第13章 鎮静の庭:真実へ②

 キノの唇が声なくそうつぶやくと同時に、涼醒がこちらを向いた。闇にキノの姿をとらえた目が、かたわらに揺れる火を反射して光る。


 キノは足を速めなかった。涼醒も立ち上がりはしない。徐々に近づく互いのひとみを見つめ合ったまま、二人の間の空間は縮まり、その密度は高くなっていく。


「浩司は、ラシャとの交信に行ってる。あと20分くらいで終わるはずだ」


 キノが扉の下まで来ると、涼醒はそう言って視線を落とした。


「落ち着いたみたいだな」


「うん…」


 キノは静かにステップを上がり、涼醒の隣に腰を下ろす。


 浩司に伝えることをしっかりと心に抱え、彼が館にいることに安堵あんどする一方で、涼醒に対する思いが湧き上がる。


「涼醒、私…」


 キノの言葉が、温かい胸にき止められ途切れる。


「今度、追って来るなって言う時は…おまえの知ってる場所で、夜じゃない時にしてくれよ」


 抱きめたキノの頭の上で、涼醒がつぶやく。


「俺が、すぐ追える男になるまではさ」


 緩められた腕の中、キノは閉じた目の奥を熱くする。


 自分を小さくするもの、冷たくするもの全てから守られているような安心感。

 キノが初めて見た希由香の記憶の夢で知った、これと酷似こくじする感覚。この幸福な感覚を、再び希由香が感じる時は来るだろうか。


「心配かけてごめんね…困らせるようなこと言って…私、浩司のことでいっぱいで、涼醒に…」


「希音…」


 涼醒はキノの身体からだを自分から離し、そのうるんだひとみをじっと見つめる。


「俺に逃げて落ち着くなら、次はもう困らない。俺がそばにいる意味が、おまえにもあるかどうかは…後でゆっくり考えればいいさ。だから、今は浩司のことだけ考えろよ。あの祈りを止めたいなら、次も後もないからな。あいつに言いたいこと、ちゃんとわかったんだろ?」


 そう言って微笑む涼醒がにじまぬよう、キノはうなずきながら強くまばたいた。

 睫毛まつげの先にとどまる涙は、悲しみと反対の泉からこぼれる温かいしずく。その出所にあるのは、心を満たす思いの尻尾。その正体は、涼醒の言う意味と同一のもの。そして、それは確かに、後でも消えない幻想げんそうだった。


「護りに運命を変える力があるなら…浩司に幸せを選んで欲しい。だから、彼の本当の望みを聞くの」


「そのためにここまで来たんだ。希音の言葉なら、浩司に伝わるさ。おまえには、弱みも見せられるだろうしな。俺が何言っても、あいつ全然…」


 言葉をにごす涼醒を見て、キノは思わず笑みをらした。


「奏湖さんが言ってたよ。涼醒の声、廊下まで聞こえたって」


「奏湖に会ったのか?」


「うん。丘の先で…リージェイクと話してたところに来たの」


 一瞬、からんだ視線が静止した。涼醒が、溜息ためいきとともにそれをほどく。


「冷静になれたのは、そのおかげか」


「…希由香の話をしたの。幸せや望みとか…。あの人、希由香と会ったことがあって、私はその記憶を見てたから…初めて話す気がしなかった。それに…」


「妙な説得力があるよな。ちっとも押しつけないのに、素直にうなずけるようなことを自然に言われるとさ」


 少なからず驚いたキノの顔が、すぐに納得の表情に変わる。


「朝、彼に呼び止められなかったら、そのまま話し合いに乱入した?」


「部屋に辿たどり着く前に、二人目の人質になってた可能性の方が高いな」


「最初はそう思ったよ。いくら死なないってわかってても、涼醒が何かされて…平気で見てられる自信なんかないのに、どうしようって」


 キノは、涼醒の左のこめかみを見やる。まだ少し痛々しいその傷が、出血の割に浅くて済んだことにあらためてほっとする。


「…それでも、俺はあの場に行かなけりゃならなかった」


 笑っていた涼醒が真顔になる。


「希音と浩司が館にいる。ジャルドと話し合いだが、発動者のところには汐がいる。だから、彼女を傷つけることはない。リージェイクにそう聞いて、護りを奪われる心配は減った。その代わり、話し合いがすぐに終わった時のことを考えたよ」


「私が祈りのことを聞く時には…継承者のことも知るはずだから…?」


「浩司が、護りを見つけるまでは話さない祈りだ。希音が喜ばないものだろうとは思ってたさ。寿命のことがその理由だなんて考えもしなかったけど…全てを話すって言ってたからな。その時には、どうしてもそばにいたかった。結局何もしてやれなかったけど…それでもさ」


「ううん…ありがとう」


 キノが微笑んだ。涼醒は、力ない笑みを返し深い息をつく。


「聞いて辛いことでも、知らないで笑ってるのはごめんだ。希音もそうだよな。だから、継承者の寿命のことは…浩司に話すつもりがないなら、俺が話した」


「うん…もし、祈りに関係なくても、護りが発動に間に合わなかったとしても、私がショックを受けるのがわかってても…教えてくれたでしょ?」


「…必ずな」


 闇に目を向け、涼醒がつぶやく。


「知ってどうにも出来ないことでも、それが自分にとってどうでもいいことじゃないかぎり、知らなけりゃよかったなんて、俺は思わない。もっと早くに、聞いておかなけりゃならないことだった…」


 肩越しの灯りの落とす明るい影の中、キノは涼醒の横顔にかすかな苦痛のゆがみを見て取った。


「涼醒…?」


「…知らなかったんだ」


「え…?」


「継承者に寿命があるってことをさ」


 深い息とともに吐き出された涼醒の声は、冷たく乾いている。


「希音が家に来た夜、浩司も来ただろ。あの後…初めて湶樹に聞いた」


「そんな…だって…」


 困惑こんわくに口ごもるキノを見て、涼醒が続ける。


「ヴァイではどうか知らないが…イエルでは、多分ほとんどが知っちゃいない。周知の事実にならないように、本人たちは気をつかって隠してるらしい。身近な継承者が、何人も同じ歳で死ねば…気づく奴もいるだろうけどな」


「どうして…?」


「…それを聞く前に、俺は部屋にこもっちまった」


 キノは、ラシャへ降りる朝、中空の間の隣室での涼醒を思い出す。


「どうして弟の俺にまで黙ってたかなんて、聞けやしなかったよ。寿命のことがショックだった。リシールをつくったラシャが、必要な継承者の死ぬ時期を決めてる。それが、どうしようもなく頭に来て…言っちまいそうになった。浩司も湶樹も、何でラシャの言いなりになる? 護りを探しても、世界が崩壊するまで生きてるかわからないのにってな。自己嫌悪で…胸が悪くなった」


 しわきざんだ眉間みけんに固く組んだ両手をあて、涼醒がうつむいた。


「崩壊の予言を聞いた頃、湶樹が言ったことを思い出したよ。『リシールに生まれてよかったって思ったことはないけど、もし、私たちのどっちかが継承者に生まれなきゃならなかったとしたら、私でよかった』ってさ。あの時、あいつに聞くべきだったんだ。何を思ってそう言ったのか…そうすりゃ、きっと…」


「涼醒…」


 キノは言葉が続かない。けれども、沈黙も続かなかった。溜息ためいきを声に出し、涼醒が勢い良く顔を上げる。


「こんなんじゃ、誰かを守るなんて言えないよな。もっとしっかりしてなけりゃ…心がさ」


「…強くなきゃ、弱いところも見えないじゃない。私の知ってるのは…本当の涼醒でしょ?」


「本音を言えば、情けないところはしまっときたかったけどな。メッキの下を隠すなら、始めからやらなけりゃ手遅れだろ? 今更いまさらってもおまえにごまかしはかないさ。どっちにしろ…俺は嘘が上手くない」


「わかってる」


 うれいのかげりを残したまま、涼醒が笑う。そのひとみをキノは見つめる。心を語る時、いつもその入口を見通せそうなひとみは、そこをのぞく自分をも真直ぐに映し出す。


「私…涼醒といると安心出来るの。涼醒だけが、何も私を消したりはしないって思わせてくれる…私を強くしてくれる。世界がなくなる時でも、涼醒が大丈夫だって言ってくれたら、私は怖くないよ」


「いつでも言ってやる。おまえが望む時は、そばにいるよ」


「そばにいて…あなたが望む時も」


 視線に繋がれた二人は、互いのに自らの思いの浸透を見る。


 キノが微笑んだ。涼醒は微笑みを返しうなずいた。


「そろそろ、終わる頃だ」


 涼醒が館を振り返る。


「浩司は…嘘が上手いよな」


「わかってる」


「大丈夫だ。おまえの気持ちは伝わるよ」


「うん…ありがとう。行ってくるね」


 キノはゆっくりと立ち上がり、真黒な木々の頭上に目を走らせた。


 さざめくこずえの波間に、左にを張る月光の弦先はまだ見えない。キノの心に、不安の影はない。様々な必然に導かれたもうひとつの使命は、流れる星の残光にたくす叶わぬ夢ではないと知っている。

 愛する者たちの切ない思いは、それぞれの選ぶ運命を幸せへと向かわせるものであれと願い、そして、信じているのだから。

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