第5話私の盲目 2-3
言っとくけど、悔いなんてない。むしろ清々しくある。足は軽やかだ。スキップなんてしそうでもある。ピースサインを空に掲げて、イエーイなんて言って一回転しそう。それくらい足取りは軽いの。
それから通信教材を注文してあたしは高認の試験に向けて勉強した。でも、塾なんて通わずに独学での勉強だったからそれは辛かった。宅浪生の気持ちが少しだけわかったように感じた。本当に心にモヤモヤが溜まっていった。
大学受験までノンストップのつもりだったから、1日10時間ほどの勉強量であったけれども、それでも今まで勉強してこなかったあたしには、ストレス以外の何物でもなかった。家で勉強しているだけあってあたしは以前のような派手な見た目は池袋に置いてきてしまったらしい。合格するまで買い物なんてしてたまるか! という自分の中でルールを作っているほど。
でも、その甲斐もあってあたしは、17歳の11月、高認試験を通過することができた。それでも、あたしの目標はあいつと同じところなのだから、まだ勉強を続けなくちゃいけない。
この頃には、あの男の進路をなんとなく耳にすることができた。だから、あたしはそのためにも猛勉強をすることになるんだけど、それはもう辛さなんてなかったのはなぜだろう。
だいたい1年と少し経った頃だろう。もう前期試験が終わって合格発表も間も無くってところ。ほとんどの受験生は、期待と不安を重ねる日々を送っている。そんなストレスは気にしないと思っていても知らず知らずに積み重ねていってしまうんだけど、避けちゃならない日々であることも偽れない。そんな受験生にとってはちょっと憂鬱な日々の中の1日。
「また、空でも見ているの?」
あいつは、いつもここで空でも見に来ているのだろうか。それとも、今日は、たまたま見に来たのだろうか。あれからずいぶんと時間が経つ。きっと一周回って帰ってきたんだろう。男は、この池袋西口公園の中央で思いの外、楽しそうに空を見ていた。
「またか」
「またかとはひどいな。でも、そうも言いたくなるか」
「随分と化粧っ気がなくなったな」
「んん。あたしも受験だし、いつまでも時間潰しなんてしてられないから」
「なんだ、同い年だったのか?」
「たぶんそう。西高でしょ?」
「なんで知ってるんだ?」
「なんでもいいじゃん。大学合格おめでとう」
「そこまで知ってるのか。ありがとう」
久しぶりに会った男は、あたしとは違い、全然変わっていなかった。そのどことなく儚げで、どことなく現な男はいつものように空を見ていたんだ。
この男を知ってしまったら……、この男に惹かれない女なんて存在するんだろうか。恋の幻のようにあたしの前に現れて、それなのにあたしにはそれが掴めない。存在自体を見失ったかのように、時折あたしの目の端で捉えるほどに儚い。
消えてしまわないように今ここで何か言わなくちゃいけないと思った。恋が偶像なら、今この瞬間を逃せばこの男を一生逃してしまうような気がした。空を見るこの男は鳥のように、いつもフラフラと現れては、突然消えてしまう。この男は、あたしを探しすらしないのだから、今度はいつあたしが見つけられるかわからない。
言わなくてはいけないと考えれば、考えるほど何を言っていいのかわからくなる。同じ文字を見れば見るほど、その形が正しいのかわからなくなるゲシュタルト崩壊のように、あたしには、考えがいびつに歪んでいるのかと思った。
またこの男は空を見てしまう。早くしなくてはいけない。何か言わなくてはいけない。じゃないと、このまま終わってしまう。そう直感するの。この機を逃せば、あたしはずっと口を噤んでしまう。
「お……、教えてくれない?」
「何を?」
「面白いこと」
「知っているじゃないか。クラブに行ったり、ラブホに行ったり。それが面白いんだろ?」
「うん。あたしはそれしか知らないの。今度は、あんたが知っている面白いことあたしに教えて?」
「何も知らない。ただ面白いことや美しいと思えることをこの目に焼き付けておきたいだけだ」
「そっか」
その言葉があたしにはクラブの爆音のように耳に残る。うるさいとばかりに聞きたくないものだった。
「あたしさ……。探してたんだ、面白いこと。でも一人じゃ見つからなかった。だから、あんた。ちょうど道中って感じ。一人よりは二人の方が良くない? 見つけやすそうじゃん。あたしも同じ鳥取の大学なんだ。運命感じるでしょ?」
とってつけたような都合のいい返し……。考えよりも先に口が動く。でもバカなあたしには後から考えてもこれしか思い浮かばなかった。あたしがこいつと同じ大学を選んだのは、この男に教えてもらうため。あたしが知らないことを教えてもらうため。この男のことを教えてもらうため。なら、言い方は違うけど、あたしはこいつと一緒にいたいんだ。
「あたしと一緒に見つけよ?」
あたしは、少し照れたように言ったと思う。
でも、初めて……、初めてあたしを見たような気がした。空ではなく、あたしを見たような気がしたの。あたしはどうしてあんなに嬉しかったんだろう。ただ目があっただけなのに、早くなる鼓動を止められないし、ゆっくりと進んでいく時間を止められなかった。
「今度は、裏切らないことを願っているよ」
いたずらっ子っぽく男が微笑む。
「いや、それはあたしのセリフだよ。見つける前に逃げ出さないでね」
正直にいえば、断られるかと思った。だってあたしは以前にもこんな提案をしているんだ。何同じこと言ってんだって言ったりして普通は断ると思う。でも、この男は笑顔で肯定した。
何て言えばいいのかな。この笑顔を見たときあたしは驚いたんだ。ううん。肯定したことに驚いたんじゃなくて、こんな笑顔初めて見たの。いつも愛想笑いの笑顔の中で生活していたから、赤ちゃんが初めて世界を自分の目で見た時みたいに……、こんなに……、こんなに綺麗な瞳で笑っているんだもん。本気で恋に落ちた瞬間だった。
恋が偶像なんてバカみたい。これが偶像だって思っていたなんてバカみたい。こんなにも恋が近くに転がっていた。バカみたいにあたしは色々と考えて、すべてを諦めてしまっていたのだろうか。
あたしはなにも知らないだけだったのに、それなのにあたしは自分からそんなものないなんて決めつけてしまっていたなんて、本当に自分の固定された考えがバカみたいだ。そう思って自分を笑ってしまう。
あたしにとって鳥取なんていう土地は、何の愛着もない場所。中国地方の島根の隣の県で岡山の上の県であり、兵庫の隣の県だ。これは地図上の情報でしかない。実際にあたしは、受験の時にそこを訪れたんだけど、未だに汽車が走っているくらいだ。そして地元の人も“汽車、汽車”と言っている状況に戸惑った。“あ、電車じゃないんだ”と。そして、その汽車は何もないのに時折止まっている。なんとも長閑だと思ったが、それが市街地での出来事であるので、この県民は一体どうなっているんだと思った。と思ってみると、汽車はガラガラであったりと、県民は車移動が主であるらしい。
高認資格を取り、学校をやめたあたしには卒業式というものがなく、証明書は郵送で送られてきたので「、なんとも手持ち無沙汰になっていた。だから、あたしは早速運転免許を取った。それから、引っ越しのため鳥取に普通よりも早く行くことができた。
「あー、人少ない! 本当に土日!? こんなに駅周辺に人通りがないなんて東京では信じられない!」
お父さんは長旅で疲れているらしい。んーと伸びをして長時間座っていた体をほぐしていた。今回は家族三人のため、お父さんがメインのドライバーとして車で来た。あたしとお母さんも運転したので、少し時間がかかってしまったが、東京から鳥取は概ね走行時間は10時間くらいだったかな。本当に遠い。
前回受験のために鳥取に来た時、同時に部屋の予約をした。これでも東京とかでは、遅い方だと思っていたが、やはり鳥取である。この時期でもあたしの希望の条件(正確には、お母さんの条件であるが)をすべて満たす物件がすんなり見つかってくれた。あたしは内見をしてその場で決めたことを覚えている。意外におしゃれなのだ。そして、何よりも家賃が安い。(もちろん東京と比べてのことである)
「本当に広いわ!」
お母さんが部屋に入るなり、窓の方に行って換気を行おうと窓を開ける。そうするとお母さんの行動が止まってしまった。
「どうしたの?」
「田んぼよ。畑よ。景色はあんまり良くはないわね。まあ、長閑っていうことで片付けましょうか」
鳥取という地は砂漠なんだということをよく耳にしていたが、案外砂地のところは少ない。砂漠の所以たる“鳥取砂丘”と呼ばれるところがその代表であるのだが、そこは本当に砂漠と言ってもいい。
「仕方ないよ。ここは大学が近くにあるけど、中心地からは結構離れているから、こんなもの」
「でも、車で来た限り、ちらほらと居酒屋とかがあったね」
「そうだね〜。まあ、大学生は狂ったようにお酒とか飲むから近くだと少しくらいはあるわよ」
「でも、聞いた話では、やっぱり鳥取駅周辺の方は飲屋街だから、アダルトでディープな街らしいよ。まあ、ここよりかはっていうのがつくけど」
鳥取の飲み屋は弥生町と呼ばれるところであるが、当然に新宿のネオン街“歌舞伎町”に勝るはずはない。だが、小さな飲屋街が密集しているので、はしご飲みをする分にはとても入りやすくリーズナブルであるらしい。この辺もあたしのリサーチによるものだ。いつかあの男と行ってみたいと思っている(当然成人をしてからである……)。
引っ越しの準備というのはあまりない。基本的に服とかはそんなに多い方ではないの。東京で買った方がいいんじゃないかと思っていたが、家具家電はこちらで揃えた方が色々と都合がいいとお父さんが言っていたので、それに合わせる形で迎合した。
一通り引越しが完了したことでお父さんとお母さんは東京へと帰ることになってしまった。その時は本当に寂しかった。見知らぬ土地で一人暮らしというのは、ここまで寂しいものだとは思わなかった。あたしは不良娘であるのだけれど、それでもここまで涙が出るのかと思うと都合がいい感情のようだ。
あたしとあいつが再び会うまで一週間ほどある。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます