第10章 夜明け前の攻防:チェイス②

 8時間ほど前と同じ道順を辿たどりN橋のところに走り着いたタクシーは、3軒のラブホテルが連なる横道へと右折した。

 最奥にあるホテルの入口の前でタクシーを降りたキノは、辺りに人影がないことを確認し、駐車場から小振りなエントランスに向かって足を速める。


 無人の玄関ホールに設置されているパネルには、各部屋の写真による選択ボタンがついている。空室は3部屋。

 キノがボタンに手を伸ばしかけた時、背後で自動ドアが開いた。反射的に振り向いたキノの全神経が、緊張に固まる。

 視界より先に耳に入って来たのは、甲高かんだかい女の声だった。


「もう30分も待ってるのよ。5時の約束じゃなかったの? 別々に来た方がいいのはわかるけど、時間くらいは守ってくれなきゃ…」


 続いて姿を現した27、8歳くらいのその女は、キノがいるのに気づき言葉を止めた。ホールのすみに置かれた椅子に腰掛け、口元を手の平で覆いながら、声のトーンを落とし話を続ける。


「とにかく…外にいるのは嫌だから、中で待ってるわ。あともう少しで着くんでしょう? うん…」


 キノはほっと息をつくと、2階にある部屋のボタンを押した。


 先程いたホテルと同様、屋外に非常階段はなく、窓は15センチ足らずの隙間すきましか開かないに違いない。けれども、地に近い場所をキノに選ばせるのは、いざとなれば、窓を割ってでも逃げるという思いなのだろうか。


「じゃあ、出来るだけ早く…でも、気をつけてね…」


 電話を終えた女が、キノの方へと視線を向ける。機械から出されたキーを受け取ったキノは、そそくさとエレベーターに乗り込んだ。




 何か…嫌な感じがする。ひどく居心地が悪い。頭のどこかに、何かが引っかかってるみたいに…。


 正方形のベッドのわき。二人掛けのソファーのはしに腰を下ろしたキノは、室内を暗く映すテレビの画面に視線を向けたままだった。その意識は、脳裏にかかる灰色のもやを見つめている。


 キノを落ち着かせなくさせているのは、不自然で明るい淫靡いんびさをかもし出すこの部屋の雰囲気ではない。日曜の午前5時にラブホテルの一室にひとりぼうっとする自分を、はたからから見て滑稽こっけいに思えるからでもない。


 今ここにいることは間違っていないか。ここは本当に安全な場所なのか。


 あのホテルからうまく出られて、追って来る車も何とか振り切った。手が届くところまで近づけば、リシールの人たちは私をどうにでも出来るだろうから、人目があっても街中にはいられない。誰にも見つからないうちに遠くの街まで行っちゃった方が、安全だったかもしれない。だけど…。


 奏湖からの電話を切った直後、そして、タクシーで夜明け前の街に走り出した時と、キノは咄嗟とっさに考え得る最善の方法を採り、今この部屋に身をひそめたつもりだった。

 力の護りを持ちその祈りを発動する呪文を知るかぎり、キノ一人で完全に安全と言える場所は、ヴァイの地のどこにもない。

 けれども、しばしの間だけでも神経を休ませられるところ、一時いっときだけでも目を閉じ心を弛緩しかんさせるに足るところがあるとするなら、それはここで充分なのだろうか。


 館の近くにいたかった…。今戻ることは出来なくても、ギリギリまであきらめたくない。だから、もし大丈夫になった時に、すぐに行ける場所に…。


 キノはゆっくり立ち上がると、小さな窓から外を眺めた。


 私がここにいるのを知られなければ、リシールに護りを奪われることはない。だから、とりあえずは安全なはずなのに…どうしてちっとも安心出来ないの? それどころか、不安がふくれて破れそう…。


 キノはもう間もなく地表をい始める陽のきざしを空に探しながら、心にみつく不安のみなもと対峙たいじする。


 奏湖さんは…ジーグがラシャへ降りたら、人質は二人になるって言った。涼醒は大丈夫だって思いたい。でも、もしかしたら、本当につかまってるのかもしれない。あの時は逃げられても、その後で見つかったかもしれない。希由香は…館から動けない。


 キノは固く目を閉じる。


 浩司にとって希由香は人質になり得る。シキは、万一のこととしてその心配をしてた。でも、浩司が降りなくてもそれは同じ…ううん、もっと悪い。


 キノはまぶたの間にしわを寄せる。


 今のジャルドたちの状況を、シキは本当に知らなかったの…? そして、考えなかったの? 私にとっても、同じ危険があるってことを…。


 キノの脳裏に、安らかに眠るような希由香の顔が浮かぶ。自分を励まし力づける涼醒の笑顔が浮かぶ。そして、目を閉じ青ざめた浩司の顔が。


 護りは、必ず持ち帰らなきゃならない。でも、希由香と涼醒を傷つけさせないためなら、私は護りを渡してしまいそうになるかもしれない。それなら…ジャルドたちの手に入らないものにしちゃった方がいいの? 彼らのほしいものを持たなければ、私に対して質を取る意味はなくなる…?


 キノは目を開ける。


 護りは発動された方が、誰の危険も減らせるのかも。だけど…浩司の祈りをあきらめるには、まだ早過ぎる。まだ残ってる望みを自分から捨てることが、私に出来る…? 浩司が命までけた望みを…。


 窓の外はまだ暗く、時折通る車のライトだけが時の流動を伝える。

 夜明け直前の静謐せいひつに沈む街。つかなぎの街は、目醒める間際まぎわの最後の一呼吸ひとこきゅうを今吸い込み、吐き出そうとしている。


 護りを発動しなきゃならなくなった時、浩司のしたいことを祈るべきだと思った。でも、それが何か、知ることは叶わない。だから、私の思いつくかぎりで、浩司の望みに近いことを祈ろうと思った。希由香を思うなら…浩司にかけられている呪いをく。浩司を闇から救うことを。それは、希由香と私の願いでもある。だけど…。


 キノは頭を振った。


 浩司が、全く別のことを望んでいる気がしてならない。そして…涼醒の無事を祈りたい自分がいる。館にいる希由香の安全も、守りたい…。


 今にも白み始めようとしている空から目をそむけ、キノはソファーへと戻る。


 涼醒、今どこにいるの? もし、危ない目にあってたら…そう思うと、いても立ってもいられない。涼醒は、自分のすることをちゃんと選んでた。私もそう出来るって信じてる。でも、大切なものをひとつだけ選ぶ。そのいさぎよさが…私にはないよ…。 


 キノは自分を襲う恐怖心を直視する。


 発動さえすれば、その祈りが何だろうと、護りはジャルドたちに奪われない。ラシャに戻すことだけを考えるなら簡単なことだけど…何を祈るかを決めるのが、ものすごく怖い。こんなにも怖く感じるのは…それによって変わる運命が、自分のものだけじゃないってわかってるから…。シキは、どうして私にこの重荷を背負わせたの?


 低いテーブルにひじをつき、キノは頭を抱え込んだ。


 あと丸一日のうちに、どうにか館に戻らないかぎり、私は選ばなきゃならない。誰の安全を? 誰の望みを? 自分の身だけが危険にさらされるなら、自分の運命だけを左右するなら、どんなにか楽なのに…。


 キノは組んだ両手にあごを乗せ、深くて長い溜息ためいきをつく。


 今の私…ひとりで内にこもってたら、煮詰につまってひからびちゃいそう。時間が経つのをここでじっと待ってるよりも、タクシーで走り回ってた方がよかったかもしれない。リシールに見つかる可能性は高いけど、大通りを走ってれば手は出せないはずだし…。


 キノは、部屋の半分を占めるベッドに目をやった。枕の間から見える時計の数字は、午前5時03分を示している。


 それに…はっきりしない、この泡立つ不快感は何? 囲まれた空間にいて逃げ場がないのを、ただ単に息苦しく思ってるだけ? 私のどこかを、何かが引っき続けてる。漠然ばくぜんとした不安じゃなくて、根拠のある不安に気づかないでいるみたいなこの感覚…私、ここにいることに不安を感じる何かを、見落としてるの…? 


 キノはまだ新しい記憶をめくる。


 後ろを走る車は1台もいなかった。すれ違う車はいたけど、Uターンしてくるのはいなかった。だけど…大通りからここへの道に曲がった時、対向車線に停まってる車がいたような…気がする。


 視線を宙に泳がせたまま、キノはゆらりと立ち上がった。


 あの時は後ろだけを用心してたから、特に気にならなかったけど…よく考えたら、リシールが乗ってたかもしれない…? N橋のところ…館に近い、昨夜ゆうべも見張りがいた場所…。


 ベッドのまわりを無意識に歩きながら、キノは頭の中に現れてくるものを見つめる。得体えたいの知れない不安が、その正体を見せ始めている。


 もし、私がこのホテルに入ったのを知られてるとしたら…? でも、そうだとしても、リシールじゃない私のいる部屋まではわからないはず…。あと1時間もすれば、護りは発動出来るようになる。万一の時は、彼らに奪われる前に…。


 見開いたキノの目が、ベッドサイドの時計に釘づけになる。


 さっきの女の人…確か『もう30分も待ってる』『5時の約束』って言ってた。今5時になったところなのに、変じゃない? 時間の思い違いはありえるけど…聞こえた話から、知られたらまずい相手とホテルで待ち合わせかなって勝手に思って安心しちゃってたけど…もし、彼女が追っ手の一人だったら? もし、仲間を待ってたとしたら、私がどの部屋にいるかは…。


 キノはふくらむ疑念ぎねんをほとんど直感で肯定し、自分の迂闊うかつさに舌打ちする。


 ここから出なきゃ…! 今捕まつかったらおしまいだ。外にリシールが待ち構えてるとしても、ここで全ての望みを奪われるのをただ待つのは嫌…護りがラシャに戻るのが必然なら、私は逃げられる…!


 一目散いちもくさんにドアへと走り、キノは静かに部屋の鍵を外す。


 あきらめるのは、出来ることが何もなくなってから…まだ大丈夫。


『真に必要な時、護りは必ずラシャへと戻る』


 そう言ったのは誰だった? それが本当だって信じたい。今がその時だって…。


 わずかに引いたドアの隙間すきまから廊下に誰もいないことを確認し、キノは部屋を抜け出した。

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