第10章 夜明け前の攻防:チェイス①

「こんなに朝早くからおさわがせして、本当にすみませんでした」


 9階から下降する四角い箱の中、キノはホテルのサービスマンに頭を下げた。二人を乗せたエレベーターが、チャイムの音とともに一階に到着する。


「いいえ。お客様にお怪我けががなくて何よりです。お気になさらずに」 


 サービスマンは吸い込まれた扉を背にしてキノを先にうながし、微笑みを浮かべる。


 彼が10分前にキノの客室にけつけた時から、ドアの前にいたリシールたちはどこかに消えていた。やはり、警察を呼ばれる事態を引き起こす気はないのだろう。キノだけならば気を失わせ連れ去ることも可能だが、ホテルの者がいてはそれも出来ない。




 リシールに部屋のドアを開けられてしまう前に、キノはフロントにコールした。


「緊急な用事で今すぐチェックアウトしたいので、ホテルの入口にタクシーを呼んで置いてほしいんです。それから…」


 あわただしい口調でそう言った直後、派手な物音をたてながら受話器を床に叩き落とし、通話を切った。


「電話しながら身支度をしていたら、コードを引っかけて…電話機とライトを落としてしまっただけなんです。ちょっと気が動転していたので…」


 何事かと取り急ぎやって来たサービスマンは、申し訳なさそうに事情を話すキノにとがめるなどはつゆほど向けず、宿泊客の無事に安堵あんどした。従業員の教育は行き届いているらしく、よけいな詮索せんさくもして来ない。そして、落ち着かない様子のキノを気づかい、ロビーへと同行してくれている。


 奏湖におどされるまでもなくキノにとっても、ほかに打つ手がなくならない限り、警察沙汰はけなければならないことだった。部屋の前にあやしい者がいるとコールしたり大声で助けを求めたりした場合、リシールにつかまることはまぬがれても、後々面倒なことになってしまう。


 ホテルの外にも追っ手はいるだろう。けれども、このままタクシーまで辿たどり着ければ、キノはとりあえずこの窮地きゅうちを脱することが出来る。


「いろいろとありがとうございます。助かりました」


 キノは再び頭を軽く下げ、笑顔でエレベーターを降りた。

 ロビーの前にもエントランスホールにも、制服姿の従業員しかいない。

 ホテル内にいるリシールたちが何気なく現れるのを警戒しながら、キノはフロントにキーを返す。


「タクシーはご用意出来ております」


「ありがとうございます。今日はせわしなく出ることになってしまったけど、今度来る時は、ゆっくり朝食をいただきます」


「ありがとうございます。またのご利用をお待ち致しております」


 3時間前と同じクラークが、同じ笑みでお辞儀じぎをする。キノは微笑みを返すと、入口のガラス扉へと足を進めた。




 ドアマンの見守る中、キノの乗り込んだタクシーのドアが閉まる。


「どこに行きます?」


 運転手の明るい声が車内に響く。


「お客さん?」


 即答しないキノを振り返る顔には、かすかにいぶかし気な表情が浮かんでいる。この時間にタクシーを呼ぶのだから、明確な行き先に急ぐのだと思うのも無理はない。


「えっと、とりあえず…駅前の大通りに出てくれる?」


 まだ暗い早朝の街の風景がゆっくりと動き出すのを見て、キノはようやく深い息をついた。


 この後どうするか、今最優先させるべきは何なのか。


 キノは涼醒の言葉を思い出す。


『どうなるかは、まだ決まっちゃいない。最後まで、あきらめなくてもいい』


 後ろを振り向いたキノの目が、ホテルの駐車場と、一本奥の路地から出て来る2台の車をとらえた。視線を前に戻すと、閑散かんさんとした大通りが見えてくる。


「運転手さんなら、この街の道に詳しいはずだし、運転にも自信があるよね?」


「そりゃ仕事だからね。悪者に追われてでもいるのかい?」


 バッグミラーの中でキノと目を合わせ、運転手が笑った。




 駅の裏手にあるビジネスホテルに向かって、タクシーが加速する。後ろを走る車との距離が開いていく。ついて来る車は、1台だけになっていた。


「さっきと同じように、入口の手前で停まって、後ろの車がギリギリまで追いついたら、ゆっくり走り出して」


 昨夜入ったビジネスホテルの前でタクシーを止めさせてからここまでずっと、キノは後部座席に身をかがめたままだった。

 キノは運転席のシートに腕を突っ張り、急ブレーキからの反動にそなえた。前に押される力が落ち着いて程なく、発進による緩やかな振動が、息をひそめるキノの身体からだを揺らす。


「お客さん、もう頭を上げて平気だよ。追って来る車はいなくなっちまった。結構引っかかるもんだね」


 運転手がそう言うと、キノは上体を起こして後ろを向いた。バッグウィンドウの向こうに、通りを照らす街灯以外の明りはない。


「5秒停まれば、人が降りるのには充分だもん。追いつくまでにもう5秒もあれば、ホテルに入ったのか脇道わきみちに逃げ込んだのか、わからなく出来るでしょ? 辺りを確かめずにそのまま追って来るなら、別の方法を考えなきゃと思ったけど…」


 キノは、首を回して身体からだを伸ばす。


「降りたかもしれないって疑問を残したままじゃ追えない。そういう人たちで助かった。2組だけだったのも」


「後ろにいる車をきたいのって言われた時は、正直無理だと思ったよ。こんな朝早くて道がガラガラじゃとてもね。まあ、うまくいってよかった」


「ありがとう。見えないように停めてくれたんでしょ? 暗いうちで助かったし」




 タクシーは駅前の大通りへと戻った。

 始発電車の発車を告げるベルの音が、時をつくる雄鶏おんどりのように聞こえて来る。それは徐々に寝静まった街の目醒めを誘い、やがて東の空に太陽を呼ぶ。


「ありがとう。理由も聞かないで、言う通りに走ってくれて…」


「人の事情はいろいろだ。逃げる方にも追う方にも言い分はあるだろうけど、悪いことをするんじゃないかぎりは、乗せたお客さんの側に立つのがすじだ。その方が安心出来るなら、特別料金はもらっておくよ」


 タクシーは、駅のロータリーに停車していた。すぐ前には客待ちのタクシーが数台いる。


「じゃあ、気をつけて行くといい」


「運転手さんも」


 気さくな運転手の笑顔に別れを告げ、キノはタクシーを降りた。そして、素早く前のタクシーの窓をノックする。


 開いたドアの中に滑り込んだキノは、行き先をたずねる運転手に即答する。


「N橋のところまで」

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