#04 とある日・アルミ缶の上にある未完

 ジジッと短い蝉の声を聞いた。

 顔だけそっちに向けると、灼熱のアスファルトの上、仰向けにひっくり返って、無様に脚をバタつかせて朽ちようとする蝉の姿を見つける。電柱に張り付いていた、七日目を迎えた奴が落ちたのか。しばらく眺めていると、自分で起き上がることもできずに藻掻き続けて、そのうちぴたりと動きを止める。生きることを終わりにしたらしい。なんとなく、僕にそっくりだと思った。

 目眩がするほどの日差しの下、向日葵みたいに上を向けそうもない僕は、俯きがちに歩を進める。人も車も通らない田舎の道に蝉時雨が降り注いで、その暑さを際立たせている気がする。都会には蝉よりも人の数のほうが多いのだと友人が言っていたのをなんとなく思い出した。暑苦しいのは何方だろう。時折肌を撫でる微風を思うと、此方のほうがマシなのかもしれない。あっちは風の通る隙間も無いくらいに、人でごった返していそうだから。

 額に滲む汗を拭いながら、車一台が通れる程度の橋を渡る。下を緩やかに流れる川の流れに視線を落とした。穏やかな細流の音に耳を傾ければ、多少は暑さが紛れるかもしれないと思ってのことだった。


 それでまさか、堤防に人が突っ立っているとは思わなくて、思わずその人から目が離せなくなった。


 鎖骨の下ぐらいまで伸ばされた黒髪と、紺色のワンピースの女の子。病的に白い肌とほっそりした手足のせいで、とても不健康に見える。真夏の日差しを浴びてもその色を保っている。なんだか幽霊みたいな子だと感じた。着ているワンピースが真っ白だったら、僕はその人を幽霊だと決めつけていたかもしれない。少し長い前髪のせいで顔立ちも暗くみえるのだ。夏の川辺に一人で佇む女、というだけで何処か不気味に感じられる。先日見た心霊特集の番組の影響で、直ぐにそういうものと結びつけたがる自分がいる。

 その子が突然、靴も脱がずに、じゃぶじゃぶと川の水に浸かるのを見て、入水の二文字が脳裏を掠める。驚いた僕は足を止めて彼女の挙動を見守った。けして深い川では無いが、彼女くらいの背丈なら、一番深いところまで行けばへその辺りまで沈んでしまうのではないだろうか。

 彼女は靴が浸水するのを気にする様子もなく、ずんずん深い所へ進む。膝より少し短いワンピースの裾も水を含んで暗い色に変わる。あんまりに迷いの無い足取りに、不安になった僕は思わず口を開いていた。


「何してんの」


 橋の上から降ってきた声に驚いて、彼女が弾かれたように顔を上げる。しばらく不思議そうに僕を眺めていたが、そのうち、呟くようにして声を出す。


「捜し物」

「……靴も脱がずに? 服の裾もびっしょびしょじゃん」

「それだけ一生懸命なの。……あなたには関係ないでしょう?」


 柔らかく聞き取りやすい声だった。けれど、人を拒むみたいに、少し棘のある口調。涼しげに微笑んでいるくせに、そこには「関わるな」と書いてあるように見える。

 ジイワジイワと蝉の声が二人の沈黙を埋める。

 此処で僕が引かなかったのは、彼女が綺麗な顔立ちをしていたことも、その頬に大きなガーゼを貼り付けていたことも、多分関係ない。でも好奇心とも違う、何か。

 強いて言えば、揺蕩う碧色の中に浮かぶ彼女から、目が離せなくなったから。


「手伝う。捜し物は何?」


 そう声をかけると、彼女は驚いたように目を見開いていた。呆然とする彼女を余所に、僕は橋を渡り、堤防を降りて、その辺に靴を脱ぎ捨てると川の流れの中に足を沈める。予想以上に冷たい水温に思わず声を上げる。それよりも、水底の小石が足の裏を突き刺す痛みに肩が跳ねた。

 彼女は未だに目を丸くしたまま、僕を眺めていた。橋の上からは分からなかったけれど、近くで見る彼女の指や腕、膝の数ヶ所にはバンソーコーが張り付いていた。


「    」


 細流に負けてしまうほどかぼそい声で彼女が何か言った。それから、どうしてか、少しだけ寂しそうに笑う。その表情は、聴き返そうとした僕の言葉を遮るには十分だった。


「ねえ、捜し物は何」


 彼女は僕の問い掛けに答える代わりに、ありがとうと言った。蝉の声が五月蝿かった。





 川から上がって、二人で近くの公園まで来ていた。無人とはいえ蝉の声が喧しい。僕ら以外に人の姿は無く、無人の滑り台やブランコが寂しげに佇んでいる。輪郭が陽炎で揺らいでいて、蜃気楼みたいだと思った。

 僕は、適当なベンチに腰を下ろして、一息ついた。肌を撫でるぬるい風が気持ち悪い。


「見つからなかったけど、ありがとね。これお礼」


 彼女はいつの間にか近くの自販機で買ったらしい、三つの矢のマークで有名なサイダーを差し出してくる。炭酸は苦手だ、なんて言って断るわけにもいかないから短いお礼と共に受け取る。冷えきった缶の表面は、この熱気に晒されて僕らと同じように汗をかいていた。

 カシュッ、と小気味良い音を立てて空いた缶を一口。口内を満たす冷えた温度が心地良い。そう思いかけた瞬間、容赦なくバチバチと弾ける泡沫の刺激に、思わず吹き出しそうになった。慌てて嚥下して、でも喉を走り抜けていった痛みに噎せ返る。

 彼女も同じものを購入していたらしく、隣で平然とした顔でそれを傾けて口に流しこんでいた。いい飲みっぷりだ。父がビールを同じように呷っていた様子と重なった。口からアルミ缶を離してぷひゃあ! なんて声をあげるところなんかそっくりである。

 ふと視線を下げると、僕の足元に、日向に出てきて干乾びたミミズが転がっていた。うだるような暑さに水分を失っても溶けきることも出来ず、そこに居座り続ける。さっきの蝉もそうだ。ただ、何処にも行けずにそこに取り残されて、仕事熱心な蟻に運ばれていなくなるのを待っている。僕にそっくりだ。何処までも。僕みたいだ。

 隣に腰掛けた彼女が、空になったサイダーの缶をプラプラさせながら、俯いていた僕の顔を覗き込んでいるのに気が付いて、少し驚く。何か言いたげにじっと僕の目を見ていた。僕は何? と首を傾げる。


「アルミ缶の上に……ある蜜柑」

「……はあ?」

「え、ちょっと。そんな顔しないでよ。今の凄く面白くない?」


 アルミ缶の上に蜜柑があるのか。何故。アルミ缶の上に蜜柑が? あるの? しばらく脳内で反芻させてから、ようやくアルミ缶と、ある蜜柑をかけたクソくだらないギャグだと気が付いた。


「は? くだらな……マジくだらないな。アホじゃないの、くっだらな! なんだよ今の、あはは、バカみたい」


 彼女のことなんかよく知らないが、そんなことを言う子だとは思わなかった。くだらなさに呆れたけれど、でも、変な笑いがこみ上げてくる。小波のように後から後から押し寄せてきて、楽しくなってしまう。


「やっと笑った。あなた、ずっと暗い顔してたから。良かった」


 彼女も笑っていた。向日葵みたいに。そんな顔もできたのか、と目を見張る。長い前髪のせいで、もっと暗い子だと思い込んでいた。違う。他の要因もあったと思う。失礼極まりない理由で僕と同じような暗い子だと思い込みたかったんだ。そんな自分の存在に気がついて、こっそり心の中でごめんねを言う。


「さて。私はそろそろ帰るよ。遅くなると怒られちゃう」


 ベンチから立ち上がった彼女が遠くを見つめながら言う。その方向に、彼女の帰るべき場所があるのだろうか。

 サイダーの空缶を片手に彼女は僕の方を振り返って、笑いかける。


「少年、下ばっか向いてちゃ駄目だよ。バイバイ、またね」


 蝶々みたいに手を振って、遠ざかる彼女の背中をぼんやりと眺めた。そういえば名前を聞きそびれた。でも、またねと言ってくれたのだから、また会えるだろうか。会いたいわけでもないけどそんなことを考えた。


 一人残された僕の手元に収まるサイダーの缶を、どうしようかと見つめる。一口飲んだ程度では中身の量は殆ど変動しない。自力で処理する事もできなくて。お前もまるで僕のようだね、とサイダーに話しかけてみる。シュワシュワと弾ける泡沫の音は返事と言えるだろうか。

 とりあえず目に付いたのは、干乾びたミミズだった。コイツは多分もう、此処で力尽きて何処にも行けやしない。上から缶を傾けて中身を零してやると、そいつはピクリとも動かなくて、透明な液体がパチパチと弾けながら砂と混じり合っていく。半分くらいかけたけど、やる気もなさそうに爆ぜる液体の中に浸っているだけのミミズを見るのが忍びなくなって、やめてしまう。

 試しに缶の中身に口を付けてみた。さっきみたいに噎せるのが嫌で、ほんの少しだけ。それだけでも口内でバチバチと爆ぜる痛みに顔を顰める。彼女はこれを余裕そうに飲み干していた。彼女のサイダーにだけ炭酸が入ってなかったのだろうかと疑うほどだった。

 残りはどうしようかと考えて、僕はベンチから離れる。

 缶を地面に置いた。少し勢いをつけるために、右脚を引く。振り被る。一蹴。

 

 サイダーをぶちまけながら、快晴の下をアルミ缶が舞う。日の光に反射して、少しだけ綺麗だと思った。降り注ぐ甘い水滴が冷たくベタつくけど、気にならない。

 カラン、と無機質な音を立て、未だに中身を吐き出しながら地面を転がる。液体は泡を立てながら砂と混じり合っていく。

 アルミ缶の上にあるのは、突き抜けるような青色と、そこを白色の絵の具で塗りつぶしたみたいなコントラスト。僕らの気持ちなんか知らないで、勝手に晴れ渡った空を睨みつけた。

 灼熱の日差しが僕を焼き焦がす。蜜柑なんて何処にもない。やっぱりくだらないなと笑った。アルミ缶の中身はまだ残っている。

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