#03 泡沫に問うた。

 色彩に溢れた、重たい身体が嫌い。生まれ変わったら海の月になりたい。揺蕩う波に塗れて、誰にも見つけてほしくはないのだ。

 色も無いくせに月を名乗るあなたへの羨望と憧憬で、やはり僕は透明になれないと知る。




 病院に行ったわけではないけど、これは【虚ろ】という病気だという。誰に教えてもらったんだっけ。〈泡沫〉の夢に見たぼくだったろうか。多分ぼくはそんなに親切じゃあないけれど、そういうことにしよう。

 そうしなければ、呼び覚ましてはならない記憶に、息ができなくなるだろうから。


 さて。煙や硝子、〈泡沫〉に焦がれた僕を、果たしてぼくは許すだろうか。色を亡くして、儚く、簡単に壊れて、いつでも消えられるものになりたいと願う僕を。


「【虚蝉】って呼ぶらしいですよ、僕らの事」


 【虚ろ】を抱える僕らの事を、誰かがそう呼ぶらしい。僕か。あるいはぼくか。それとも、海の。海の、誰かが。


 色素の薄い髪の男子生徒。トキワ君は屋上に寝そべって、空に左手を伸ばしたまま。返事は無い。その掌に夏空の入道雲は収まらないだろう。なのに彼は手を伸ばす。無駄に時間を浪費して、それでも何かを変えたいから宇に手を伸ばすのだろう。何かを掴みたいのだろう。【虚ろ】から、逃れたいのだろう。

 僕はトキワ君に近寄って行って、伸ばされた左手を握ってみた。けれど、振り払われる。そして小鳥のように跳ね起きた彼が、僕を睨んでいた。


「いつからそこにいたんだい」

「……五分くらい前からですね」


 彼は僕を認識しないでくれていたらしい。それを喜ばしく思うべきか、哀しむべきか、僕にはわからない。でもきっと、此れは【虚ろ】の性質なのだろう。音を拒絶する彼の【虚ろ】と、消えてしまいたいと願う僕の【虚ろ】は、中々相性がいいのかもしれない。そんな訳あるか。

 トキワ君は、空に伸ばしていたはずの左手を額に当てて項垂れた。枯れた向日葵のように疲弊した彼に、何かあったんですか、とは聞かない。何があったかは、既に知っていたから。


「聞こえない──」

「そう、ですか」



 ニ週間程前になるだろうか。彼が音を失ったのは。

 音楽室で、無茶苦茶に鍵盤を叩いて、支離滅裂な不協和音と罵詈雑言が混じり合って。何もかも、壊れていた。慌てて僕が止めた瞬間、フローリングにへたり込んで、トキワ君は嗚咽を零した。


 「……聞こえない」口の端から滲んだ言葉と、噛み締めた唇から滲んだ赤が、酷く痛々しかった。

 ピアニストが、音を失ったという。一時的に音を取り戻せるときもあるらしいが、代わりに音色を失うらしい。ピアノの音が、聞こえなくなったと言っていた。

 聞こえないのに、脳内で反響するノクターン、ジムノペディ、トロイメライ。木霊して、脳髄を叩いて、彼を壊していく。

 トキワ君は膝を付いたまま両手で頭を抱えて、呻くような声をあげていた。


「うるさい」

「聞こえないのに?」

「やめて」

「……トキワ君」

「聞こえない!」

「……」

「うるさいッ!」

「ねえ」

「うるさいッ!!」


 狂犬の様に牙を向いて吐き散らす。トキワ君の瞳は真っ暗だ。【虚蝉】って、こういうものなのだろうか。

 何かから逃げたくて、痛みを抱えて、痛みに囚われて、僕らは【空蝉】になる。


「トキワ君は、壊れていますよ」

「……鯨坂さんも。だろ?」


 【虚ろ】を淘汰する方法なんて、誰も教えてくれやしない。だから自問自答なのだ。僕らは【虚ろ】に問うた。


「嗚呼。きっと僕は、消えてしまいたいんです」


 かぷかぷと笑いながら。死にたいとか、生きていたくないとか、そういう事ではなくて。透明人間になって、ずっとそこにいたいわけでもなくて。消えていたいのだ。だから、宿る【虚ろ】の正体は〈泡沫〉。儚さと脆さの象徴。


「トキワ君は、どうしたいんですか」


 比較的静かな声で問うた。彼は、泣き出しそうな目で僕を見上げていた。


「──わからない」


 旋律が、反響しすぎて何も聞こえない。

 うるさいのに、聞こえない。

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