第5章 悲しみ、涙、そして、願い:愛と悲しみのファクター②

 キノの脳が、何かにとどめの一撃で噛み付かれるような、重いくさびを一気に打ち込まれるような、鋭利な刃物で真っ二つに裂かれるような衝撃を受け、身体のバランスを崩した。

 椅子から落ちそうになるキノを、浩司の腕が支える。


「大丈夫か?」


 開いたキノの目が、浩司を見上げる。


「本当にあのメールを打ったの? 浩司が、希由香に?」


「そうだ。それ以来、あいつからの電話には一切出なかった。メールも全て、読まずに消した」


 キノは初めて、憎しみを込めた視線を浩司にぶつけた。


「希由香を…徹底的に傷つけようと思った。二度と、俺に会いたいとは思わないくらいにな」


 キノは黙ったままだった。


「泣かせるのは、これで最後にしたかった。あいつの人生に、俺は不要なんだ」


「…泣いてなかったよ、まだ」


 ぼんやりとした視線を宙に投げ、キノがつぶやく。


「私、膝をえぐったことがあるの。原付きで転んじゃって。傷跡きずあとが一生残るほどのかなりの怪我。でも、最初は全く痛みを感じなかった。肉のがれた膝を抱えて、呆然と皮膚の中を見てた。白い骨とピンク色の肉。少しして、一気に血があふれ出した。それでも、全然痛くなかった。衝撃が大き過ぎると、痛みをすぐに感じることが出来ないみたい。心も…同じよ」


 浩司の目元が険しくなる。


「希由香が別れを実感するのに、どれだけの時間がかかると思う? しかも、じかに聞いたわけじゃない。手酷てひどく突き放すのなら、どうして直接言わなかったの?」


「…何度も言おうとしたが、結局…言えなかった」


「目の前で泣かれるのは、もううんざりだったから?」


 浩司は何も言わない。


「希由香に逆上されたら困るから?」


「そうじゃない…」


 キノのが鋭く光る。


「会って言うべきだった。去って行くなら、せめて、その後姿うしろすがたを見せてやるべきだった。たとえ、あなた自身が…別れを辛く思ったとしても」


 浩司はキノから目を逸らし、頭を振った。


「本当は手放したくなかった? そばにいて欲しかった? 希由香にひどい言葉を投げつけるたび、あなたも傷ついてたんでしょう?」


「違うとしか言えないのを…知ってて俺に聞くのか」


 浩司の声が、かすかに震える。


「ごめんなさい…」


 キノは自分の放った言葉を後悔した。


「でも、こんなの納得いかない。希由香も、浩司も、何のために悲しむの? 何で苦しまなきゃならないの?」


 深い、海峡に落ちて行くような沈黙が流れる。静かで暗い場所。成す術のないことを、知る者の境地きょうちへと。


「二人の幸せを願っちゃ、いけないの?」


 誰に向けられたものでもないつぶやきが、キノの口から漏れる。


「私に出来ることは…ないの?」


「護りを、見つけてくれ」


 浩司は抱えていた頭を上げる。その声はもう震えておらず、目に涙のあとはない。


「俺と別れた後の希由香が何を思い、どうして俺の住んでいた街に行ったのか、そして、何を祈ったのか。俺自身も、知らなけりゃならないことだ」


「辛いでしょう?」


「…あいつほどじゃない」


 その言葉に、キノの胸が詰まる。


「浩司も、泣きたい時は…泣いていいんだよ」


「俺に泣く資格はないからな」


 キノを見て微笑みを作る浩司は、流すはずの全ての涙で、自らの心を覆うくさりを濡らし凍らすのだろうか。外部から心を守るのではなく、近寄る者の身を守るためにある鉄条網てつじょうもう。自分の思いを封じ込めるための頑丈頑丈おり


 キノはかつてないほどの無力感にさいなまれ、苛立いらだち、打ちのめされる。


「それに、感傷に浸ってる暇はない。ここから先は、更に集中力が要る。俺のいない、希由香だけの記憶だからな」


「あと半年…」


 その間に、希由香は何をあきらめて、何を選んだんだろう。ずっと、彼女の思いを追って来た。どんなふうに、その思いを深めて行ったのか。浩司の存在が、どうやって心を占めていったのか…。感情だけじゃなく何を思ってるのか、今では、だいぶ感じ取れる。考えてることまでは無理だけど…。


「ねえ…どうして、出会った頃のことから思い出させたの? 発動の時の記憶だけならすぐなのに」


 浩司は許しをうような眼差まなざしで、キノを見つめた。


「汐のしたことは、希由香の心を要塞ようさいに閉じ込めた。もし、急にまたあの日の記憶に触れようとすれば、たとえ同じ魂を持つ者であっても、過剰に反応するかもしれない。だから、少しずつ記憶を共有させていった。同じ気持ちがある者なら、敵と認識しないだろうからな。おまえには…すまないと思ってる」


「希由香の心を壊す危険はおかせない?」


「それが、おまえに、あいつの苦しみを辿たどらせることになるとわかっていてもな」


 二人の視線は、絡んだまま動かない。キノが微笑んだ。


「知ってよかったよ」


 希由香の思いも、浩司の悲しみも…。


 浩司が目を閉じる。キノは時計を見た。0時14分。


「まだ、続けられる? あと3日…護りは、私が必ず見つけるから」


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