけて下の掃除をしたが、どうやらここも掃除が必要らしい。

短くて天井が低い廊下の奥に両開きの窓があり、その左手にポツンとドアが設けてあった。とりあえず窓を開けて篭もった空気を外に逃してから、隣の扉をノックする。

どうぞ、と声が返ってきた。扉を開け、少し頭を屈めて部屋に入った。直ぐに、黙々と机に向かう白衣の背中を見つけた。その背中がクルリと回る。人懐こい笑みがこちらを向く。


「すまないね。少し集中してて気付かなかった」

「いや。お茶を淹れようか?」

「ん。いいよ。もう下に行く」


かたん、と机の上に何かを慎重に置くと女は立ち上がった。男は部屋を見渡す。屋根の形に添った天井は斜めに傾いでいて少し手狭だが、息苦しさは感じない。

一番面積を取っているのはベッドだ。こんなものがあるのなら、あんな狭い思いをしないで別れて寝れば良かったじゃないかと思いながら、その上を覗き込む。そして、思わず眉根を顰めた。


「これは……?」

「ああそのドールはね。現在鋭意製作中」


薄い胸を張って威張ってみせる女に笑ってやる事は出来なかった。何かがおかしい。


「機工人形をいじれるのか。独学か?よくやるな……」

「ん?違う違う。外観を似せてるだけで機工人形じゃないよ。私が一から作った奴だ。ね?」


彼女がそうベッドの上に声を掛けると、ベッドの上に寝かされていたそいつが、右手を上げてフランクに同意を示した。


「……は?」

「え?」


彼女は困惑したように視線を泳がせる。対して男はそんな少女の脇を抜けベッドの上の《人形》に駆け寄って、確信を得る。自然にごくりと喉が鳴った。


「……どうかした?」


この場所を見つけた時と負けない衝撃に思わず女の顔を覗き込んで──。


「え……。え……?」


その顔があまりにこの三日間で見慣れたものと変わらなかったので男は平静を得る。苦笑しながら言う。


「どうかしただと? 全く……」

「何だか良く判らないけど、私は何やらまずい事をしたかな」

「……いや、すまない。言い方が悪かった」


不安がっている女に少し声色を変えて取り繕う。しかし驚きの感情は消えず、続けて零した言葉に滲み出ていた。


「──君は、神の指先マエストロか」



場所は先ほどの小部屋。壁の一部になりかけていた黒板を引っ張り出す。


「なになに、どうしたの?」

「よし。知識がかなり偏っているハニーの為のドール講座を始める」

「あらら、よろしくダーリン」


目の前に座らせた女と一礼し合った。正直伝えられるのは一般知識だけ、と言うより造りなどに関しては当然女の方が詳しいのだろうが、そこは雰囲気だ。楽しく行こう。


「まず知っている事を確認する。ドールの種類を三つ言ってみなさい」

「魔工人形(アンティーク)、呪工人形(マリオネット)、機工人形(オートマタ)かな」

「そうだ。魔工人形は昔から存在するもので伝承や神話、聖書などにも登場し、実際に存在も確認されている。とは言え大昔の事だ。伝承では槍や剣や指輪などと記述されている物が、実際にはそうではなく魔工人形だった。という事も多い」

「へえ」

「比べると呪工人形は歴史は浅く、機工人形に至っては今その歴史の最中だ」


3種の人形の名をそれぞれ黒板に書き連ねる。白のチョークが無かったので変わりに使った赤色の文字はかえって良く映えた。


「それでは、魔術師がドールを使役する為にはどうする?」

「自分の体の一部を与える。髪の毛とか血とかが一般的かな」

「正解、我が妻は中々に優秀だ。誇り高いね」

「照れちゃうね」


更に言うなら、髪、血、そして例えば心臓など。与えるものが致命的なものになるほど人形に多くの魔力を提供でき、その能力を引き出せるという事だ。そしてそれは、繋がりを深めるという事。また、引き裂かれた時の傷は大きくなるという事だが、この場では割愛する。


「よし、それではドールを作る事に成功した人間は何人いる?」


女の手が止まって、再び視線が戻ってきたのを確認してそう言うと、案の定そこで彼女は不思議そうに眉根を寄せた。


「…………100人くらい?」

「不正解だ。いいと言うまで立っていろ」

「……体罰とは先生は恐れを知りませんね」

「私程になると、モンペもPTAも手の平の上の猿に過ぎない。覚えておくといい」

「な、なにぃ……!?」


畏敬と畏怖が入り混じった視線を背中に受けながら、先ほど書いた三種類のドールの名前の横にまた別の名前を書き込んでいく。そして振り返ると、言ったとおり立ちながらも柔らかく笑っている女を見つけた。


「どうかしたのか?」

「いや、こういうの新鮮だなって」

「なかなか可愛い事を言う。しかし急に現実に帰るな。先生一人だけ恥ずかしいぞ」

「ごめんごめん」

「よろしい。着席したまえ」

「了解です」


再び着席した女に黒板を注目させる。


「三人だ」

「へ……?」


かつ、と乾いた音で黒板が鳴いた。

魔工人形108工を作った、ウェイランド・サガ・マビノギオン。

呪工人形21工を作った、岡崎千偲。

機工人形10万工以上を作っている、ノエイン=ジョブス。

なお、ジョブスに関しては未だに健在で制作を続けている。この三人。有史上で。長い歴史の中で、三人だけだ。


「……さ、三人だけ?」

「そうだ。それ以外の銘が入ったドール、また銘が入っていないドールは未だ一体も見つかっていない」

「じゃあ、結構すごいのかな、私」

「うむ。目ん玉飛び出るかと思ったぞ」


顎に手を当て、目を白黒させながら頭を捻る女から視線を外し、小振りの窓から外を見た。少し話し込んだのがいけなかったのか空が薄い茜色に染まり始めていた。


「よし、じゃあ今日はこれくらいで。起立、礼」

「おっと、はい。ありがとうございました」


びくりと肩を上げると、女は慌てて立ち上がって勢い良く一礼した。


「いやごめんね。ただでさえ家事をやって貰ってるのに」

「君は妙なところで無知だからな。仕方ない」

「そうかな?」

「ああ、鉄製のオーブンを暖炉に放り込んで調理しようとする所とか、特にな」

「だ、だって、知らなかったし……」

ばつが悪そうに目を伏せる女のつむじに向かって口を開く。落ち込む事は無い。リオン=アルファルド曰く──。

「"無知は罪だが退屈な既知と違って、話の種になり花が咲く"、と言う言葉もある」

「……前向きで、いい言葉だね」

「そうだろう」

「もしかして、慰めてくれたの?」


ふふ、とまるで子供を褒める時のような顔で少女は微笑んだ。


「ふむ。ばれてしまったなら隠すまい。そうだ、私は巧みな言葉選びで君を慰めた」

「……何だかなぁ」


女は苦笑すると、何かを覚悟したかのように白衣を脱ぎ捨てた。ぐい、とその下のセーターの腕を捲る。


「……よし、なら今日は私がメインで夕飯作りだ」

「何故そういう思考に行き着いたかは知らないが。ふむ、以前も言ったが医療技術も衰退した世界だ。ただの食あたりでも──」

「……どういう意味だ、ん?」


唇を尖らせた彼女の肩を男はあやすように軽く叩いた。



じゃばじゃばと水を飛ばしながら手を洗う。


「……えっと」

「どうした?」

「前から聞きたかったけど、外さないのかい?それ」

「うむ。今日は練り物ではないし、丁寧に洗えば一緒だ。それに怪我をしたらどうする」

「君が気にしないならそれでいいけれど」

「ならば良し。猫の手、構えィ!」

「にゃあ!」

「に゛ゃあ!」


よし、と男は綺麗に少し神経質なほどに洗った手で構える。人工皮の手袋を嵌めたままだ。


「違う。包丁は視線の上から。まっすぐ入れるんだ」

「……こう?」

「ちょっとそのまま……」


後ろに回って力任せに包丁を入れようとしている彼女の手に男は手を重ねる。


「こう視線を真上に置いて、手首じゃなく肘ごと動かす感覚で……って」


ぽけっと男の顔を見つめていた彼女の額を指で弾く。すると彼女は小さく悲鳴を上げた。また唇を尖らせて見せるが、堪え切れなかったかのように、ふふ、と口元を綻ばせた。


「皮手袋の感触がする」

「皮手袋を嵌めているからな」


とんとんとん。小気味良いリズムで形の悪いにんじんを切り分けていく。

ことことこと。切ったニンジンを加えて鍋で煮る。味は旨だし。昼頃から窯の余熱で煮込んでいた鶏肉がいい具合。

ぱちぱちぱち。大葉を挟んだレンコンが油の中で踊っている。

立ち上る空腹をくすぐる匂いに女は少し上気した顔で頬を緩める。


「……楽しいね。褒めて遣わす」

「何よりだ」


ぶっきらぼうな返事に、む、と女は少し眉根を寄せてこちらを向く。


「君も楽しいと言ってくれ」不満げに女は言う。「ほら、早く」

「……正しい楽しさは決して孤独に存在しない。と言う言葉がある」

「んん?」

「君が本当に楽しければ、相手の心情など確認するまでもない、と言う意味だ」

「……君は意地っ張りな上に照れ屋だね」


女は背伸びをして男の頭を撫でた。ええい、とその手を振り払うとくつくつと女は笑った。


「──いただきます」


女が手を合わせたのを確認して、男も手を合わせる。がめ煮に、焼き魚に、ポテトサラダと、はさみ揚げ。何ともジジ臭いラインナップだが、女の顔はゆるゆると緩んでいたので良しとする。かちゃかちゃと食器の音だけが続く。

ふと、そんなこなれた沈黙を破ったのは男の方。


「少し、突飛な話になるが」

「うん?」

「聞いてもいいか?」

「ああ、構わないよ」


はし置きなんて贅沢品は無いので、茶碗の隅にはしを置いた。女もそれに習う。


「私と君は初対面だな?」

「三日前の時点でならそうだね」

「なら君は貞操観念が、あれだ。少しフリーダムな感じの人物なのか?」


一瞬の硬直ののち、女が咳き込んだ。


「なに、非難しようと言う訳ではない。それはそれで人間味が出ると私は常々──……」

「……奥ゆかしいよ、ちゃんと。男性に会うことすらほとんど無いし」

「いや、つい流されてしまったが、初対面の男と結婚しようなんてのは控えめに言って頭がおかしい」

「何もなかったじゃないか」

「結果論だ。もし私が息を荒くして君に夜這いをしかけたらどうする?」

「……困るね」


納得したらしく、女は沈痛な面持ちで頷いた。ただその顔に改めて危機感は無い。何故かこちらが見当違いな話をしているかのような。


「しかしどうして、夫婦などと言ったんだ?」

「ちょっとした悪戯心かな。君の腹積もりを探ろうって言うのもあったし。最終的には意地かな。君が馬鹿にするから」

「それだけか……」

「それだけだよ」


ぴらぴらと女は二人の名前と婚姻の約儀が記された紙を手にした。いくらこの場に留まる理由が欲しかったとはいえよくこんな物にサインしたものだ。


「まあ、君が思う私の変な所と私が思う君が変な所が共振して、明後日の方向に跳ね上がった結果、こんなアホな状況になった訳だね」

「つまり相性が悪いと。離縁の危機だな」

「ふふ、どうだろうね。波長が合わなければ共振も生まれない」

「お、これは君が切ったにんじんだな。ほら、何とも前衛的な造形だ」

「む。不味いなら私が食べるさ。ほら」

「いや、味と歯応えに違いが出て悪くはない。良い言葉を教えてやろう。リオン=アルファルド曰く──……」


ありがたい言葉を賜る前に、女が不機嫌そうな視線を男に向けていて男は言葉を止め、女にどうしたと声をかける。


「……リオン=アルファルド?聞いた事がある名前だけど」

「そうだろうなミコト・ハチオウジ。君の夫の名前だ」

「君は改めて実に、頭一つ抜けて変な男だね……。私は伴侶選びに失敗したかもしれない」

「安心しろ、君も相当な物だ」

「まあ改めてよろしく。リオン=アルファルドさん」


リオンは妻となったミコトの事を何も知らない。ミコトも夫となったリオンの事を何も知らない。しかし分かったこともある。

リオン=アルファルドは物知りで見栄っ張りで意地っ張りで、そして精神的に不器用な事。

八王子命は神の指先を持っていて清い身で内向的で、意外と拗ねやすい事。


「ああ、せいぜい円満に過ごすとしよう、八王子命」


そして、どうにも気は合うようで、2人の生活は案外長く続くだろうと言う事だ。


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