#05 とある日・枯れた向日葵を見ろ

 名前も知らないのに、好きを募らせていた。

 勘違いしないでほしい。これは、少女漫画にありがちなレモン味の恋愛感情とは似ても似つかない。味の種類で言えば、あの日二人で飲んだサイダーを思い浮かべるけど、そんな爽やかなものとは程遠い。今、口の中に広がる血の味には、よく似ているかもしれないけれど。


 二回目の邂逅を果たしたときは、夏の終わりを告げるヒグラシ達が、夕暮れの涼しさを演出していた。殺意に満ちた太陽に唸っていた日々は過ぎ去り、アブラゼミの代わりにトンボが緋色を引き連れて目の前を流れてゆく。

 堤防から見下ろす川の水は茜に染まり、もうとっくに門限を過ぎていることを思い出させる。鴉の鳴き声が私を叱っているみたいに聞こえた。帰らなくちゃ。怒られてしまうから。

 立ち上がろうとした私の腕を、隣に腰掛けてい彼がやんわりと掴む。彼を見れば、迷子の子供みたいに不安そうな双眸が、私を見上げていた。


「あ、ごめん。もう、帰るの?」

「……ううん。帰らない」


 私は曖昧に笑って、もう一度座り直した。帰ったらどうせ怒られるのだから、いつ帰ったって変わらないだろう。殺人を犯した人間も、一人殺したらもう一人殺すのも二人殺すのも変わらない、という思考に陥るらしい。私の思考は殺人犯レベルか、と自嘲した。

 引き止めた彼は、隣で申し訳なさそうに視線を落としている。前会ったときもそうだった。空から逃げるみたいに、下ばかり向いている。暗いやつだな、と内心笑っていた。


「そういえば、前はお互いに名前すら教えなかったね」


 彼がそんなことを言うけれど、そうだねと答えた私も、話を振った彼さえも名乗ることはない。自分の名前が嫌いな私は口を噤んで笑ってみせるだけ。それを見た彼が困ったように眉を顰めていた。相手の出方を待つみたいな沈黙がしばらく続いたけれど、折れたのは彼の方で。


「僕はY」


 また、二人して黙って見つめ合う。それでも静寂が訪れないのは、ヒグラシが鳴き続けているから。私達の周りには蝉ばっかりだ。


「そんな、容疑者みたいな名前なの?」

「違う。嫌いなんだ、名前」

「そう。私と同じだね」


 嫌いだからって、まともに名乗ろうとしない。卑怯な少年だ。私は彼とは違うからちゃんと言う。


歌方うたかた 海月みつく。歌に方向の方に、クラゲって書いて、みつく」

「綺麗な名前だね」

「だから嫌いなんだよ。私には似合わない」


 僕はそうは思わないけどね。と、彼が独り言みたいに言ったのを、聞こえなかったふりをした。嬉しさと、それをかき消すほどの嫌悪感が同時に湧き上がったのを、隠すのに必死だった。でもきっと、凄く変な顔をしてしまったと思う。幸い顔を上げない彼には、見えなかっただろうけれど。


「それに、消えちゃいそうな名前してるもの」


 水面に揺れる泡沫のように、声が震えた。お母さんは私に消えてほしかったのかな。そんな思考に陥るくらいに、儚い響き。だからこの名前が嫌いだった。


「羨ましい」


 ぽつりと零された彼の言葉に寒気がした。まだ十分暑い季節なのに。

 空から逃げる彼は、やっぱり顔を伏せたまま。黒い髪の下に隠した表情は窺えない。


「消えたいって、思ってるの?」

「……君には、わからないよ」


 顔は見えないけれど、笑っているように聞こえた。何処か自虐的に、殆ど自分を嘲笑するような笑いだったのだろうけど。


「そんなことない」


 否定する私に対して、彼は首を振る。


「僕なんか、干乾びたミミズみたいなもんだし。君は太陽にそっくりだ。君と僕は絶対に違う」

「あは、私が太陽ならYくんを殺すのは私だもんね」


 本当にじめじめとしたミミズみたいな、陰鬱な少年だ。泥濘に足を取られたまま、何処にも行けないで、置いてかれてしまうのだろう。


「君になら、殺されたい」

「なにそれ気持ち悪い」


 私が笑ってそういうと、彼は泣きそうな顔をした。そんな顔が愛おしくて、私の笑顔がより歪になる。

 暗くて気持ち悪くてジメジメしていて、茸の苗床みたいな彼のことが、私は好きだった。彼といると、心が満たされていくから。

 彼を蔑むことが、疎むことが、私の心に優越感をもたらす。だから好き。大好き。

 知らぬ間に口内の皮膚を噛んでいたようで、血の味が口の中に広がっていた。苦いようなしょっぱいような、よくわからない、錆鉄の味。この大好きは、何処か血の味に似ている。

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