第4話 もう一つの追憶・04

 この世界がまだ大きな一つの大陸だった頃、北東を支配していたアンテクム帝国の貴族としてフェイは生まれた。


「た、ただいま」

「お帰りなさいませ、お嬢様」


 貴族や富裕層が通う帝国学院初等部から帰宅した幼いフェイを、若いメイドが出迎える。


「先生がお待ちかねです。お急ぎください」

「は、はい」


 授業で疲れているのに休む暇もなく、屋敷の中庭へと急かされる。

 そこには鋭い目つきをした中年男性の家庭教師が、懐中時計を手に待ち構えていた。


「三分の遅刻ですね」

「す、すみません」

「時間が惜しいので早速授業を始めましょう。まずは基本の『火炎球ファイア・ボール』からです」

「は、はい」


 フェイは走って乱れた息を急いで整えながら、家庭教師が指さした鋼鉄の柱に向かって魔法を唱えた。


「ひ、火の玉よ、燃え上がれ、『火炎球』」


 彼女の掌から撃ち出されたテニスボール大の火球が、鉄柱に命中して爆発を起こす。

 その炎が消え去るよりも早く、家庭教師はさらに命じた。


「もう一度」

「は、はい。火の玉よ――」


 そうして、同じ魔法を十回も繰り返したところで、家庭教師はようやく止めた。


「結構です」

「はぁはぁ……」

「年齢を考えると弾速も威力も及第点です。しかし、たかが『火炎球』の魔法に二小節も呪文を唱えるのは感心しません」

「す、すみません」


 冷たい声で叱られて、フェイは縮こまってしまう。

 彼女は魔法使いとして劣っているわけではない。公平に見て中の上くらいの才能はあった。

 ただ、帝国の貴族――魔法という強大な力によって、庶民の上に立ってきた統治者の子供としては、どこまでも高みを求められてしまうのだ。


「貴方のお兄様やお姉様は、同じ年頃には無詠唱で発動できたのですよ」

「ほ、本当にすみません……」


 できの良い兄姉と比べられて、フェイはさらに縮こまってしまう。

 そうやって周りが自信を失わせてきたせいで、彼女は言葉がつっかえるようになり、魔法の詠唱も苦手になってしまったのだが、魔法使いとしては優秀でも教育者の資質に欠ける家庭教師が、それに気がつく事はなかった。


「さあ、休んでいる暇はありません。次は『氷の槍アイス・ジャベリン』を十回です」

「は、はい」


 フェイは家庭教師に命じられるまま、再び魔法を唱える。

 その特訓は魔力を使い切って気絶する寸前まで続くのであった。




「つ、疲れた……」


 フェイは二時間にも及ぶ魔法の授業に耐え、両親から小言を言われながらの夕食を済ませ、半分溺れかけながら入浴を終えると、ようやく自室のベッドに寝転がった。

 そのまま目蓋を閉じてしまいたくなるが、気力を振り絞って眠気に抗うと、枕元のタンスから一冊の本を取り出す。


「きょ、今日は最後まで読めるかな」


 期待に胸を膨らませながらハードカバーの本を開く。

 タイトルは『ジーナと空の島』。少女・ジーナがひょんな事から手に入れた宝の地図を元に、空に浮かぶ謎の島を探すという子供向けの冒険小説だ。

 魔法が使えない無能者ながら、機転を利かせて様々な困難を乗り越えていくジーナの活躍が、フェイはとても大好きだった。


「つ、ついに空の島がっ!」


 クライマックスに差し掛かり、フェイは興奮してページをめくる。そして――


「お嬢様、そろそろお休みください」

「ひゃ、ひゃい!?」


 急に耳元で声が響いて、フェイは驚いて跳び上がる。

 それから慌てて本を枕の下に隠すが、若いメイドにはバレバレであった。


「お嬢様が何を読まれようと、私共は取り上げたりなど致しません。ただ、あまり夜更かしがすぎますと、奥様が訝しがられますのでお気をつけください」

「う、うん、ありがとう」


 注意するだけで見逃してくれたメイドに、フェイはお礼を告げる。

 メイドはそれに笑い返すと、就寝するようにもう一度だけ告げて部屋を出ていった。


「よ、よかった……」


 フェイは胸を撫で下ろすと、枕の下から本を取り出して、続きを読みたい誘惑を何とか押さえ込み、渋々とタンスの奥に仕舞い込む。

『ジーナと空の島』は無能者の少女が活躍する本、つまり魔法が使えない一般庶民向けの娯楽小説である。

 帝国貴族としてのプライドが高く、庶民を見下している両親に見つかれば、低俗な本だと怒られ燃やされてしまうだろう。


「こ、こんなに面白いのに……」


 理解して貰えない悲しみに胸を痛めながら、フェイは『光源ライト』の魔法を消して目を閉じた。

 目蓋の裏には先程まで読んでいた、ジーナの活躍が浮かび上がる。

 どんな困難にも勇敢に立ち向かい、世界中を自由に飛び回る少女。

 それは貴族の子女として自由を奪われたフェイの目に、どこまでも眩しく輝いて見えた。


「い、いつか、自分もあんな風に……」


 世界中を飛び回る大冒険がしてみたい。

 そんな幼い夢が砕かれたのは、彼女が中等部を卒業してすぐの事であった。



     ◇



 帝国学院高等部への進学に向けて準備をしていたその日、母親が急にフェイを呼び出して告げた。


「そろそろ、貴方も『長耳』にしなさい」

「えっ……」


 フェイは驚きのあまり言葉を失う。

 そんな娘に、母親は呆れ返った顔を浮かべた。


「いつまでも『短耳』のままでは、余所の子達から『形状変化シェイプ・チェンジ』も使えないのかと馬鹿にされるでしょう?」


 そう告げる母親の耳は、もう何年も前に長く伸びたエルフ・スタイルに変わっていた。

 フェイが初等部に入学する前はまだ短かったはずだが、もうその姿はかすんで思い出せない。


「で、でも……」


 彼女が嫌そうに渋ると、母親は目を吊り上げて怒った。


「ワガママを言うのはおやめなさい。貴方がいつまでも『短耳』だと、私達まで恥をかくのよ!」


 それが本音か――と毒づきそうになったのを、フェイは必死に堪える。

 容姿に自信のない魔法使いが、『形状変化』で顔を整形するという行為は、古来より頻繁に行われていた。

 ただ、骨や肉を弄って美形に変わっても、それは表面上の事にすぎず、生まれてくる子供には美しさが引き継がれない。

 そのため、天然の美男美女が珍重されて、整形した人工の美形は見下される傾向にあった。


 それが大きく変わったのが、科学による遺伝子の発見である。

 生物の体内に設計図があるという考え自体は、千年以上も前からあったのだが、ここ十数年の研究によって、その設計図がDNA=四種類の塩基からなる二重螺旋だと発見されたのだ。

 これによって『形状変化』の魔法は飛躍的な進化を遂げて、中身の設計図から根本的に外見を変えられるようになった。


 子供にも美しさが引き継がれて、もはや天然の美形と全く差がない。

 むしろ、優れた魔法の才能まで保証されているのだ。無能者かもしれない天然の美形よりも遙かに優れている。

 そうした経緯によって、魔法使い達は無能者と区別するために、自らを妖精のような美形――長耳のエルフ・スタイルに改造するようになったのだ。


「さ、最初は下らない流行だって、馬鹿にしていたくせに……」

「何をグチグチ言っているのです」


 小声で文句を呟く娘を、母親は鋭く睨みつける。

 フェイはそれだけで震え上がりながらも、必死に抵抗を試みた。


「で、でも、遺伝子の謎が解明されきっていないのに、下手に弄るのは危険だって話もあるし……」

「そんなのは根も葉もない中傷です。私も旦那様も、貴方の兄姉や他の貴族達だって、『長耳』になって病気になった者など一人もいないでしょう?」


 娘の心配を、母親はあっさりと否定する。

 魔法使いのエルフ・スタイルが定着して既に十年近くなるが、体に障害が出たという話は確かに聞かない。

 この頃はまだ耳を伸ばす程度が主流で、髪を虹色に変えたり、男性でありながら女性以上に体を細くするといった、無茶な身体改造は控えられていたため、目に見える障害が出ていなかったのだ。


 また、仮に障害が出たとしても、それを世間に知られれば無能と嘲笑されるため、必死に隠していたのもある。

 そして、貴族の魔法使いは人口の一割にも満たないため、何らかの偏りが見つかっても、サンプル数の少なさからくる偶然だと片付けられていたのだ。

 こういった諸々の条件が重なり、エルフ化した魔法使いの男児出産率の低下は、誰にも気がつかれる事なくひっそりと進行し、一部の聡明な者達が危惧を抱いた頃には巨大小惑星が落下してくるのだが、そんな事をこの頃のフェイや母親が知るはずもない。


「うだうだと情けない事を言ってないで、いいから『長耳』にしなさい」

「け、けど……」

「もお、本当にとろくさい子ね!」


 いつまでも渋る娘を見て、母親はついに怒りを爆発させた。


「そんなに『長耳』になるのが嫌なら、この家から出ていきなさい!」

「――っ!?」


 親が子供を叱る時にありがちな、それ故に心を抉る言葉に、フェイは目を見開いて震え上がった。


「優秀な跡継ぎは他にいますし、伝統あるフレッチャ家の名を汚すような娘などいりません!」


 親が子供に言ってはならない最低の言葉に、フェイの心は冷たく凍りついていく。


(いっそ、出ていってしまおうか?)


 自分の体すら思い通りにできない、がんじがらめな家など飛び出して、何者にも縛られない自由な世界へ。

 それこそ、彼女が愛した冒険小説の主人公・ジーナのように、世界中を探検しに行こう。

 それは何と甘美な夢だろうか。けれども――


「わ、分かりました。『長耳』にします」


 フェイは母親と現実に屈して頭を垂れてしまった。


「ふんっ、最初からそう言えばいいのよ」


 不機嫌に鼻を鳴らす母親に追い出されて、フェイはとぼとぼと自室に戻る。

 そして、タンスの奥から『ジーナと空の島』を取り出すと、幾度となく読み返した本の表紙に、大粒の涙を零した。


「う、うぅ……」


 体を改造して『長耳』になるのが嫌だったのもある。

 だがそれ以上に、母親に逆らって家を飛び出す事ができなかった、己の臆病さが情けなかったのだ。


「や、やっぱり、自分じゃジーナになれない……」


 誰にも縛られず自由に世界中を旅する少女・ジーナ。

 彼女がそんな風に生きられたのは、自由によって生まれる危険や責任を背負う、勇敢で逞しい心があったからだ。

 お腹が空けば木の実を摘み、薄暗い洞窟や木の下でも眠れて、蛇や狼に襲われても機転を利かせて撃退し、親切そうに見えた町人に裏切られ、海賊に奴隷として売られても諦めずに脱出する。

 そんなバイタリティーがあったからこそ、ジーナは世界中を冒険できた。


 フェイにはそれがない。豊かな貴族の地位を捨てて、温かいお屋敷もお腹いっぱいの食事も失って、一人で生きていける強さがない。

 並以上には魔法が使えるのだから、十分生活していけるだけの実力はあるのに、何の保証もない自由に飛び出していける、心の強さが致命的に欠けていた。


「ジ、ジーナになれなかったよ……」


 また本の表紙を涙で濡らしながら、フェイは過去形でそう呟いた。

 この時こそ、彼女は探検家という夢を諦めて、貴族の魔法使いという敷かれたレールの上でしか生きていけない、己の弱さに屈したのだった。



     ◇



「自分の娘を泣かせるなんて酷いママさんなのです! とっちめてやるのです!」

「いや、とっくの昔に死んでるから」


 過去の記憶だという事も忘れて憤慨するリノを、真一は苦笑しながら宥めた。


「しかし、オリジナルと俺達が知る方――長いから『複製人間レプリカント』と呼ばせ貰うが――は、やっぱり別人なんだな」


 顔立ちや言葉がつっかえる癖、読書が好きで探検家に憧れている事など、明らかに同じ特徴を持ちながらも、自信がなく臆病なオリジナルと、明るく行動的だったレプリカントでは、赤の他人かと思うほど性格が異なった。


「これから性格が変わったのか、それともエレゾニアの前ではああだったのか……」


 人は相手によって仮面ペルソナを変えて生きている。

 真一からして、リノに対しては優しいお兄さんらしく振る舞い、セレスに対しては猥談もできる気安い漫才相手として接すると、相手によって態度が異なった。

 レプリカントの明るい性格も、全くの偽物というわけではなく、フェイという人物の一側面なのかもしれない。


「それはこの先を見れば分かるか。しかし――」


 真一は言葉を切って、横で動揺しているクラリッサ達を窺った。


「フェイ様がエルフになるのをあんなに嫌がっていたなんて……」

「でも、これを見せれば村の皆も考えが変わるんじゃないかな?」

「そうだな、何せ始祖様の一人だ」


 赤き竜が見せた記憶と違い、自分達の祖先が元は人間であり、魔法でエルフ化したという記憶は、半信半疑だった村人達にも確信を抱かせるに違いない。

 そう考えて頷き合うクラリッサ達から、真一はセレスに視線を移した。


「続きを見せてくれるか」


 地下室に侵入した目的は果たしたも同然だが、オリジナルのフェイがどんな人生を歩んだのか、単純に興味を惹かれたのだ。


「畏まりました」


 セレスは頷くと魔導体に意識を集中させて、一時停止していた記憶の断片を再開した。

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