第2話私の盲目 1-2

 “恋心なんて一時の気の狂い。”同じもので例えるなら、半狂乱の人と同じ境地。あたしはそんなことを考えている。恋の駆け引きも、恋煩いも、惚れた腫れたなんて、そんなものは、偶像に過ぎない。本能が拵えた単なるお遊びなの。でも、あたしは他者にその偶像を作り出すのを楽しいと感じ、そして、それを一方的に壊すのに快感すら感じている。いや、これもただの気のせいであるのだと思う。道を外して歩いた時と同じ感覚だ。なら、これはただの暇つぶしってことになる。でも、それでもいいの。あたしを楽しくすることなんてひとっつもないんだから、今この時の暇つぶしに精を出す。



 このころのあたしは、よく“恋愛クラッシャー”や“ドロボウ猫”、“女狐”と呼ばれていた。あたしの標的は女がいる男、または、女に狙われている男である。狙ってやっているんだから、あたしは性格が悪い。清純なんてほど遠い女だ。女に嫌われるタイプの女。


 これが恋愛小説なら、これが少女漫画なら、あたしはきっとヒロインになれない。恋なんて何の価値もないただの無責任な下心なんだから。



 あたしは、思っているの。この男もすぐにあたしにくだらない恋をするって。不思議な男が恋をして見境なくなったら、どうなってしまうのかって考えると楽しく思えてくるの。そういうことを考えると擬似的にドキドキする。



 あたしが最初に選んだ場所は……、クラブ。ここならきっとこの男と触れる機会が多くなる。あたしは知っている、ボディータッチが多ければ男はすぐにドキドキしてしまうこと。さらにはお酒が入ってしまうと感情の嵩が外れてしまうこと。なら、本当にもってこいの所になる。


 少し、大通りからは離れて、薄暗く、小汚い道に入ると、クラブ街やホテル街と呼ばれる場所がある。そこは、現実とは隔絶された異質な光を放っており、夢心地のように感じてしまう。

 その異質な光は、誰彼構わず、媚びる。誰彼構わず、受け入れる。そこに誘われる人たちは、どこか焦点が合っていない。



「こういうところは、初めて来るな」


「本当? まあ、未成年にはあまり縁のないところだから」


「そんな歳は離れていないだろ。ところで、こういうところにはよく来るのか?」


「まあ、そうだね。暇つぶしにはなるよ」


「そうか。暇つぶしか……」



 男の反応がやや悪いようなことに気がついてしまったから、あたしは若干しまったと思った。おそらくあたしが面白い所に連れて行ってやると言っていたのに、“暇つぶし”と言ってしまったからだと自己分析し、解答を得る。



 まあ、それはここに入れば、間違いであったと思ってくれることだろう。あたしは、通い馴染みということもあり、特別にクラブへタダで入れてもらえるように計らってもらう。



 あたしは通い慣れた狭く、息苦しい通路をいつもの歩調で歩く。後ろをちらっと見ると男は、見慣れぬ光景にさぞかしドキドキしているのだと見受ける。あたりをよくよく観察しているのだ。ああ、よかった、と内心でホッとしていた。



 通路を通り、荷物をロッカーにしまってエレベーターに乗る。この中でも上の爆音はよく響いてくる。

 二階のボタンを押す。上に上がる運動エネルギーで少しだけ重力が強くなるのを感じた。

 若干古いエレベーターで目的階に着くとチンというのだが、それはなんだか好きだと思う。だが、今は爆音によってかき消されてしまっていて、それを聞けるのは全ての営業が終了した後のこと。



 エレベーターの扉が開くとそこは別世界のようだ。音だけが空間を埋め尽くしているようにさえ感じて、水中に入る感覚と似ている。全身に圧を感じて前に進むのにも抵抗がある。それでもあたしは、男よりも前を歩いた。

 それはきっとこの男よりも多くを知っているあたしという人間のプライドだ。それとも、あたしが進まなくては、この男が前に進めないという圧力だったのかもしれない。


 前と後ろの圧力を感じてあたしは前に進んだ。



「ここが面白いところか?」


「ああ、すごいでしょ、この爆音。体の芯から振動するみたいで気持ちよくない?」



 あたしはそう言って音の源の近くに歩みを進める。その道すがら、ドリンクカウンターで、アルコールをチケットで交換する。

 こういうところで、あたしはショットのテキーラをよく飲む。強い酒を飲むと体がバカになってくれるように感じるのだ。抑制する心が壊れてくれる、嫌だと思う心を打ち壊してくれる、そう思うの。


 あたしは男と、ショットのテキーラで乾杯をして、それを一気に呷る。口に一度含まず、喉に直接通す。

 喉を通過し終わると、すぐさまテキーラが巡ってきた場所が猛烈に熱くなっていき、次第に全身が蒸されているように熱くなっていく。ただ、突然の飲酒に体が驚いているだけなのに、あたしは、その熱さを興奮してきたと勘違いしている。


「どう? 体が焼けるように熱いでしょ? テンションあげなきゃたのしめないから。それには強い酒が一番!!」


 あたしはそう言って音に紛れるようにフロアの中央で隠れて踊った。



 あたしは爆音の中でさっきのテキーラが頭にきているのだろう。ひどく頭が痛かった。爆音がそれを促しているようにも感じた。でも、アルコールのおかげでその痛みが弱くなっているようにも感じて度々テキーラを空にした。その度に男はそれに付き合ってくれていたんだけど、どうにも様子は楽しそうではなかった。何かを探るようなその顔は初めてみるものへの好奇心などどこにもない。加えて、あたしを見る気味が悪い目線。時折、空を仰ぐようにみる男の視線を怖いとさえ感じていた。




 あたしは、必死に楽しそうに踊った。男の視線に怯えながら、頑張って楽しそうな演技をして踊った。

 もう無理だ、もう耐えられない、と思った矢先。爆音がやみ、血の気が引いていくことと同じようにハコから人気が引いていくのがわかった。


 居心地がいいとは言えない時間。そんな人生最悪の時間を過ごした。その中で楽しそうに踊らなくてはならないあたしはなんて滑稽なのだろう。




 営業時間が終了して、目はチカチカとぼやけ、先ほどの爆音が嘘となり、周りの音が弱くなったと感じる。

 激しい眠気とともに、あたしの耳には未だ鳴り止まない耳鳴りだけが残っている時間。余韻とはほど遠い不快な時間。弱くなった部分が手を離れて大きくなる時間。

 そんな時間があたしという自己の弱さを認識させる。この時間がなんとも苦手だった。



 しかし、エレベーターに乗り扉が閉まって、目的階に着いた時のエレベーターが鳴く“チン”という音がこの不快とも言える時間をリセットしてくれる。その瞬間はなんとも好きだった。


 外に出るとあたりはなんとなく薄明るくなっている頃だった。怪しい光は、太陽の取り立てに居場所を追われ、どこかに消えていなくなろうとしていた。



「これで終わりか?」



 という声が後ろから聞こえてきた。あたしはやっぱりかという言葉が浮かんできては、消えてを繰り返していた。だから、あたしは気丈に振る舞うことにした。ここで『終わりよ』なんて言ったら、負けているようにも感じたし、つまらない女だと思われてしまう。そう考えた。



 それは何よりも嫌だった。



「まっさか〜! ここからが本番」



 とは言うのだけれど、こんな時間に開いているところなんてないと言ってもいい。だから、あたしは仕方がなくあの場所にと足を運ぶ。あたしにとっては何度も行っているところだし、躊躇いなんてないのだが、こいつとそこに行くのはなんだか嫌だった。



 ラブホテル。そこは最終防衛ラインであり、最終局面の落とし所。あたしはよくここで決着をつける。その考えの根本には、男なんてヤりたいだけということがあり、そして、あたしはそれを満たすだけの整った顔と体がある。この男もあたしの体を見れば、抑えきれない欲望であたしを犯すのだろう。そうすれば、この男はあたしのもの、男は楽しいとも言えることが見つけられて、あたしは一時の暇つぶしができ、ウィンウィンの関係がいられる。



 それでいい。


 男は、ドア近くのソファーに座って、あたしの言葉を待っているようだった。



「あたしが先にシャワー浴びてくるね」


 あたしは男の眼の前で裸になり、そう言った。

 きっと男は、あたしの裸から目が離せなくなっていることだ。

 こんな時にロマンチックな局面なんて必要ない。だって、あたしたちは恋人でもなんでもないんだから、そんなものを必要とする道理がない。

 あたしが浴場でシャワーを浴びている時には、どんなことをしてやろうかという妄想の中で欲情を高め、浴場から出てきたあたしをその欲情のかられるままに散々に犯してしまう。男なんてみんなそんなもんだ。


 きっとこの男もその例に漏れることはない。あたしの記憶ではそんな男なんていなかったんだから。





「帰る」


「……。は? どうゆうこと?」


 本当に一瞬この男が何を言っているかわからなかった。今あたしは裸でシャワーを浴びるとまで言っているのに、この場面で予想の範囲を超える言葉に何を言っているかわからなかったの。あたしは“抱いていい”って示しているのに帰るなんて言葉が出るなんて思わないじゃない。


 それとも、妄想であたしを散々犯した後に自分が帰るというところまで妄想したから、その場面だけが言葉として出てきたのかしら。

 だけれど、あたしの考えが違うことくらい男の顔を見れば、簡単に確定できてしまうのだから、あたしの驚きと憤りは大きい。



「これからが本番じゃん。どこ行くつもりなの?」


「つまらない。本当につまらない。まだ空を見ていた方が面白い。こんなの求めてない」



 男はそういうとソファーから早々に立ち上がり、ベッドの上にホテルの料金だと思う。一万円を置いて出て行ってしまった。当然にあたしはその一万円を使おうとは思えなかった。


 最初こそ戸惑ってしまったんだけど、この状況をあたしは飲み込めている。そうなの。やっぱりとも思っていたし、どうして? とも思っていた。二つの矛盾とも言えることがあたしの中で競うように走り寄ってくる。


 あたしの裸を見たときの男の目は、興奮の色どころか、動揺の色すらなかった。あたしの裸を見ても男の目は、一瞬の揺らめきすら与えていなかったの。ただ、静寂とともにあたしの裸をまじまじと眺めるだけ。気味が悪いとかではなくて、非情だと感じた。



 あたしがこれまで考えていたことは間違いだってことなの? 裸のまま取り残されたあたしはどうなるの? あたしはこれからどうすればいい?



 タオルも巻いていない、恥じらいとは程遠い裸ということがあたしの恥ずかしさを倍増させる。あたしはそのまま地面にへたり込んで泣いてしまった。そんな自分が惨めだと思った。こんなあたしが上から目線でモノを教えていたことを恥ずかしいと思った。男の求めていることなんて全くわかっていなかったし、それは今も同じであの男があたしに何を求めて付いて来たのかわからなかった。最初からあんな態度をとることができたなら、初めからついてこなければいいのにとも思った。あの男はあたしに罰を与えるために来た神の遣いかと思うほどに狂ってしまった。



「こんなのどうすればいいのよ。あたしは見せしめ? 今までの行いの罰?」



 あたしは今まで自分が悪いことをしてきたと認識している。断じて、今までの行為があたしの正義だと言わない。あたし自身もこれが悪いことだってわかっている。でも、その悪に手を染めることで、あたしはどうしようもなく、どうしたらいいのかわからなくなるほどに心のざわめきとともに心が落ち着いてしまう。

 正しいとも言える道を歩んでいる人みたいにつまらないと思える日々を積み重ねるしかないというのなら、あたしは今までのことをやめることなんてない。だってあたしはただ純粋に、ただひたすらに追い求めてきた。あたしを満足させることを。それは他の誰よりもあたしに素直だってことよ。

 だから、それを止めようとは思っていなかった。それがこの罰の根源だというのなら、あたしはどうすればよかったの。



 何もかもがわからなくない。ただ泣くことしかできなかった。考えるという一切を放棄して泣いた……。そうすることで脳は深く静かに活動を停止した。



 泣きすぎて、逆に瞳が渇いたと感じた頃、少しだけスッキリした。そして、古いラブホだったからか、天井には、一面の鏡が貼り付けられている(今は、そんな作り方はできないらしい)。不意に自分と目があう。その鏡に映る泣き疲れたあたしの顔は、醜く、ボテボテと瞼は重そうに腫れている。そんな自分を見たくないとばかりにあたしは死んだみたいに目を閉じて寝てしまったの。



 どれくらい寝たかわからない。突然電話の音が鳴り響いて、あたしはその電話を取る。

 掛け布団に全身を隠して、音のする方に手だけを伸ばした。目的の受話器を手に取ると、顔を少し出して受話器を耳に当てる。


「はい」

「スミマセン。もうお時間ですので、ご準備をお願いしまーす」


 気の抜けた電話越しの声で目が覚めた。その目覚めは最悪だった。


「わかりました」



 あたしは早々と昨日と同じ服を着たが、その服は昨日踊った時の汗のせいかベタベタして気持ち悪く、臭い。裸で帰りたいとすら思えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る