第16章 竜人と人類を分ける者たち

第151話   ネイルの覚悟

 城の中庭は、しばしば誰かの練習場に使われる。


 ネイルの持つきんの錫杖が鳴り、竜の爪が付いた先端で、軽く円陣を描き、澄んだ空を見上げた。


 ネイルの黒髪が、春の風になびく。風が前髪を横に散らし、包帯と鱗に覆われた彼のひたいが見えていた。


 漆黒の召喚服の、随所から見える四肢には、黒く艶やかな鱗が、朝日を受けて輝いていた。空は青く澄み渡り、よく見ると小さな卵が飛行しているが、霞んで見えるほど距離があった。


 陽の光を浴びて輝く彼は、闇の化身にも見える後ろ姿という、矛盾した神々しさをまとって、城の窓から眺める彼らの視線を釘付けにしていた。


 日頃、異国の民に並々ならぬ嫌悪感を抱く国民も、今だけはその神秘的な姿を眺め、思わず息を飲んでいた。


 あれが竜の巣のおさ、ネイル。竜の巣の第一王子にして、人と竜とに伴う者。たなびく黒衣に、流れる黒髪。闇と黒衣をまとい、この世界を陰ながら脅かす存在――噂では、滅多に外出をしないという。


 彼と同じ空間に居るこの一時が、大変貴重なものであると、自覚する者たちから畏怖の念が集ってゆく。


 あれがネイル。竜の巣の、次期王なのであると。




 後ろで感動されているとは露知らず、ネイルは、どうしても上手くいかない召喚術に、空を見上げてため息をついていた。


「休憩しましょう、ネイル」


 中庭の隅に控えていたミリアが、提案する。息子を捜して、城中を歩き回る作業は、切り上げたようだった。


 ネイルは妻に振り向き、そばに息子がいないのを見て苦笑した。たぶんミリアは、不機嫌だ。


「仕方ない。時間もないことだし、このままで行くか」


 ネイルは周りを眺めた。丸っこく、白い鉱石でできたトカゲらしきものが、走り回っている。


「それに俺の呼んだトカゲたちの役割は、戦うことではないからな」


 妻のいる木陰へと、休憩に入るネイル。ミリアは綺麗だったドレス姿ではなく、黒装束に身を包んでいる。絵が完成するなり、ずっとこの衣服を厳守していた。


 木陰でミリアと並んで座り、受け取った水筒を直飲みして、あっという間にカラにした。ミリアが蓋を開けた弁当箱には、蒸した饅頭や、煎った豆類が収まっている。


 口の端を手でぬぐっている間に、聞こえてきたのは竜のいななき。ネイルは顔を上げ、隣国の方角へと、青い目を細くした。


(……竜を近くに感じる。俺たち三兄弟は、あの竜に呼ばれている)


 だが、もう一度あの竜の中に戻ろうとは、思わない。


(すまないな、竜。俺は誰も恨んではいないんだ)


 竜の巣の王が、珍しく出かけていったあの日、ネイルは好機だと思った。竜の巣そのものを人質にとられていたネイルにとって、父親が単身で広い空へ飛び立ってくれたのは、同胞たちが父の火炎放射の範囲から、逃げれる機会を得られたということだ。二度とない好機だと思った。


 今やネイルは、竜の一部ではなく、はっきりと個性を持った一個人。父王を二度とこの竜の巣の中に戻してはいけないと考えていた。


(俺は今、親父を足止めするために、ここにいる。それでも食い止めきれない場合は、巣に残した同胞と合流し、軍を編成してでも迎え討つ所存だ)




 竜の巣の皆は、ネイルが不調だと思っている。皆、ネイルが操れるモノは、この小さきトカゲしかいないと思っている。


 誰もネイルの向ける視線の先に、遥か上空を旋回する大きな卵があることを知らない。


 卵は人の目に入らないように、遠く遠くに、浮かせている。人の目につくと、大騒ぎとなってしまうから。


 竜の産んだ卵が、このエメロに到着するのは、ヒメの誕生日きっかりであり、それ以前に目撃されてしまっては、異質なモノとして大騒ぎになってしまう。だからネイルは高く高く、浮上させていたのだった。


 そんな彼方かなたの上空から落ちてきた、小さなトカゲたち。ズドーンッという轟音とともに地面に多少のクレーターをあけると、何事もなかったように平気でそのまま歩き回る。


 そしてそのまま、どこぞへと去ってゆくのである。どこへ去って行くのかは、ネイルにもよくわからない。ネイルの部下が追跡したところ、トカゲたちは街の隅っこに隠れてしまったり、身を固くして丸まって、白い大きな石に化けてしまったり、色艶も変化させて、景色に溶け込んでじっとしているという。


「俺の召喚したトカゲだから、悪さはしないさ。エメロ国が襲撃を受けた際に、囮にでも活躍してくれるといいな」


 ネイルはトカゲたちを放置した。


 街中にひそむトカゲに気づいたのは、目線の低い小さな子供たちであり、お母さんトカゲだよーと言う声に驚いて、別の場所にささっと移動したりと、なかなかに見つからない。


 こうして静かに、エメロ国内部にどんどんトカゲが紛れ込んでゆくのだった。なぜネイルがそんなことをしているのか、誰にもわからない。ネイルは不調であり、召喚の術がうまくいかないと言う印象が強いからだった。


「一体ぐらいは、親父が召喚するみたいな背の高いトカゲを、呼んでみたいものだな」




 今朝からずっと召喚を続けている夫を、妻ミリアは心配していた。


「あの、あなたのトカゲは小さくても、私は大丈夫だと思いますが」


「ハハハ、俺が大きな召喚獣を作り上げるには、あと百五十年ぐらいかかるかもしれないな」


「それぐらいかかるのですか」


「最短で五十年だな。どのみち明日までには、間に合わない」


 明日と迫った、襲撃の日。ミリアは夫にしかわからない何かがあるのだと、察していた。襲撃の日……もうじきこのエメロ国に、卵の襲撃が来る。


 それは、ともすればおかしな事でもあった。白銀の子竜はエメロ国をとても大事に思っており、卵を落としても、五つ産んだうちの、せいぜい一個。


 二十個などという壊滅的な数を産み、その全てをエメロへ送り付けるなど、非常事態にも程があった。


 このエメロ国は、白銀の子竜にとって、とても意味のある場所であった。竜の巣の民は、エメロ国に対し、攻撃はしてもトドメは刺さない、脅しはしても殺しはしない、そのような間柄を保ってきた。それはまさに、白銀の子竜の愛憎そのもの。この国の、土の下に眠る、理解できなかった伴侶への気持ちそのままなのだとミリアは思っている。


 それがついに、二十個ほどの卵をここに落とすつもりだと言う。


(それはつまり、白銀の子竜が抱いていた金色の竜への未練が、絶たれたことの証。エメロ国と伴侶の墓標を破壊し、子竜が憎悪にまみれた心のままに歩き出す――その怒りを、その悲しみを、周りに示すために)


 夫ネイルも、それに気づいている。


「スノウベイデルにいる子竜が、親父の感情に呼応している。親父は、それを利用するつもりなんだろうな」


「どんなに長引く戦いとなっても、わたくしは、貴方についていきます」


 彼が王の約束を破り、巣から出て行くことを決意したときは、とても驚いたが、それでも彼がその道を選んだのなら、自分もついていきたいと思った。


 巣に残っている同胞たちも、以前から暴君に苦しめられ、一刻も早くネイルに王位を継いでほしいと切に願っている。


 今や皆の心は一つ。支持はネイルに大きく傾いている。


(今や竜の巣は、我が夫ネイルが乗っ取りました。王様がお戻りになったとしても、彼はそれを迎え撃つでしょう。二度と竜の巣の中に入れはしません。その覚悟を決めたとき、彼は笑顔になりました。今までにない笑顔に。これで良いのでしょう。しかし、彼は愛情深い性格をしています……実の父親に、そのような仕打ちをすることを内心では嘆いているはず。わたくしが、お支えしなくては)


 分厚い鱗の下で、ネイルがたくさん傷付いてきたことをミリアたち妻は知っている。そしてこれからも、傷は増えてしまうのだろうことも……。


 ミリアはもう一本持っていた水筒も、ネイルに渡した。ネイルは大きな饅頭を二つに割って、ミリアと半分こする。


 束の間の休憩中に、一体のトカゲが、ひょこひょこと近付いてきた。ネイルが召喚した小さいトカゲだが、頭に、白い花が乗っている。髪飾りではないようだ。


「やあネイル! きみが、こんなことをするとは思わなかった。まさか王様に逆らって、竜の巣から出るとはね」


 花から、明るい声が。

 お茶を飲んでいたネイルが、口角を上げる。


「グラジオラス殿、お元気そうで何よりだ」


「王様、すごく怒るんじゃない? きみのせいで、みーんな消し炭の刑だ! アハハ」


「そうはならないさ。こっちも迎え討つ準備はできている」


「どういう心情の変化なの? きみ、お父さんのことが好きなんじゃなかったの?」


 ミリアが緊張に身を固くする。家族思いなネイルの気性を、この花の向こうの何者かは知っているようだ。


 ネイルは少しの間、目を伏せていたが、深く目を瞑り、また穏やかな表情で青い眼差しを花に向けた。


「親父との均衡を図ることが、竜の巣のためだと努めていたが、もう辞めにした。俺もガビィと共に、戦うことにする」


「戦う? 今更、なんのためにさ。僕にとってはこんな世界なんて、もう滅んじゃってもいいんだけどね。きみもそうだと思ってたけど、違うの?」


「親父は、そういう考えだな。だが俺は、子供たちごと世界が滅ぶのを、望んじゃいないんだ」


 ネイルは片膝を立てて、花に手を伸ばした。花はトカゲの頭に乗っていただけで、簡単に取れた。


「グラジオラス殿には、子供はいないのか?」


「……いたよ。一人ね。その子は大きくなって、きみの奥さんの曽祖父になった」


 花はそれきり、語ることはなかった。


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