第8話:消せない傷
何かが、耳に触れている。
甘い匂いのする、生暖かい風……。
とてもくすぐったくて、けどどこか心地よくて、アヴァンは瞼を開いた。
その目に映ったのは、アヴァンの耳元に顔を寄せて、ふ~ふ~と優しく息を吹きかけているロゼッタだ。
「ぬあぁっ!?」
一瞬で目が覚めて、飛び起きるアヴァン。
その顔は例によって真っ赤になり、息が吹きかけられていた耳を必死になって手で擦っている。
「あら、やっと起きた。呼んでも起きないから、死んじゃったのかと思ったわ」
悪戯に笑うロゼッタに、アヴァンは状況がわからず、辺りを見回す。
外は既に暗くなっており、部屋の様子はロゼッタが灯したであろうランプの火の明かりで微かに見て取れる。
「もう夜の八時だけど、眠りすぎじゃなくて? それと、あの方はどうしてあそこに?」
ロゼッタの指さす方向には、椅子に縛り付けられたままの老父の姿がある。
老父は既に目覚めており、先ほどよりかは迫力にかけるが、それでもまだアヴァンを睨みつけている。
その目が多少困惑しているように感じられるのは、ロゼッタがここにいるためだろう。
落ち着いたアヴァンはロゼッタに、老父との出来事を全て話して聞かせた。
ロゼッタは老父の前に立って、しげしげと観察しながら話を聞いていた。
「なるほどね。それで、私がこの方の記憶を消して差し上げればいいのね?」
にっこりと笑ってそう言ったロゼッタに対し、老父は驚愕の表情になる。
「なっ!? あんたっ!? 中央警察署のグレーシア捜査官だろっ!? 警察官じゃねぇのかいっ!? そこの悪魔とグルだったのかっ!?」
目に涙を浮かべながら、叫ぶ老父。
その言葉を聞いたロゼッタは、今までアヴァンが見たことのない真顔になっている。
「警察官は犯罪者から町を守るのが仕事じゃねぇのかっ!? 捜査官が悪魔とグルだなんて……。わしの息子は何のためにっ!?」
涙を流し始めた老父に向かって、ロゼッタは呪文をかけた。
老父は時が止まったかのように動かなくなって、見開いたままのその両目は、ただ呆然と前だけを見ている。
そんな老父の耳元で、ロゼッタは次のように囁いた。
「あなたは今日、この時計塔の掃除に来て、いつも通りに掃除を終えて、今から帰るところ。あなたは何も見なかった。何も聞かなかった。誰とも会わなかったし、いつもと何も変わらない一日だった」
すると、涙に濡れていた老父の顔は穏やかになり、ロゼッタの言葉を復唱した。
ロゼッタは呪文が効いた事を確認し、老父の体に巻き付けられている縄を解いた。
自由の身となった老父は、ゆっくりと立ち上がり、上の空のような虚ろな表情で部屋から出て行った。
「おめぇさの魔法はほんとすげぇなぁ。けんど、何であんなに怒ったべ? おいら、あの爺さんとは会ったことねぇべ?」
能天気な様子でへらへらと笑ってそう言ったアヴァンとは反対に、ロゼッタは複雑な表情で椅子に腰かける。
「アヴァン……。あの人は……、あの人の息子さんはね、ある富豪の屋敷の警備をしている制服警察官だったの。けれど、数か月前……。あなたの手によって傷つけられて、半身麻痺となり、今は家から出られない、ベッドから起き上がれない生活となってしまっているのよ。だから、あんなに……」
ロゼッタの言葉に、アヴァンは笑うのをやめた。
「そ、そうだったべか……。おいら、死なねぇ程度なら大丈夫だって思って……」
アヴァンは困惑している。
まさか、そこまで誰かを傷つけていたとは、夢にも思っていなかったのだ。
家から出られないような、ベッドから起き上がれないような重傷を与えているつもりなど、アヴァンにはこれっぽっちもなかったのだから。
「魔族と人間の大きな違いの一つに、体の強度がある。人間の体は、酷く脆い。魔族であるあなたがいくら手加減したとしても、死に繋がることだってあるのよ。幸い、まだ死者は出ていないわ。けれど……。消せない傷を、あなたは沢山つけてきた。その行いは、決して許されることはないの」
ロゼッタは、アヴァンに語り掛けているはずなのに、なぜだが自分自身にも語りかけているかのように、アヴァンには感じられた。
「私もあなたも、手に入れたい物、入れなければいけない物のためには手段を選ばない。たとえそれが犯罪を犯す事になっても、仕方ない。それは理解しているし、現にそうしているから私には何も言えないわ。けれどね、暴力で相手を傷つけて、誰かの人生を変えてしまうような事は、決してしてはいけないって思うの。それだけは絶対に、許されない罪なのよ」
ロゼッタが富豪の家に盗みに入る時、対象の屋敷全体に熟睡魔法をかけて、誰も傷つけずに窃盗を行ってきた意味を、アヴァンはようやく理解できたような気がした。
アヴァン自身、大切な家族を救うために旅をしてきたのだ。
ロゼッタのおかげで、誰かを傷つけるという行為を簡単にしてはいけないと、アヴァンはようやく心に刻みつけることができた瞬間だった。
『けっ。あれだけ盗みを働いておいてよく言うぜ。綺麗事以外の何ものでもねぇ。財産がなくなって、路頭に迷う事になることだってあるだろうに。それは誰かの人生を変えたって言わねぇのかよ? お前は自分のやっていることを正当化してぇだけだろ? お前にアヴァンを説教する資格はねぇぜ?』
エビルはここぞとばかりに、ロゼッタに攻撃を加える。
しかし、ロゼッタは聞こえないフリをしてエビルを無視し、胸の谷間から一枚の紙を取り出して机の上に広げた。
「次のターゲットよ。このミッションが済んだら、私はこの町を去るわ」
紙の上に描かれているのは、巨大な屋敷の見取り図だ。
今までターゲットにしてきた富豪の屋敷とは比べ物にならないほどに、その面積は広く、中は複雑な造りになっている。
「去るって……。どこさ行くべか?」
アヴァンの言葉に、ロゼッタは遠くを見つめる。
「さぁね……。けれど、私はこれ以上この町にはいられない。だから、何としても今回のミッションを成功させて、心残りがないようにしないと……」
ロゼッタの真剣な眼差しに、何か深い訳があるのだろうとアヴァンは推測したが、それを今聞いていい状況ではないと思い、それ以上は何も聞かなかった。
ロゼッタの説明はこうだ。
まず、その屋敷は北側大通りの最奥に建つ、巨大な平屋建ての屋敷だということ。
屋敷には、通りに面した場所の大玄関一つしか出入り口がなく、無数に窓はあるものの全てに鉄格子がはめられているため、建物を壊さずに中へ入るためには、必然的に侵入口は大玄関の一本に限られている。
面積はというと、確かな数字はわかってはいないが、小さい美術館ほどの大きさはあると考えられるために、ロゼッタの熟睡魔法を屋敷全体にかけることは不可能に近い。
そして一番の問題は、その中の構造だ。
ロゼッタの目的とする場所は、屋敷の中心にある宝物庫だ。
その宝物庫は正方形の形をしているのだが、四方の壁は分厚い鉄に覆われ、外からの侵入は到底不可能と思われる場所だ。
なぜなら、そこへ辿り着くまでの道というのが、問題なのだ。
屋敷で唯一の出入り口である大玄関を抜けた後、その屋敷中央にある宝物庫に至るまで、まるで渦を描くように、一本の長い廊下が延々と続いているという。
つまりそれは、迷宮のような枝分かれの一切ない通路なので、侵入したことがばれて、前方と後方を囲まれてしまえば逃げ道がなくなるということだ。
もちろん、通路の途中に部屋が沢山あることにはあるのだが、そのほとんどが現在未使用のために扉には鍵がかけられている。
もし誰かと対面した時は、ロゼッタが魔法をかけるか、アヴァンが実力行使に出るかしか道はない。
「こりゃあ……。いくらなんでも厳しいんじゃねぇか? 上手く宝物庫まで行けたとしても、袋の鼠だべ? 逃げ道はどうすんべ?」
アヴァンの言葉は最もだ。
「なんとか宝物庫まで辿り着くことができれば、出口はあるわ。だから今回は、敵が前から来ようと後ろから来ようと、小細工なしに、ただ前に進むのみ……」
ロゼッタの言葉に、アヴァンはまだ納得できない。
今までの用意周到なロゼッタと比べて、今回の作戦はあまりに無謀なのだ。
いつもなら、誰も傷つけることなく、華麗な完全犯罪をやってのけるロゼッタだが、今回ばかりはどこか焦っていて、余裕が見えない。
だが同時に、今までのロゼッタにない決意の強さを、アヴァンは感じ取っていた。
「アヴァン、無謀なのはわかっている。だけど、私の最終目的はこの屋敷なのよ。この屋敷の宝物庫に、私の求める物が存在する。家主の名はナリッサ・デトワール。この町の町長であり、最も財力のある人物。そして、彼女の孫の結婚相手が、中央警察署第二級犯罪捜査室長官のディック・ノートン。あなたが一度捕まった時に、取調を行った警察官よ。身内に警察署の長官がいるんだもの、屋敷の警備は今まで以上に厳戒だろうし、この広さじゃ私の魔法もどこまで通用するかわからないわ。でも……。だからこそ、あなたの力が必要なのよ……」
ロゼッタの表情は真剣そのものだ。
いつもの可愛らしい感じや、悪戯な表情や、お茶目な様子が一切ない。
「暴力はいけないことだと、さっき私言ったわよね? けれど、それは私の心得の話をしているのであって、相手はそうじゃない。警察官、捜査官、警備員は、容赦なく私に銃を向けるでしょうね。そうなった時に、私一人ではどうにもならないの。きっとすぐに限界がくる……。だからアヴァン、あなたが必要なのよ。それに、私の考えだと、この屋敷には無数のハーツが眠っている。あなたの目的も、達成できるかも知れないわ」
アヴァンはようやく理解した。
ロゼッタが、アヴァンと手を組んだ本当の目的を。
アヴァンを自らの用心棒にしようと考えていたことを。
アヴァンの魔族の力は強大で、加えてベロニカから貰った時代遅れの服は、銃弾など物ともしないほどに強靭だ。
要は、アヴァンはこのままだと、今まで通りロゼッタにいいように使われてしまうのだ。
『ほれみろ、この女。とうとう正体を現しやがった。アヴァン、お前を盾にする気だぜ? 最初っからそうだったのさっ!』
ここぞとばかりに悪態をつくエビル。
ロゼッタは、言葉を返すことができずに俯く。
自分の言っていることが酷い事だということは、十分に理解している。
それでもロゼッタは、ロゼッタの求める物は、そんな酷い事をしてでも手に入れたい物なのだ。
アヴァンに軽蔑されようと、ここで組むことをやめると言われようと、作戦を変えるつもりも、諦めるつもりもない。
ロゼッタは、自分一人でもデトワール家の屋敷に盗みに入る気でいる。
本当はもっと、上手に嘘をつけばいいのだ。
いつものように、愛想のいい笑顔を振り撒いて、相手を翻弄して……。
今までのロゼッタならきっとそうしていた。
だが、それができない理由が、ロゼッタの中に生まれていた。
「おいらが盾になりゃ、おめぇさの欲しいもんが手に入んだな?」
アヴァンの言葉に、ロゼッタは顔を上げる。
アヴァンは、今までロゼッタに一度も見せたことのない、優しい瞳で微笑んでいる。
「え……。いいの? 私、あなたを囮にしようとするかも知れないのよ? エビルが言ったように、あなたを盾にして、自分だけ先に進むかも知れない……。ハーツがある事は確信しているけれど、その為に時間を割くことはきっとできないわ。私の目的のためだけに、動いてしまうかもしれない……。それでもいいの?」
ロゼッタは、自分が何を言っているのかわからないままに、そう口走っていた。
言わなくてもいいような、アヴァンにとってデメリットとなるような事を全て、話してしまっていた。
アヴァンに一緒に来て欲しいはずなのに……、最初から利用してやる魂胆で、アヴァンの力だけが目的で、手を組んでいたはずなのに……。
それは紛れもない、ロゼッタの中にある良心が、そうさせていた。
この数か月間、アヴァンと共に行動してきたロゼッタは、いつの間にかアヴァンに対して好意を抱いていた。
その好意とは、仲間意識というものだ。
アヴァンを試すつもりで数々の罠に自らはまっていたロゼッタだったが、アヴァンが助けてくれる度に、心から安心している自分がいた。
ロゼッタは、今まで誰にも感じたことのない、信頼というものをアヴァンに感じていたのだ。
初めて心から信じることのできた仲間に対し、平気で嘘をつくことができるほど、ロゼッタは器用ではなかったということだ。
「おめぇさには借りが沢山あっからな。エイシャとおいらのハーツは見つかってねぇにしろ、色んな魔族の奴らのハーツを解放できたことは事実だべ。魂を取り戻して、石化が解けた奴らはいっぱいいるべや。そいつらもきっと、おめぇさに感謝しているはずだ。だから、そいつらのありがとうっていう気持ちも全部、おいらがおめぇさの為に役に立つべ。なっ!?」
アヴァンの屈託のない笑顔に、ロゼッタの目には、もう何十年も流したことのない涙が浮かんでいた。
ロゼッタの中にある、誰にも言えない消せない傷が、少し癒された瞬間だった。
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