第10章 夜明け前の攻防:何のため誰のために

 キノはフラフラとベッドの縁に腰を落とした。備えつけのデジタル時計の数字が、ぼんやりと目に映る。


 丁度1時間前に、涼醒からの電話がリシールの来訪を告げた。そして、今その同じ番号から、涼醒ではないリシールがキノに話しかけている。


「声も出ないほど驚いてはいないでしょう? 充分予想出来たはずだわ。涼醒君が一人で逃げ切れるとでも思ってた?」


「奏湖さん…涼醒は…?」


「発信器を置いていかれたおかげで、見つけるのに時間がかかったわ。涼醒君があなたのそばを離れるのも意外だった。だけど、結果は同じよ。あなたに…話があるの」


「涼醒に替わって。彼の携帯からかけてるってことは、そこにいるんでしょ? 」


「ええ。でも、話すのは無理よ」


「…涼醒に何をしたの?」


 携帯を握るキノの手に力がこもり、ピアスが耳の後ろに食い込んだ。


「涼醒に何かあったら、あなたたちをほろぼしてやるから!」


「怖いわね。でも、どうやって?」


「護りに祈るよ。ヴァイのリシールをこの世から消してって」


 キノの耳に響く奏湖の甲高い笑い声が、狂喜きょうきに光るジャルドのひとみを思い起こさせる。


「何がおかしいの? 本気よ」


「それは不可能だから。ラシャと同じ力を持つ継承者の命は奪えないし、大勢の命を奪うのも無理よ」


「…あなただけのなら奪えるのね」


「そうしたいなら、やれば? 貴重な力をそんなことに使うなんて、無駄もいいところだけど。私一人いなくなっても、一族は困らないもの」


 一瞬、キノは奏湖の後ろから聞こえる音を聞き取った。

 パソコンのキーを弾くような音と、不規則な電子音。けれども、それらが何であるかを気にする余裕など、今のキノの心にはない。


「心配しなくても、涼醒君はまだ無事よ。あなたが私たちの言う通りにしてくれるなら、ずっとね」


「護りは渡さない。あなたたちに…涼醒は殺せないでしょ?」


「よく知ってるじゃない。でも、痛めつけることは出来るわよ? 私たちには独自のおきてがあって、それにそむいた者には罰が与えられる。話したでしょう? ごうもん問は得意よ。リシールの命を奪えないのはちょうどいいわ。ジャルドは手加減を知らないから」


 キノは唇をむ。奏湖への怒りが、熱い心を沸騰させる。


「そんなことしたら、あなたたちみんな同じ目に合わせてみせる。私なら…ジャルドも殺せるよ」


「それはこっちも同じだわ。あなたの身が安全なのは、祈りの呪文を知りたいからよ。ラシャの者はもうすぐ帰る。そうすれば、紫野希由香もいるから、人質ひとじちは二人になるわ」


卑怯ひきょうだね…。護りを手にいれるためなら、何でもやるの?」


「聞くまでもないんじゃない? もし、あなたが警察を呼んだ場合には、涼醒君のことも通報してあげる。医者が怪しむくらいの怪我 けがを負わせてからね。あなた自身も困るでしょう? こっちの世界にはいるはずのない人間だもの」


「…そこまでして、もう一人の継承者を探したいの? 9人そろえると、いったいどうなるっていうの?」


「私たちが護りの力で何をするかまで知ってるのなら、話は早いわ。ヴァイには今、9人の継承者がいることがわかった。覚醒していない残る一人を見つけ出せば、長年の願いがやっと叶う。一族の、リシールの繁栄…ジャルドの願いよ」


「繁栄って、いったいどういう意味?」


 短い沈黙の後、奏湖が静かにたずねる。


「希音さんは、リシールがどうして人数を増やせないか知ってる?」


「…男は子孫を残せないから?」


「そう。おかしいと思わない? ラシャのために存在する私たちにだって、人間として普通に生きる権利はあるわ。でも、ここでは子孫を残すために、女は必ず子供を産まなきゃいけない。愛する男がほかにいてもよ。あなたなら、耐えられる?」


「それは…奏湖さんの愛する人が、リシールだからなのね」


「…9人の継承者が力を合わせると、リシールの男も子供を残せるようになる。そう言い伝えられてるわ。私は…一族が繁栄しようが滅びようが、それはどうでもいいの。だけど、義務で子供をつくるなんてまっぴらよ」


「もう一人が見つかっても、9人が賛成しなきゃいけないんでしょう?」


「そうね。でも、反対する者なんているわけないわ」


 キノは目を閉じ、息を吸う。


「浩司は…」


 深い息を吐き、目を開ける。


「きっと賛成しない。だから、あなたたちが護りを手に入れても無駄よ」


「何を言ってるの? 反対する理由なんてないでしょう? それに、もし反対したとしても…紫野希由香をたてに取れば、言いなりに出来るもの」


「…浩司を甘く見ない方がいいよ」


「あなたもね。ジャルドはもうすぐ館から出られるわ。そろそろ結論を出したらどう? 涼醒君を思うなら、早めに護りを渡した方が利口よ。それとも、彼はあなたにとって、人質の価値はないのかしら?」


 キノは濡れた髪を乱暴にき上げる。


「護りをラシャに持ち帰らなかったら、あなたたちは継承者を失う。それでもいいの?」


「どういうこと?」


「浩司は…ラシャの者と約束してるの。護りをラシャに戻せなかったら、自分の力を返すって…」


 しばしの間を開けた後、奏湖が呆れた声を上げる。


「バカバカしいわ。苦しまぎれの出まかせなら、もっとましな話にするのね。そんな約束、榊浩司に何のメリットがあるっていうのよ」


「信じないなら、それでもいい。だけど、後で泣くのは私だけじゃないよ」


 感情を抑えたキノの言葉に、奏湖が押し黙る。


「涼醒は…本当にそこにいるの? 捕まえたなら、私の居場所を聞いたはずよね。何て答えた?」


「そこがどこか、彼が口を割るのを心配してるの? 彼があなたのことより、自分の身が可愛いくなったらどうしようって?」


 キノが声を上げて笑った。


「その心配をする必要はないの。涼醒は私がどこにいるか知らないよ。ペンを置いたホテルを出てすぐに別れたから。涼醒からは何も聞き出せない、これは言っておいた方が親切かなと思って。それより…私が知りたいのは、彼が何て答えたかよ。もし、つかまって私の居所いどころを聞かれた時に、こう言うって決めてある場所があるの。本当につかまえたなら、涼醒から聞いたはずよ」


 奏湖は何も言わない。


「答えられないの? 」


「聞く前に気を失ったから…。だけど、間違いなくここにいるわ。この携帯を使ってるのが、その証拠よ」


 キノの頭と精神は動揺しているが、奏湖の口調に混じる不審の色を感じ取れなくなるほどではない。


「嘘よ…涼醒はそこにいない」


「そう思いたいなら、思えばいいわ」


 二人が無言で息を詰める中、キノの耳にざわめきが聞こえた。


「私たちは、必ず護りを手に入れる。そして、一族の繁栄を願うわ。9人の継承者が現れるなんて、滅多にないチャンスなのよ」


「リシールが繁栄を選ぶ時、世界は滅びることになる…その予言のことをラシャで聞いたよ。それは知ってるの?」


「…世界が滅びる?」


「そう。今予言されてる崩壊とは別に…それでも?」


「信じないわ…それも、作り話なんでしょう? だって、本当なら…ジャルドが知らないはずないもの」


「私には、予言にどれだけの信憑性しんぴょうせいがあるかとか…リシールのことも、わからないことの方が多いよ。だけど、世界が崩壊する可能性があって、それを止めるために自分に出来ることがあるなら…そう思ってる。私にも、守りたいものがあるの」


「…ジャルドが護りを手にしても、世界の崩壊はけられるわ」 


「奏湖さん…ヴァイのリシールたちは厳しい決まりにとらわれてる、逃げ出したい、そう言ったのも、全部嘘だったの?」


「嘘じゃないわ。ジャルドは冷酷で、無慈悲で…暗いひとみには一遍いっぺんの情も見せないような男よ。彼に支配されてる限り、苦しむ者はいなくならない」


「だったらどうして? ジャルドが護りを手に入れたら、救われた世界は彼の思うままになるよ。それでもいいの? 奏湖さんは、ジャルドの言いつけで誰かを傷つけても平気なの? 辛くはならないの?」


「平気よ…私はジャルドの望むことなら、何だってするわ。一番辛いのは、彼にとって自分が何の役にも立たないことだもの」


 つぶやくようにそう言った奏湖の声に、キノは彼女の心を聞いた気がした。


「ジャルドは、この時のために自分が存在してると思って生きて来たのよ。私は彼の力になるって決めたの。それが…私の役目よ」


 おのれの役割を自分で決めるよりも、知らぬ間に与えられた役を無意識に演じることの方が容易たやすい。そして、良心の範疇はんちゅうをも自らが決めるならば、それに見合う返報へんぽうを受ける覚悟を持たねばならない。

 奏湖の決意の出所でどころを思い、キノは一瞬怒りを忘れた。


「奏湖さんは…」


「とにかく、あの人の邪魔は、誰にもさせないわ」


 感情的に言い放つ奏湖の背後で、誰かがささやくような声がする。何を言っているのかまでは、キノにはわからない。


「希音さん、続きは…会ってから話すことにしない?」


「え…?」


「まさか、同じホテルにいたとはね」


 キノが息を飲む。


「どうして…」


「携帯よ。通話中なら、そこがどこか突き止める方法を知ってるの。あなたが…話を続けられる状態で助かったわ」


 その言葉に弾かれたように、キノは携帯を耳から離し通話を切った。考えるより先にバッグをつかみ、ドアへと走る。


 キノの足が、扉の一歩手前で凍りつく。絨毯張じゅうたんばりの廊下は、歩く者の足音を響かせはしない。けれども、何かの機具の触れ合うかすかな音が、キノの正面に近づき止まった。

 次に聞こえたのは、控えめな呼び鈴とドアをノックする乾いた音。

 本来なら中にいる客にサービスを運ぶ者の来訪を告げるその音が、まるで非常ベルのようにキノを戦慄せんりつさせ、その《め》瞳を固く閉じさせる。


 大丈夫。私は強い…。


 開かれたキノのひとみに宿る光に、あきらめのかげ微塵みじんもなかった。


 キノの背後に見える窓の外、遠い丘の輪郭りんかくが濃紺に浮かび上がる。

 リシールの館。その東棟に配された中空の間に朝の陽が射し込む時、キノはラシャへと降りるだろう。そして、無の空間を旅するその時は、必ず力の護りとともにあらねばならない。


 たとえ、それが今日ではなく、何日か後のことになるとしても。


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