第5章 悲しみ、涙、そして、願い:祈りの行方
どのくらいの時間こうしているのだろう。二人の姿は夜に同化し、その輪郭は部屋の一部となり動かない。
灯りの消えた寝室の窓の下、浩司は壁を背に座っている。 床に投げ出された足。膝に乗せられた腕。きつく組まれた指。固く閉じられた
これ以上はないほど優しくゆっくりと、キノは浩司の頭を撫でる。
慈愛に満ちた指先から流れるのは、キノの切ない祈りなのかもしれない。救いたいと願う大切な者の負った傷が、自分の力では
希由香は、浩司の幸せを祈った。自分の手によってじゃなくてもいい。たとえ二度と会えなくても、浩司がどこかで幸せに生きているなら…。母親が我が子を愛するように、それほどまでに無償で人を愛せる人間はいる。希由香の思いは痛いくらいわかる。私も、浩司の幸せを願ってる。でも、希由香の幸せも、私は願う。だから…諦めたくない。
浩司の髪からキノの指へと、熱い体温が伝う。そのぬくもりが血を
頭の奥で、何かが
キノの肩にかかる重みが消えた。
「落ち着いた?」
「今までは、どうにか折合いつけていられたのにな」
浩司は両手で前髪を
「希由香の祈りは、そんなに予想外なものだったの?」
「あいつは俺に…面と向かってもメールでも、ただの一度も、愛してくれとは言わなかった。言えなくさせたのは俺だが…」
「でも、本当は、愛されたいと願ってた。だから、そう祈ると思ってたの?」
「…俺に見せない本心をな」
開いたままのドアから入り込む明りを頼りに、キノは浩司を見つめた。流した涙が、その
「愛してほしくても、浩司の意思じゃなきゃ意味がない。幸せになってほしいのに、自分じゃ無理だと思った。だから、せめて、祈りたかったのよ」
俺の知るはずのないところでも、実際にあいつが、自分の望みより俺のことを願ってたと思うと…想像以上にこたえるな」
「希由香は浩司に愛されないのを、何のせいにもしてないよ。自分に出来なくても、誰かが浩司を救ってくれるならって思ったの」
キノの頭の奥で
「浩司…継承者の力で、呪いを
キノの問いに、浩司の
「シェラと同じ力があるんでしょ?」
「…そのことは考えるな」
「どうして? 浩司にも出来るかもしれないんでしょ?」
「
「それは…」
「不確かな成功に、希由香の命を
肩を落とすキノの脳裏に、揺らめいていたものがはっきりと浮かび上がる。
「護りの力は…? 世界を救えるくらいなら、呪いを
浩司の表情が一瞬強張る。
「ラシャが、そんな
「
「私、ラシャに行ったら頼んでみる」
「キノ…」
感情を抑えた浩司の声が低く響く。けれども、興奮気味のキノは、それに気づかない。
「いざとなったら、切り札があるもん」
「よすんだ」
「シェラのかけた呪いを
「キノ!」
初めて聞く浩司の大声に、キノの背筋が凍る。
「いけないことなの…? 希由香を幸せに出来るのは自分しかいないって、知ってるんでしょう? 浩司だって…そうしてあげたいんじゃないの?」
浩司は数秒間閉じた目を開き、薄闇の中でキノを見据える。
「いいか、よく聞け。もし、呪いが
小さな
「頼む。護りは必ず見つけるんだ。そして、呪いを
「そんなの全然わからない。護りの発見が、どうして希由香のためになるの? 浩司は何を望んでるの?」
「護りを、見つけた後で話す」
「じゃあ、今すぐ思い出させて。ラシャに行くまで、まだ時間はあるでしょ?」
キノはおもむろに立ち上がり、部屋の灯りをつけた。闇に慣れた目は
キノが浩司の前に腰を下ろす。
「護りのある場所がわかったら、ちゃんと教えてくれる?」
「…約束したしな」
思いを含むキノの
「今なら、あの日の朝からでも大丈夫だよ。手紙に書いた気持ち、私も知ってる。希由香の祈りも…」
「わかった」
「浩司がしようと思ってること、希由香のしてほしいことと、同じだといいな…」
ひとり言のようにそうつぶやいて、キノは目を閉じた。
★★★
希由香を乗せた列車は1月14日の午後3時過ぎ、その車体を終着駅に滑り込ませた。
多くはない人の流れの中、希由香は案内地図の前で立ち止まる。
R市。イエルのL市辺り…。希由香と浩司の住む街は、市名は違うけど、私が今住んでるところとほとんど同じ場所だった。これも、必然の一致なのかな…。
見知らぬ土地、見知らぬ通り、知らない空気。けれども、浩司が住んでいた街。ここで希由香は、力の護りに祈りを
何か目的を持って歩いているような希由香だったが、その足取りは、正確な道順を知っているとは言い
どこに行くつもりなんだろう? でも、行きたいところに向かってる。悲しみを感じる。切なさを感じる。胸が、苦しい…。
所々で辺りを見まわす希由香の
そうか…目の前の景色は、いつか浩司が見たものかもしれない、この道も…。今ここに浩司が現れることはないってわかってるから、心は静かだ…。
雪のちらつく
この日の朝、浩司の部屋に立ち寄った時、緊張と恐怖で心臓が破裂するかと思った。あのメールを受けてから、ずっとあの部屋には近づけなかった。浩司の行きそうな店にも。どこに行くのも怖くて、気が狂うほど会いたいのと同じくらい、ばったり会っちゃうのが、すごく怖くて…。
希由香の足が速まった。木々の間を伸びる道の先に、コンクリートの塀が見える。冷たく澄んだ空気に白い息を残しながら、灰色の壁の脇を抜ける。
キノは、目の前に広がる光景を見る。その瞬間、希由香が目的の場所に
ここに…来たかったんだ。いつか、浩司と一緒に見たかったもの…でも、もうそれは叶わない夢だから…ひとりで来た。そして、この思いをもう一度だけここで…確かめたかった…。
長い間寝たきりだった病人が、久しぶりに自分の両足で
希由香は身じろぎもせず、真直ぐ前を見つめている。
水平線に姿を奪われて行く
希由香の見たかった、夕陽を映す海。けれども、そこに欠けているものがある。
吸い込まれるように水面に消えて行くはずの真白い雪片が、今は降っていなかった。そして、冷えきった身体を暖めてくれるはずの浩司は、もう希由香のそばにいなかった。
まだ夜の明けぬ、朝との
非常灯の与える
キノの見る希由香の記憶は常に断片的で、砂浜からここまでの時間も、ぽっかりと抜け落ちていた。
無事だった…。
今どこにいるのかをようやく認識するに至ったキノは、
ちゃんと…街中に戻って来てて、よかった…。
空と海が濃紺になり、波の音と風の声の区別がつかなくなるまで、希由香はあの景色から離れなかった。歯の根が合わなくなり、
そこで途切れたキノの意識が、今ここに繋がれる。
浩司への思いを、あの海に置き去りにしては来れなかった。その代わりに自分の身を
ベッドに腰掛けた希由香は、両手を額にあて、目をつぶっている。
キノは、握った拳の中に何かを持っていることに気づいた。指先の他に、額に触れるものがある。
小さくて…滑らかな手触り…でも、硬い…石?
キノは時計の針を見たかった。握り締めているものが何かを見たかった。もうすぐ、あの時刻になるのではないか。そして、力の護りは、今この手の中にあるのか。
希由香は目を閉じたままだった。
規則正しい鼓動。安らかな心。
キノは希由香とともに、静かな思いの中にいた。浩司への愛しさも悲しみも、胸の苦しみも遠い。身を引き裂かれるほどの切なさも、今は一歩
今までずっと、浩司の幸せを願い、祈ってきた。そして…これからも。ただ、気持ちのけじめをつけたい。今…ここで…。
キノの意識が、希由香の心に呼応する。頭の中から声が聞こえる。
『お願い…どこかにいる、浩司を救える人、救うべき人…あの闇の中から、彼を連れ出してほしい。願いを叶えてほしい。どうか、力をかして…』
そう…前にも一度、私、この声を聞いた。助けたいと思った。一緒に、心から祈りたいと…。
希由香の思いが発した、この
記憶と心の間で希由香の祈りを先導するように、キノの声が重なる。
幸運が、いつもあなたのそばにありますように…。
『…幸運が、いつもあなたのそばにありますように…浩司を闇から救える人が、いつか必ず、現れますように…どうか、お護りください…』
額から離した両手を、希由香が口元に近づける。その手に持つものにそっと口づけ、ゆっくりと目を開ける。
キノは小さな石を見た。
これが、力の護り…。
キノの意識が、引き戻されて行く。
まるで、浩司の…
★★★
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