#01 とある日・夕星の下
屋上は僕の場所、くらいに思っていたから、先客がいることに微かな不満を覚える。
しかし、その彼はフェンスの向こうに佇んでいるのだと気が付くと、好奇心に変わる。誰かの生き死になんてどうでも良かったけれど、きっと彼だから興味深いと感じたのだ。
都幾川璃音。彼のピアノを何度か聞いたことがある。息を呑むほど美しく、時間を忘れてしまいそうになるのだ。ゲーテのファウストに出てくる有名な台詞がある。“時よ止まれ、お前は美しい”。時間を止めてしまっても構わないと思わせるには十分だと。そう感じさせてくれる音色だった。
さて、そんな彼が何故生命を絶とうとしているか。話しかけようとしてふと、暮れる空に視線が移る。白夜と同じ色に染まる澄んだ青の中に、自身の存在を伝えようと必死に瞬く光。金星だ。
「……夕方の星、と書いて、ゆうづつと読ませるそうですね。金星の別称です」
緩慢な動きで顔を此方に向ける都幾川君と目が合った。感情の無い目をしていた。人形の様に、既に【虚蝉】になったみたいに。
あれ。【虚蝉】って、なんだっけ。覚えのない単語が脳裏を過ぎったことに、僅かな違和感を覚える。
「だから、なに」
僅かに掠れた声で彼が問うた。なんてことは無い。一つ、「綺麗ですよね」と返して微笑む。
彼はしばらく彫刻か何かのように固まっていたが、少しだけ──それは本当に、数ミリの微動しかなかったように思うが、かくん、と頷いて「そうかもしれない」と答えた。
それからしばらくして、彼がフェンスに両手を掛けて、此方側に戻って来た。元々鳥になる予定なんて無かったのか。随分簡単な帰還を、僕は退屈に眺めていた。
僕の母親は本当に飛んでしまったんだっけ。懐かしむように笑って、それを都幾川君が不思議そうに見つめてくる。
「君は飛ばないんですね」
「今日は、やめとこうと思って。帰って練習もしたいから」
それなら、いつになったら飛ぶつもりなのだろう。僕の横を通り過ぎていく都幾川君に「気を付けて帰ってくださいね」と告げる。
「……鯨坂さんもね」
都幾川君が、風の音に消えてしまいそうなくらい小さな声で言う。
なんだ。僕の名前、知ってたんだ。
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