#02 波間に問うた。
首に強い力がかかっている。その感覚で僕は目が覚めた。
息を吸い込もうと口を開いた。できない。藻掻こうと身をよじった。何かが僕の体の上に乗っているらしく、それもできない。
声を上げようとした。掠れた音が溢れる。
目を開けると、鏡でも見ているみたいに、同じ顔が浮かぶ。長い前髪と虚ろな瞳その奥に藍玉の色彩が揺れている。やっぱりというか、ぼくがいた。
わかっている。これは夢だ。幻想だ。泡沫の妄想。僕の恐怖。そのくせ、はっきりと苦しくて、痛くて、重たい。陸で溺れるなんて、馬鹿げてるけど、夏が来ると毎回同じ夢を見る。毎年やってくる別の夏の中で、この夢だけは変わらないことに、不思議と安心感さえ抱いていた。カプカプと笑う君との邂逅を、微かに焦がれていた。
振りほどこうとするたびに、海藻みたいにしつこく喉に絡みついた掌が、さらに強く僕の喉を圧す。苦しさがのたうち回るのに、僕の力はあまりにも非力で、いくら藻掻いてもそれを押し退けることはできない。許して。ごめんなさい。お願いだから、もうやめて。音の出ない喉の奥でどうにか吐き出す。
だけどそいつは、僕の言葉を聞こえてるみたいに、一瞬身を強張らせた。聞いている。だからこそ、僕を許したくないのかもしれない。だから、そいつの震える手が、僕の首を圧し折らんとする。
口の端から嚥下できない唾液を溢れさせながら、そいつを見上げる。冷たい目をしていた。真っ直ぐに振り下ろされた殺意と、恐怖、嫌悪。ぼくが僕を死んじゃえって思うから、そんな目をしている。ドロドロと感情という感情が綯交ぜになって、何の色もしていない。透明だ。透明の硝子片みたいな殺意が、僕を突き刺している。
それなら、ちゃんと殺せよ。ぼくは僕を殺せない。酸欠に視界が白んできたが、最終的にぼくは手を離してしまう。苦しくて仕方がないから。
「行かないで、死なせて……」
手を伸ばしても、泡沫の夢は白波に飲まれて消える。僕を殺そうとしたぼくは、魚影に紛れて霞む。カワセミがその魚を啄んで連れ去ってしまうことは無い。暗い水底で息をする僕には目もくれない。
君がまだ、カプカプと笑っている気がしたけれど、クラムボンは死んだから。
***
「鯨坂さん、それは病気じゃないかい?」
翌日の屋上で、都幾川君はフェンスの向こう側に突っ立ったままだった。もう、何処に立ってるとか、いちいち突っ込むのも面倒で、僕はその状態で昨日見た夢の話を始めた。そうして、彼も何事も無かったかのように耳を傾けてくれるものだから、決定的におかしな事実に目を瞑ったまま、会話が進んでゆく。夏の日差しは、僕らの頭を沸騰させてしまうには十分な温度だったらしい。
耳元でまだカプカプという笑い声が響いている気がした。そんな筈ないのに。こんな幻聴までするのだから、確かに彼の言う通り、僕は病気なのだろうか。否、フェンスの向こう側に突っ立ったままのピアニストにそんなことを言われたくはないのだが。
「夏が来るたびに同じ夢を見るんですよ。ぼくが僕を殺す夢」
「夢のくせに、首に痣がつくのかい?」
都幾川君に言われてぎょっとした。思わず首元に触れてみるが、触った感触では何もわからない。朝、鏡を見たときはどうだっただろう。そもそも、鏡を見ただろうか。そもそも、どうやって学校に来たのだろうか。あれ、あれ、あれ。
「んー。多分幻覚ですよ」
適当な事を言ってみる。
「君は幻聴で、ボクは聴覚障害か。今度一緒に精神科に行こうか?」
変な誘いを受けてしまった。しかしまあ、二人しておかしいことは確定だし、それも悪くない気がした。それで、真人間になれるといい。なれなかったら、僕も彼の真似をしてフェンスを越えてみようか。そのまま鳥になってみようか。鯨は海を泳げても空は飛べないだろうけど。
「聞こえない──」
「そう、ですか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます