第158話 マリーベル姫の誘拐①
トントンと、扉が鳴った。
「はーい、どなたですか?」
文机の椅子に座り、ぼんやりと肘をついて考え事をしていたヒメは、室内から尋ねた。
……返事がない。
「ん〜?」
こんなに見張りの多い城だから、不審者の侵入は警戒していないヒメは、自分に用事があって訪れた知り合いだろうと思い、待たせても悪いからと、何の警戒心もなく扉を開けてしまった。
そこには、誰も立っていなかった。
「あれ?」
ヒメは扉の取っ手を離して、軽く辺りを見回した。
(確かに扉が鳴ったと思ったんだけど、空耳だったかな? それか、隣の部屋の扉が叩かれただけかな?)
ヒメの部屋の隣には、ガビィの個室がある。いったい、どの部屋が誰に叩かれたのかと、廊下に出て確認するヒメだが、誰も歩いていなかった。
(誰もいないのに、扉が鳴るなんて。聞き間違いかな?)
小首をかしげながら部屋に戻ろうとしたヒメの目の前に、見知らぬ二人組が立っていた。突然目の前に、現れたのである。
髪も目の色も肌も、濃い紫色をしていて、
(春の民!? こんな所にまで!)
世の中には、人をさらって売買する商人がいる。彼らがそうなのだと、ヒメの直感が告げた。
二人組はヒメの両手首をそれぞれ掴むと、無理矢理引っ張り寄せた。
「うわあ! 何するの! やめて!」
彼らは瑠璃色の大きなマントで、自分とヒメを包みこむ。ヒメが今まで出会った春の民の中で、一番大きな体をしていた。ものすごい力でヒメの頭を胸に押し付けて黙らせると、二人がかりでヒメを横抱きにし、足早に階段を下りていった。
ヒメもヒメで大暴れする。竜の巣で体を鍛えていただけあって、男二人がかりでもヒメを押さえつけるのは大変であった。
マデリンはヒメに会うために、廊下を急いでヒメの部屋の前までやってきた。
そのとき、
「マデリン様」
廊下の天井から、声が降ってきた。竜の巣の民だと気づいたマデリンは、いったい何を言われるのかと、金色の眉毛を寄せて見上げた。
「何かご用?」
「マリーベル姫は、グラム伯爵の手の者により、誘拐されました」
「はい!?」
マデリンは我が耳を疑うあまりに、素頓狂な声が出た。
「誘拐されたって、あなたたちは何のためにそこでマリーベルを見張っていましたの!? やけに落ち着いた声してますけども、国家を揺るがす一大事ではありませんの!!」
マリーベル姫の護衛のために、いつも竜の巣の同胞たちが潜んでいるという、異様な状況下でも、彼らが側にいるほうがマリーベル姫が落ち着くと言うのならばと、マデリンは許していた。
(それなのに……)
ただでさえ城の中に竜の巣の民が増えてしまって、蛇嫌いのマデリンにとっては辛い状況なのに、彼らが護衛の使命も果たせなかったとは、見損なうに値した。
「まさかあなた方は、マリーベルが誘拐されるのを黙って眺めていたんですの!?」
「理由あってのことです。三男の王子、ファング様から貴女に伝言です。『あいつらはヒメさんに怪我はさせないよ。この先に、つまりヒメさんが誘拐された先に、きみのお父さんがいるだろうから、わざと泳がせたんだ』。伝言は以上です。ファング様はヒメ様の匂いを追えます。ただ今、追跡中です」
ファングそっくりの声真似をして伝言する部下に、マデリンは鼻じらんだ。
「ファング王子は、こうなることがわかっておりましたの?」
「はい。ファング様がこの城に入る前から、我々部下が、ずっと城の人事の情報を流しておりましたから」
個人情報漏洩もあったものではないと思った。今更ながら、マデリンは竜の巣の民に、国の警備の全面を任せるのが怖くなる。彼らに裏切られたら、こんな弱小国などあっという間に占拠されてしまうだろうから。
ファングの部下が、天井板をパカリと外して、マデリンを見下ろした。
「エメロ王とマリア王妃によく似た、年頃のマリーベル姫を、誘拐してでも手に入れたい輩は、それなりにいます。我々はこのような非常事態に備えて、姫の周囲をずっと張っていました。天井裏に潜んだり、城中を監視したり」
グラム伯爵のことも、とは、マデリンを気遣って付け足さなかった。ファングとその部下は以前からずっと、グラム伯爵がリアン王子とヒメに危害を加えるのではないかと、十年以上も警戒してきた。
明確な日付けを提示するならば、王子が命を狙われた、あの日から、ずっと。
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