第2話:天使の翼
「くそぉっ! くそっ、くそっ、くそぉぉぉっ!!」
ノートンは荒れていた。
「あんのぉ~、小賢しい悪魔めっ!!」
怒りの余り、両手の握り拳を勢いよくデスクの上に振り下ろしたため、そこに山積みにされていた書類は全て崩れ去ってしまった。
近くのデスクの捜査官たちは、ノートンの気に触れないようにと、それら散らばった書類を無言で拾い集め、静かに仕事を続けている。
ここは、警察署内に設置されている第二級犯罪捜査室で、主に盗難を取り扱う部署。
どの捜査官のデスクも膨大な捜査資料や報告書で埋もれていて、この町の盗難に関する犯罪件数と犯罪者の多さがそこに現れている。
事実、殺人や傷害などを取り扱う第一級犯罪捜査室よりも、常に多忙を極めているのがこの第二級犯罪捜査室なのだ。
しかし、やけにすっきりとしたデスクが一つ。
ノートンのデスクから一番離れた、窓際の風通しの良い場所にあるそのデスクに、ロゼッタはいた。
フンフンと上機嫌に鼻歌を歌いながら、職務中にも関わらずお化粧直しに熱中している。
ロゼッタのデスクの上は、署内に二百人いる捜査官の中でも一番片付いていて、化粧ポーチと鏡と、高級なブランド物のバッグが置かれているだけだ。
全捜査員に等しく配られる恐ろしく分厚い捜査資料は、机の端にあるブックスタンドに収められてはいるものの、活用されたことなどただの一度もないような新品の状態でそこにある。
そんなロゼッタの様子を横目に見て、ノートンの怒りのボルテージは更に上がっていく。
わざと足音を大きくしながら、ノートンはロゼッタへと近付いていく。
「グレーシア捜査官っ!」
大声でそう叫び、ノートンはロゼッタの隣に仁王立ちする。
ロゼッタは驚くわけでもなく、にこやかな愛らしい表情でノートンを見上げる。
まるで誘惑しているかのようなロゼッタの瞳に、ノートンは一瞬言葉に詰まる。
「んっ!? んんん……。ん、オッホン! グレーシア捜査官、君が昨晩逮捕した窃盗犯が、取調の最中に逃亡した。捜査官十名が捜索に当たっているが、まだ見つからん。よって、君はこれから、その窃盗犯の捜索に行かねばならない! 顔を小奇麗に整えている場合ではないぞっ!」
出来る限り語尾を強め、威厳のある口調でそう言い放ったノートン。
しかしロゼッタは、わざとらしく首を傾げる。
「あら? 長官殿は今朝、私にこう言いませんでしたか? 君は昨晩の作戦で職務違反を犯した。現場で長官である私の命令を無視し、単独行動に走るなど許されることではない。よって、しばらくの間、署内勤務を命ずる! って……。窃盗犯の捜索は、署内勤務ではないんじゃありません?」
悪びれる様子もなくそう言ったロゼッタに対し、ノートンはもう頭の血管が切れてしまいそうなほど、顔を真っ赤にして怒っている。
その場にいる誰もが、ノートンの雷が落ちることを予測し、小さくなる。
しかしロゼッタは、余裕の笑顔でスッと立ち上がり、バッグを手に持った。
「でも、長官殿がそうおっしゃるのなら、喜んで捜索に出掛けますわ。行ってきま~す♪」
満面の笑みを振りまいて、ロゼッタは躍るようにして外へ出て行った。
残されたノートンは、わなわなと震えながら、ぶつけようのない怒りを押し殺していた。
ここは、国の中で最も多くの富豪が暮らす町ウェイクッド。
町民の三分の二が億万長者やどこぞの国の王族の血縁者で、残りの三分の一が町で働く中流階級の人々や富豪の家々で働く召使たちだ。
富豪が多く暮らしているということは、大豪邸の密集地帯だということになる。
富豪の持つ家々は一つ一つがとてつもなく大きく、荘厳で、その敷地は広大だ。
そのため、町の面積は国一番を誇る。
町の中心には高級ブランド店が数多く展開し、昼夜問わずいつでも賑わっている。
町全体が莫大な金と金銀財宝などのありとあらゆる巨万の富で溢れかえっているのだ。
そこで問題が一つ生じる。
この町に存在する警察署は、ロゼッタが働くウェイクッド中央警察署の一つきりで、二百人の私服捜査官と、三百人の制服警察官および下級警備員の計五百人ほどの警察官が在中しているものの、広大な町の警護には全く追いついていないのが現状だ。
ましてや富豪を狙った盗難の多いこの町で、第二級犯罪捜査室に配属されている私服捜査官は五十名にも満たず、あきらかに人員不足なのは傍から見てもわかるほど。
よって、このウェイクッドという町は、犯罪を働こうと考える者にとっては天国のような場所となり、犯罪件数の上昇はもはや誰にも止められない事態に陥っていた。
しかし、警察官も馬鹿ではない。
日ごと増える犯罪に臨機応変に対処し、対策を立て、町の平和を守ってきた。
ただここ数か月の間、富豪の屋敷を狙った窃盗犯二名に手を焼き続けているのも事実だ。
そのうちの一人が、手配書の出ている真紅の悪魔と呼ばれる赤毛の男。
先ほど逃亡した、アヴァン・ハーモニアだった。
ロゼッタは、署の駐車場に停めてある愛車のボルチョに乗り込む。
真っ黒で丸みのある可愛らしいボディーはピカピカに磨かれており、タイヤの側面にはロゼッタが描き足したお洒落な蛍光の絵柄が光る。
チャームポイントは、ライトの部分にこっそりとダイヤがあしらってあること。
一目見ただけでは警察官が乗っているなどとは誰も思わないような高級車だ。
シートベルトを締めて、エンジンをかける。
フォンフォンと音を立てるボルチョの動力源は、魔力を持たないウェイクッドの人々には大助かりの、光エネルギーという電力だ。
ある科学大国と貿易を始めた近年、電力の存在を初めて知ったこの国の人々は、出来得る限りの財力をつぎ込み、それまで全てが古典的だった国の文化を一新させた。
町の灯火式の街灯は電光灯に変わり、伝達方法は手紙から電話へと変わった。
至る所に光エネルギーを作るためのソーラーパネルが設置され、電力を活用し始めた人々の生活は徐々に変化しつつあるのだ。
その中でも一際目立った変化が車だった。
それまでは馬車か人力車しか存在しなかったこの国に、初めて電力を動力源とした車が持ち込まれた。
人々は電力を動力源とする車のことを電動車と呼び、最近の富豪たちの間ではそれを何台持てるかが富の象徴ともなっていた。
だがしかし残念ながら、警察署には予算の余裕がなく、パトカーなどという現代的な車はこの国には存在せず、未だに馬を使っての移動手段しか警察関係者は持ち合わせていない。
ロゼッタは、ゆっくりとボルチョを発進させる。
ボルチョという名前は、この電動車の型番である「ボルトテネーチョ45」を略してロゼッタがつけた愛称だ。
購入して五年ほどになるボルチョは、ロゼッタにとって第二の相棒とも呼ぶべき存在になっている。
当時、比較的安い値段で販売されたボルチョだが、一介の警察官が購入できる額などではないために、署の者たちはいつもロゼッタを不審な目で見ていた。
しかしロゼッタは、そのような事は全く気にしない、とてもマイペースな性格だ。
そして今も、そのマイペースな性格が発揮され、ノートンの言葉などすっかり無視してどこかでランチをしようと署を出たのだった。
伝統的な造りの古い町並みの中、広い石畳の道を亀のようなスピードでボルチョは走る。
四車線ほどの幅があるだろうその道は、二車線で使われている。
なぜなら、まだ電動車の運転に慣れていない町の人々の安全を守るためだ。
その速度はとてつもなく遅く、人の歩くスピードより少し速いくらいしか出してはいけないと法律で定められている。
これならば、馬で移動した方が何倍も速い。
加えて、電動車を稼働させて良い時間帯は朝の九時から夜の十時までと決められている。
その理由はというと、町に信号がないためだ。
道の至る所に赤と白の手旗信号を持った制服警察官が立っており、その信号に従って人々は電動車を動かす。
二十四時間体制で勤務する警察官だが、夜中まで数少ない電動車のために貴重な人員を割くというのはあまりに馬鹿げていると、政府に不服申し立てをしたためにそうなった。
とまぁ、新たな文明開化の礎となるだろう、などと一時もてはやされた電動車は、今となってはその性能に見合った働きをさせてもらえない、金持ちのアクセサリーの一つになってしまっているわけだ。
そして今日も、その巨大なアクセサリーは広い道で行列を作り、のろまな足取りで進むのだった。
なんともとろくさい町だなと、ロゼッタは溜め息をつく。
すると、前方の歩道の脇で、こちらに向かって短い手を振っている影が目に入った。
体長五十センチにも満たないそれは、ブルータスだ。
ロゼッタがボルチョを路肩に寄せると、ブルータスは無言でボルチョに乗り込んだ。
「ノートンが騒いでいたぞ。昨日の始末書がまだ出ていないとな」
ボルチョの低い声に、ロゼッタは悪戯に笑う。
「あら、出すつもりなんて最初からなくてよ? 今からランチに行こうと思っていたんだけど、もちろんブルータスも一緒に行くわよね?」
ロゼッタの言葉に、ブルータスはフンッと鼻を鳴らし、あまり意味のないシートベルトを締める。(胴体が短いため、腰部分しか装着できていない)
ロゼッタは、またゆっくりとボルチョを発進させた。
ロゼッタとブルータスがやってきたのは、こじんまりとした庶民的なカフェだ。
店主は顔なじみの男で、いつものように店先のオープンテラスのテーブルに、二人を案内してくれた。
ロゼッタは苺のパンケーキとカフェオレを注文し、美味しそうに食べている。
ブルータスは椅子の上に子ども用のクッションを二つ敷いてもらって、ようやくテーブルから顔が見えた状態で、ぷかぷかと葉巻を吸っている。
「ここから見える景色は、本当に、いつもゆっくりだな」
テラスの向こう側に広がる町を眺めながら、独り言のようにブルータスは呟いた。
ウェイクッドの町は、警察署のある中心街を真ん中に、その東西南北に富豪の大豪邸が広がっている。
つまり、二人が今いる場所がこの町の中心であり、商業施設や娯楽施設の立ち並ぶ、町で一番賑わっているはずの場所なのだが……。
電動車はゆっくりとしたスピードで走行し、道を歩く富豪たちの歩みは更に遅い。
ショッピングを楽しんでいる富豪たちは沢山いて、召使に荷物を沢山持たせたり、持ちきれない分はポニーのような小馬に背負わせたりと、町は賑わっているものの、人々はどこかのんびりとした様子でいるために、まるでスローモーション映像を見ているかのような感覚に陥りそうになるのだ。
「そうね……。けど、これくらいの方が助かるわ。そう思わない?」
そう言って、ロゼッタはにっこりと笑う。
「まぁ、そうだろうが……。これ」
ブルータスは、胸ポケットから取り出した紙を広げて、テーブルの上に置いた。
それは手配書だ。
「罪状……。家宅侵入罪、家財倒壊罪、窃盗罪……。大悪党だぜ?」
ロゼッタはテーブルの上の手配書を覗き込む。
近年フイルム式のカメラが国に輸入され、警察署で作成する手配書も似顔絵から写真の印刷に変わった。
しかしこの手配書は新しいものにもかかわらず、写真の印刷ではなく絵で作られている。
しかも手配書に描かれているのは顔ではなく、背中に翼を持った何者かの後ろ姿だ。
「白い羽を持つ、
ブルータスはにやりと笑って、葉巻をふかした。
「天使の翼、ねぇ……。悪くないネーミングセンスね。でも、家財倒壊罪だなんて、覚えがなくってよ? それに、もう少し可愛く描いてくれればいいのに! ほら、頭がつるんつるん!」
手配書に描かれている髪のない頭を指差すロゼッタ。
能天気そうなロゼッタを見て、ブルータスは何とも言えない表情になる。
「まぁ、捕まることはないだろうが……。あんまり無茶すると、この町を出ることになるぞ? 昨日のことだってそうだ。どうしてあんな無茶した? あいつをどうしようってんだ?」
手配書を胸ポケットに仕舞うブルータス。
「ん~とね……。ちょっとね。役に立ちそうなのよ、あいつ。それに、私と似てるの……」
パンケーキを口に運ぶロゼッタ。
「似ている? どこが?」
怪訝そうな顔になるブルータス。
「ふふ。わかってないわね? ま、そのうち教えてあげるわ……」
ロゼッタの言葉に、ブルータスはふ~っと息を吐き、それ以上は何も聞かなかった。
夜になった。
町は昼間の賑わいを忘れて静まり返り、まだ十分に電力が足りていないために電光灯はその半分以上が光を灯していない。
五階建ての古びたアパートの最上階の一室が、ロゼッタの家だ。
バスタブを泡でいっぱいにして、入浴中のロゼッタ。
シルクのような金髪と、マシュマロのような白い肌が湯船に浸かっている。
鼻歌を歌いながら、左の鎖骨から腕にかけてある赤い入れ墨を撫でる。
そして、その赤い入れ墨の先にある、普段は手袋に下に隠されている左の手の平にも、複雑な模様の入れ墨が彫られているのだが、その入れ墨は黒く、どこか禍々しい印象を与えるものだ。
「もしかしたら今夜は、私の人生で二番目に大切な夜になるかも知れないわね……」
不敵な笑みを浮かべながら、そう呟いた。
「ロゼ、そろそろ時間だぜ?」
風呂場のカーテン越しに、ブルータスが声を掛けてきた。
「わかってる。もう上がるわ」
浴槽から出たロゼッタの背中には、小さな一対の、鳥のような白い羽が生えている。
それに加えて、右太腿の裏から膝の裏にかけて、左腕と同じ赤い入れ墨が存在している。
ただ、白い羽も赤い入れ墨も、魔力を持たない人間の目には映らないものだ。
体中の泡を落として、バスタオルを巻き、隣の部屋へと向かうロゼッタ。
その部屋には、色とりどりのミニ丈のドレスや、様々なデザインのコートやジャケットを初めとし、沢山の帽子や靴、鞄やアクセサリーが所狭しと並べられていて、まるで広めのウォークインクローゼットのようだ。
ロゼッタはその中からベージュのミニドレスを選んで着て、赤い靴を履いた。
全ての服に共通することは、露出度が高く、背中部分が大きく開いていて、ちょうど背中にある小さな白い羽が外に出るような形をしていることだ。
部屋の真ん中にある大きな鏡の前に立ち、全身をくまなくチェックした後、その横にある化粧台で簡単なメイクを施す。
最後に、化粧台の上に置かれている、薄汚れた手のひらサイズの巾着を手にした。
その中に手を突っ込んで引っ張り出したのは、およそ小さな巾着の中になど納まらないはずの大きさの黒い箱。
箱の中にあるのは、小さな小さな黒い玉。
真珠のような艶を持つその黒い玉は、光の加減で赤や青や黄色、緑や紫と様々な色に輝いて見える。
宝石のように大事に仕舞われているその玉は、細い糸が通せそうな空洞が一つ、開いている。
全部で四十七個あるが、それらに対してこの箱は大きすぎる。
まだまだ沢山入れられそうなその箱を見て、ロゼッタはいつになく真剣な顔をしている。
大きく深呼吸をして、箱を巾着の中へ戻し、巾着は胸の谷間の奥へと押し込んだ。
風呂場を出て、リビングのソファーで寛いでいるブルータスに視線を向ける。
「一人で大丈夫か? 援護するぜ?」
腰にある銃を取り出して見せるブルータス。
「ん~、たぶん大丈夫だけど……。暇ならどこかから見ていても良くてよ?」
にっこりと笑って、ロゼッタは部屋のバルコニーの扉を開けた。
夜風が吹き抜けるこの町に、明かりは少ない。
そのためか、空に光る月のなんと眩しいこと。
三角の尖った屋根が特徴的な町の中心地の建物は、その全てが三階以上七階未満の建物で、中流階級の人々が住んでいる。
建物のあちこちの窓に優しい光が灯っているのは、そこに暖かい家庭があるからだ。
自分が望んでも手に入れられなかったものが、すぐそこにあるというのに、手に入らないもどかしさ……。
ロゼッタはしばらくの間、町の光をぼんやりと見つめていたが、我に返ったかのように頭を横に振って、おもむろにバルコニーの柵の上に立った。
気合を入れるかのように、素早く両手に靴と同じ色の手袋をはめて、キッと夜空を見上げる。
頭上高く輝く、美しい月に向かって、ロゼッタは両手を広げる。
そして目を閉じ、何か言葉を唱え始めた。
「我、契約の下、汝の力を解き放つ」
ロゼッタの体に刻まれた、赤い入れ墨が光を帯び始める。
すると、ロゼッタの背にある小さな白い羽がみるみる内に広がり、月の光を受けて輝く大きな白い翼となった。
その姿はまるで、天使のような……、神々しい姿だ。
翼が現れたと同時に、ロゼッタの赤い入れ墨は光も色も失った。
「一応、屋根の上から見ているからな」
背後でそう言ったブルータスに向かって頷いて、ロゼッタは夜空へと飛び立った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます