世界の果てまで二人きり
ドドドド
第1話
彼女は、静かに涙を零していた。
気が付かなかった。嗚咽の一つも聞こえなかったし、いつも通りの強い眼差しも、しっかりと前に進む一歩の力強さも、何らいつもと変わらなかったから。
それはとても彼女らしい事ではあったけれど、その強さと決意は悲しみの匂いが染みついている。
「ね、見て」
そして、彼女は遂に足を止めた。
それは到達したからだ。
諦めることなく、飽くことなく、絆されることなく。私達は到達した。
「……綺麗だね」
ここは世界の果て。
ようやく、たどり着いた。
誰もおらず、文明は風化し、歴史が眠った景色。まっ平らな世界。
どこまでも続くその景色で出来た地平線に、太陽が沈んでいく。
季節は11月。冷たい風と夕陽が、彼女の頬と鼻先を朱く火照らせて。目元は少し涙で腫れて。ずず、と涙のせいか寒さのせいか鼻をすすって──。
「全く」
手拭いで鼻を拭き、耳あてと手袋を渡す。
「ありがとう」
えへへ、と嬉しそうにそれを付けて、だけど彼女はまた、ふと世界の果てに視線を惹き寄せられる。
「綺麗だなぁ、本当に」
つ、とまた彼女の頬から涙が零れる。
そこにはきっと到達できた嬉しさなどはない。
踏み越えてきたもの、置き去りにしてきたもの。
あらゆる離別も。
あらゆる悪逆も。慈善も。
愛も信頼も奇跡も憐憫も怨嗟も。その全てを置き去りにして投げ捨てた。
それは沢山の命や希望で、きっと私達は地獄が逃げる程に罪深くて、だけど。だから──。
「君ほどじゃないよ」
彼女は誰よりも透明で、誰よりも彼女のままここにいる。
荒野に咲いた一輪の花。人類の至宝。地上の星。そう言ってもてはやすと、彼女は「ばーか」といつも通りに言って笑った。
「……どうしようか、これから」
「そうだな、とりあえず──」
当面の食糧は用意してある。今日は彼女の好物を作って酒も空けて、寒さを忘れないぐらいの火を焚いて、チビチビと飲みながら夜更かしをしよう。
そして、話をしよう。これからの話と、それからこれまでの話を。
私達が出会った時の話を。
世界の果てを目指すだけの、だけど世界中を巻き込んだ──。
──そんな、良くも悪くも偉大な歩みの、その最初の一歩の話を。
◆
「やれやれ」
老人は、ようやく見えた村にささやかな恨み言を吐き出した。古びた馬車の御者台から首を伸ばして目を凝らす。仄暗いその町が幻影ではないと分かると安堵の息を吐く。
「兄ちゃん。着いたぞ」
「ああ。助かった、ご老人」
「なに、困った時はってな。こいつもいつまでもつか分からねぇし、使ってやらねぇと」
荷台に乗せていた男の堅苦しい言葉に、初老を迎えた男は朗らかに笑った。
「おお寒っ」
今日は風が速い。ついでにボロ馬車には幌もない。
カザフスタンのこんな片田舎に何の用かは知らないが、荷台に乗っていた男には弾んで痛んだ尻も相まって地獄の行軍だった事だろう。労ってやろうと顔を向けた。
「ここは、星が凄いな」
「あ?」
「星が同乗しているようだったよ」
今日は風が速いせいか雲が少ない。お陰で、今日の星たちは一層眩く空に浮かんでいる。それだけ見ていると成程確かに。世界が滅びに向かっている事が嘘に思える程の光景だ。
「しかしあんた、そんな事は女に言えよ」
「そんな当てはないな」
ここは広大な湖と山々、草原地帯(ステップ)に囲まれるようにある小さなカザフスタンの町。普通は肌を刺す冷たい風に悪態を付くものだが、まず星を褒めるとは中々気が利く若者だと、老人は口で皮肉を言いながらも口の端を上げた。
(しかし、何でこんな場所に。人が少なく、閉鎖的な場所に行きたいってんなら、まあ最適だが……)
老人とてこんな廃れた炭鉱街に用はない。空気は悪いし、喉と目がイガイガするし碌な事は無い。しかし対して荷台の男はむしろ足取り軽く、荷台から飛び降りた。
濃い褐色の肌に、額に張り付く癖のある黒髪。加えて全身が黒尽くめだ。夜との区別がつきにくいな、と漠然と思う。
「では、また会う事があれば。その時はどうか大いに困っていてくれ。力を貸す」
「なに俺の人生なんて平和なもんさ。こんな時代でもな」
「そうか。なら荷物の隙間で見つけた清楚系風俗嬢アシナスちゃんの名刺は君の奥さんに見つかりそうな位置に戻しておこう」
「殺すぞ」
「ジョークだ」
最初はどこか兵士然とした立ち振る舞いを感じた。ぎしりと無駄なく鍛えられた体が服越しにも見て取れた。人だけが相手ではないが戦争ばかりのこの世の中、そう珍しい物でもない。どちらかと言えば無口な男だったが、それも無駄口を叩かないという兵士なりの教訓かもしれない。
「いやポケットに入れんな。返せ。俺のアシナスちゃん」
と、そんな事を考えていたのは出会ってからほんの五分程だ。
「全く。まあせいぜい気ぃつけな。そこの町は気が立ってるんでな。森に魔女がいる
だの、炭鉱の奥に機獣が棲み付いただのでいつでも何かと騒いでる」
「心配には及ばない。定住する訳ではないよ」
そう言って小さく笑うと、男はついと背中を向けた。そうして、男はふらりとその黒髪と黒い人工皮のコートを更に闇へと溶かしていく。
寒さがきついせいもあって、老人は座椅子の中からブランデーのビンを引っ張り出す。それを一口煽ってから、再び馬に鞭を入れた。
「ん……?」
ふと、老人はその男の顔が記憶から薄れている事に気付いた。覚えているのは、夜の闇に溶けきって、そこだけこの世が存在しないのではないのかさえ思った、黒い眼帯の色だけ。
もう一度見ようと目を凝らすが、その姿は夜に紛れて見えはしない。
──老人が去った後。男は崖下を見下ろして町へ降りれる場所を探していた。
「リズ」
虚空に放たれた一言は、闇夜に消える前にそれが受け止めた。
顕れたのは淡く光る拳大の何か。目を凝らせば、その光の向こうに精密な機構が組まれていることに気づくだろう。すぐさま、機械的な声が響く。
《声紋認証確認。起動しました。命令をどうぞ》
「索敵を頼む。人と人形(ドール)はいい。機獣だけだ」
《把握。索敵を開始します。──終了しました。半径3キロメートル範囲内に複数の
機獣反応。南南東1845メートル、地下48メートル》
流れるような受け答え。緊張や不慣れは感じさせない。何十回、何百回と繰り返してきた応答だった。そして、その内容に今回も波乱は無いようだ。
「野良だな。さっきのご老人が言っていたものだろう。無視していい」
《把握。命令を予測し実行していた行動内容を報告。索敵限界15キロメートル圏内において先の報告以外における指定の気配は存在せず》
「了解した。行動終了。良い眠りを」
《了解マスティ。良い眠りを》
「……マスター、だ。しっかりと発音しろ」
男の声に、機械的な声は言葉を返さなかった。これもいつもの事なのか、ポンコツめと恨めし気に男は呟くと、町からの灯りを辿って崖下に下りていった。
◆
下りた町は、なるほど見事に廃れていた。
元々炭鉱など相当に大きくなければ長続きしない代物だ。
すぐに供給過多――いや需要減少に陥り、加えて世界中の空路と海路がほぼ壊滅し、安易に冒険に走った実業家達は泣き寝入りした。
リオン=アルファルド曰く。『人間とは経済という怪物の垢に過ぎない』。
この町も、そんな経済の動きに振り落とされた垢の一つと言う訳だ。
(いやそもそも、経済と言う仕組みが半ば死んだせいか)
それでも、まだ子供が走り回り、家の中で笑い声がしてるだけマシだろう。今の時代、街や国、そして大勢の人間が死んで行くのは、残念ながらそう珍しい事ではない。
「さて」
ぐるりと町を回って大体の地理を頭に入れた後、男は一番大きいレストランで足を止めた。いや、そこは酒場。いや大衆食堂といったほうが良いのか。ともかくこの町の習慣が染み付いたその店は、一見様では入りにくい空気があった。
しかしそんな物は意にも介さず、男は古臭い木造の扉を押し開ける。すると、むせ返るようなウォッカの臭いが鼻を付いた。異様な熱気もそれに続く。
がやがやがやがやがや。
まだ若い人間が残っているのか、大衆食堂の中は賑わっていて、男が入ってきたことに誰も目もくれない。大衆食堂の中心では人だかりが出来ていて、そこでは筋肉自慢たちがアームレスリングに興じているようだ。
「店主。ウォッカを3本。銘は何でも良い。2本は俺が出た後そこの男達にご馳走してくれ。金はまだ使えるか?」
「一応な。しかしこんな時代に豪気だなあんた」
「カザフスタンの男は勧められたウォッカを断らないと聞いた」
「そうとも。国民性さ」
景気が良くないのか3本丸ごとと言う大雑把な注文に店主の声は心なしか機嫌が良い。ごつごつとしたチョコレートが差し出される。一つ口に入れた。のっぺりとした甘さだ。
「それで?」
何か話があるのだろうと、空気を読める主が男に顔を寄せた。
「宿を知らないか。出来れば値が張らない所が良い。あと何か仕事があれば。ちょっとしたものなら請け負う」
「んー、とは言ってもなぁ。炭鉱が閉じちまったからな。ほら、あそこで馬鹿やってる奴等も仕事が無くてああやってる訳だ」
「……そう、なのか」
原因は機獣の発生だろう。魔力も持たない一般人が太刀打ちできるものではない。ならば適当に石と鉄を食い終わるのを待つか、それか人形持ちの魔術師に追い出してもらうかだが。どちらにしても、しばらくはこの街は暇人で溢れることだろう。
「……では、とりあえず宿の場所だけでも教えて欲しいのだが」
「宿ねぇ。あるにはあるが、客なんて滅多に来ないからな。汚い上にぼったくりだぜ?」
確かに観光地としての何かがあるようには見えない。地元の哀愁と郷愁だけの町だ。
「……仕事が欲しいって事は、あんた魔術師か?」
視線を戻すと、店主がこちらに半身乗り出しながら聞いてきた。少したじろぎながら頷く。
「今は請負人(アルター)の真似事をしている」
「それならな、一つ機獣を殺してくれないか? 追い払うだけでも良いんだが。炭鉱はもう諦めているが、もう二十人近く喰われちまった。ひでえもんだなありゃ」
悲しいわけでも、悔しいわけでもない。ただ諦観がこもったその声に、男は静かに目を伏せた。そして力なく首を振る。
「馬鹿な。いち魔術師が適う相手ではない。国に優秀な魔術師を数人派遣してもらうべきだ。《魔工人形(アンティーク)》持ちのな」
「
「……ならば傭兵にでも」
「出来るだけあんな山賊集団を街に入れたくねぇのは、世の常だ」
その言葉を最後に店主は黙ってグラスを磨き始め、男も考えを纏めるべくカウンターに座りウォッカを開けた。口に運ぶ前に、男は頬杖をつく。
(……機獣か)
機獣。20世紀半ばから人間と同様に繁栄を続けている生命体。何処から来るかも判っていなければ、効率よく倒す為の有効な手段も明らかになっていない。
文明を喰らうもの、と奴等は例えられる。それは奴等が機械類や化学物質、時にはネジや鉄板にまで寄生する生き物だからだ。
性格は等しく凶暴。生物の血と鉄を好む資源と命を食む害獣だ。
構えた銃が牙を剥いた。電話に耳を食い千切られた。放ったミサイルが舞い戻り基地を踏み潰した、等々と。奴等が現れた時の悲劇と混乱は生々しく伝えられている。
人類としては野放しを決め込む訳にもいかず抗戦は幾度となく行われたが、人類は科学と利器を失えばただの猿だった。国を丸ごと滅ぼされる事は珍しい事ではなく。そしてそのほとんどの奪回は未だかなっていない。
2117年現在この地球の7割が、人が踏み入れぬ機獣の棲家となっている。
インフラ設備は壊滅し、通信手段は断絶。しまいには飛行機や船、車。そのほとんどが使えなくなった。残っているのは小さな町や村同士の細々とした交流だけ。
「あんた」
ひどく訛りがかった声がキッチンの奥から聞こえた。視線をやると壮年の女が苦々しい顔でこちらをのぞいていた。
「その人に、機獣は無理でもさ、せっかくだから、あの、魔女を……」
「バァカ。あんな与太話信じてんじゃねぇ。森狩りしても何もなかっただろうが」
「で、でも、魔女なんだよ?人の目を欺くぐらいやるだろう……!」
「魔女?魔女がいるのか?」
珍しい事だった。何しろこんな時代、魔術師はどんな愚か者でもその才能さえあれば歓迎される。極論を言うなら、例え犯罪の前科を引っ提げていたとしてもだ。
「……それが、存在するかどうかを確かめてくれば良いのか?」
「いやまあ、どうせいやしないんだけどな」
「つまり、マダムが夜少しでも安心して眠れるように魔術探査を行えばいいのだろう?」
「いいのか?」
「雨露と風を防げる場所さえ用意してもらえるならば出来ることはする。今から向かおう」
「ビジネスライクだねぇ」
開けてしまったウォッカをどうするか迷った挙句、そのまま口に当てて底を逆さにした。すべて飲み干して、席を立つ。
「ごちそうになった。ついでに毛布も用意してくれると助かる」
「あいよ。熱い火酒も用意しといてやるさ。酔える奴をな。今から行くのか?」
「もしかすればすぐに終わるかもしれない。直ぐに戻らなくても心配はしなくていい。数日中に必ず一度は戻る」
「判った。森はここを出て西にまっすぐ行けばすぐ分かる」
店主の心なしか陽気な声を背中に受け、男は外に出た。
二月初めの冷たい風が肌を刺す。舗装もされていない道で一旦足を止める。人も疎ら。道に灯りも少ない。
しかしその分星は主張が激しく。しかして、西の空の端で鬱蒼とした森だけが黒い影となってそれを飲み込んでいるのが見えた。
◆
「リズ」
街を少しだけ離れて、崖を抜け、そこからもう少し離れた場所に森は鬱蒼とそびえていた。声を出すと夜の空気に吸い込まれるように音は消えたが、代わりに機械的な光が踊る。
《声紋認証。起動しました。命令をどうぞ》
「森の中に魔術師がいるかどうか検索してくれ」
《了解。検索を開始────》
そのまま十五秒程が過ぎた。ぴくりと男の眉が揺れる。時間がかかり過ぎている。
ポンコツと揶揄したりもするが、この《機工人形(オートマタ)》は稀代の逸品である。加えて先程よりもかなり狭い範囲。これほど時間がかかる筈はない。
「どうした。検索を続行しろ」
《イエス。しばらくお待ちを。────────終了。極々微弱な魔力を感知。《人形》ではありません。《機獣》ではありません。魔術師ではありません。特定不可》
「……なに?」
普通のカザフの森とは違って背が高く広葉樹林が主に広がっている森。とはいえ外から見れば目を引くほど珍しい訳でもないが。
「……このまま森に入る。索敵を維持したまま随行しろ」
《了解マスティ》
「マスター、だ」
半ば惰性のやり取りの後、緊張感を保ったまま男は森に足を踏み入れた。眼帯に隠れていない方の左目が、ゆっくりとしかし鋭く周りを観察する。変わったものは見つからない。腐葉土を踏みしめながら、更に森の奥に歩を進めていく。
湿った自然の臭いがある。獣がこちらを覗く視線がある。虫が樹液を吸う気配がする。ばさばさと風を切る音はおそらくどこかで鳥が羽ばたいた音。しかしそれはどこにでもある森の姿だ。
──しかしそこで男は足を止めた。僅かに眉根が寄る。整った鼻が独特な気配を嗅ぎ付け、躊躇いがちに延ばされた腕がその場所を見つけ出した。
「これ、は……?」
するりと何も掴まなかった手の中を覗き込んで、男は目の色を変えた。
魔術的な気配がごく薄くだが感じられる。上等の魔術師でも直接この森に入って、加えて言われて初めて気づくような些細な物だが、確かに存在している。
「しかし、……いや、信じられん」
人為的なものではない。ごく稀にこういった物が自然に出来るという話は知っている。木の配置。水の流れ。霊石魔石の岩が作った魔力場。それが偶然組み合って出来る魔術現象。
「天然物か……」
それはただ命を穏やかにさせるだけだったり、植物の発育を助けるだけだったりと様々だが、この場所は少し格が違った。
空間が切り取られて貼り付けられている。人の手で行えるような物ではない。たとえるならば、カドーやウユニの湖、武陵原やグランドキャニオンといったような。そんな自然が作り出した芸術といっていい。
"世界のカットアンドペースト”。
半径一キロほどの場所を切り取ってその円の外縁同士を貼り付けている。
「ようやく、運が巡ってきたか……!」
こういう場所があれば、と空想はしていた。いや、妄想と笑うべきだろう。それほど、この場所は奇跡の連続で構成されている。
《マスティ。対象は個人の手には余ります。通過、破壊、解除。どれも成功率0.00001以下です》
「構わん。"右足"を使う」
それは、水面越しの月の加護。
ぽつり、と口から零すは魔の呪い。──"触れられずを許さず"。
男の左足が持ち上げられ、それを踏む。ぎちり、と何かが悲鳴を上げた後、するりと男の足が"中"に入り込んだ。一度入ってしまえば、後は簡単。狭い隙間に割り込むような格好で男は"中"に割り入る。
「────……」
そして、思わず目を見張る。
そう、居るならば。もし誰かが待ち構えているならば、それはきっと件の魔女であろうと。興奮で浮足立ちながらも、それは頭の片隅で警戒していた。しかし、目の前に広がった光景はそんな暢気な予想を小馬鹿にするように裏切っていた。
目を瞠る。そんな男の頬に陽光が仄かに差して、劇的な風景に一瞬思考は白く染まる。
なぜこんな真夜中に黄昏色の陽が差しているのか。
なぜ冬なのに回りの木々は白い花をつけているのか。
──そしてなぜ、目の前に機獣が口を空けて待ち構えているのか。
時間が凍り付いた。機獣はその黒金の顎から涎ともオイルとも取れない液体を垂れ流し喉を鳴らしている。見た限り狼を象った型。しかし大型犬ほどのサイズなどでは決してない。
木々の間を縫いながらでないと立てないほど、と言えば分かりやすいか。いや、前足の関節が男の身長を優に越えた場所にあると言った方が絶望の度合いとしてはハッキリする。
これで一般的な機獣の大きさだというのだから、"前線"でこれと戦っている魔術師たちには舌を巻く。
ギチギチギチと、口が大きく開かれていく。
それは頬を裂いて首を通り過ぎて、体の半ばに至るまで。大きく大きく全て丸ごと飲み込めるように。
「……糞ったれめ」
こちらを見定めている。逃げられない。いや、逃げるつもりはない。この場所と出会えた奇跡を逃すならば、もう自分に未来はない。
男が使えるのは、先ほど使った"左足"、そして"鼻"と、"喉"。男が腰から黒塗りのナイフを抜き放つと同時、ゴリゴリと音を立てて、機獣の乾いた双眸がこちらを向いた。
耳を劈き森を揺らす機械の咆哮が響き渡る。
◆
目を開けた瞬間、こちらに手を伸ばしていた女と目が合った。
怯えるように女は目を逸らすと、こちらに伸ばしていた手を胸の中にしまいこんで更に視線を泳がせる。
「あ、……」
乾いた喉が震えた。それに反応して、女の視線がこちらに戻ってくる。空ろな視界の中で、女の体に手が伸びた。それが自分の手だという事に気付くのに一秒と半分。そして今自分が寝ているこの場所がどこかの森の中だと気付くのにまた一秒と半分。
木の葉の屋根の隙間から光の帯が差し込み、ちかちかと悪戯に視界を焼く。再びこちらに伸ばされかけていた女の腕を掴んで引き寄せた。
力が入りすぎたのか、女が痛みに喘ぎ、眉根に皺を寄せる。反射的に離してしまった手は思ったよりも自分の体を支え始めていて、僅かに浮いていた体が地面に落ちた。
木の根の下。柔らかな雑草の上に後頭部を緩やかに打ち付ける。
痛みは無いが、上下に激しく揺れた視界と頭蓋骨の中身に伝わった衝撃が、なけなしの思考を停止させ視界に黒い帳を下ろしていく。
「────ぁ、だ……」
声にならない音が鼓膜を揺らす。それは女の声なのか、自分の口から出た音なのか。
判らないままに、男は意識を手放していく。
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