第150話   僕は悲しい子だから

「卵が来る」


 窓から見える空が茜色になって少し、寝台で眠っていたはずのシグマが、目を開けるなり、そう呟いた。常に身につけていた重装備は外し、絹の寝巻きにナイトキャップを頭に乗せている。


 このところ、ナターシャからもらった睡眠薬がよく効いているのか、彼は前例にないほどぐっすり眠っており、今日は珍しく夕方まで眠ってしまっていた。


 誰も彼を剣の稽古に起こすこともせず、また彼の父が今どうなっているのかも教えていなかった。おかげでシグマは、素敵な夢の中でたっぷりと睡眠をとることができていた。


 竜の神経が昂る頃に、シグマも呼応し、戦士として昂ってしまう。目を覚ましたばかりのシグマは、天井をぼんやりと眺めていたが、やがてはっきりとした顔で、傍らの椅子に座るナターシャを見つめた。


「卵が来るよ、ナターシャ」


 また神経が過敏になってきたのかと、ナターシャは心配するが、顔には出さず、安心させるように微笑んだ。


「ええ、来ていますね。しかし専門家の計算によると、この国に到着するのはもっと先になるようですよ」


「それは、ちがうよ。すぐに来ている。卵はものすごい距離を、ものすごい速度でびゅんびゅん飛んでる。たぶん、きっと、今までよりも一番数が多いかもしれない」


「数ですか?」


 ナターシャは今までシグマの睡眠のことで頭がいっぱいだったから、しばらく卵の気配に意識を向けていなかった。


 隣国の竜と意識をつなげると、卵を産んだ後のような気配と、空を渡る卵たちを見送っている映像が流れてきた。


 シグマの言っていることは正しかった。とても早い速度で卵が小さくなっていくのが見える。その数、二十個くらいだろうか。いつもは五個でも多い程度である。


 シグマは寝台の布団の上で、両手を組んで、ナターシャを見上げている。


「きっと僕らが思っているよりも、ずっと早く戦いの日が訪れてしまうと思うんだ。僕は、まだまだ戦わなければならないのだろうか。お母様は、いつになったら、もういいよって言ってくれるのかな」


 シグマは怯える子犬のような顔をして、自分の両手を眺める。


 その布団の上には、占いペットなる子猫が丸まって、寝ていた。


 ネイルの息子も、そのとなりで寝ている。


 精神年齢が小さな子供のように低いシグマにとって、初めてできたお友達であった。剣以外でコミュニケーションが取れることを、彼は初めて知った。今ではお昼寝するときも一緒である。


 ネイルの息子は物怖じすることがなく、いつも甲冑をまとうシグマに興味津々で、いろいろ質問しながらついてきた。


 初めは怯えていたシグマも、無邪気な質問攻めで会話を進める竜の巣の子供に、しだいに心を開いていった。


 ついでにネイルの息子の腕の中の猫も、シグマに懐き始めていた。鳥は怯え、犬は吠え、子供には号泣され、それがシグマにとっての当たり前だったのだが、ネイルの息子と生まれたばかりの仔猫は、ただただ遊びたい盛りなのか、それともシグマに敵意がないことを見抜いていたのか、警戒心が無かった。


「これが最後の戦いになりそうだ。僕はお父様に、自慢の息子だって褒めてもらえるかなぁ。お母様は、よくがんばったね、もういいよって言ってくれるかなぁ」


 ナターシャはゆっくりと、うなずいた。


「ええ、きっと。ご両親は貴方のことを、とても誇りに思いますわ」


 シグマの母は、彼が十歳のときに亡くなっている。もともとひどく体が弱く、子供が産める体調ではなかったそうだ。


「僕、起きるよ」


「では、着替えましょうか。お手伝いしますわ」



 彼を叱る父もおらず、今日一日何もしていない彼を責め立てる者もおらず。


 今日のシグマは、まるで子供に戻ったかのように無邪気に、そして物静かに過ごしていた。


 部屋で仔猫を膝に乗せてクッションに座り、ネイルの息子から、いろいろな絵本の読み聞かせをしてもらっている。シグマは文字の読み書きができず、ネイルの息子が一緒に読みながら教えていた。


「その絵本は、そんな内容だったんだね。みんな、読むのが早くて、僕ちっともわからなかったんだ」


「もっかいよむー?」


「うん、もう一度、お願いするよ」


 一生懸命に、絵本の内容を覚えようとするシグマに、傍らでお茶とお菓子の用意をしていたナターシャは、切ないほど喜びに満ちていた。


 日々、性格や口調が変わってしまうシグマに、初めて会った頃は、ナターシャも戸惑った。ナターシャなりに、彼を分析してみたところ、どうやら彼の中には、いろいろな性格をしたたくさんの少年が住んでいるようで、そのどれもが主人格の彼を大切に思い、守っているようだった。


 だが、どの子も成熟はしておらず、そして彼と似たり寄ったりな部分が多かった。


 この事実に気づいたのはナターシャ一人だけ。ナターシャの中にも、粉々になった竜の複数の人格と、『ナターシャ』の人格が住んでいる。今のナターシャは、数多の人格が擦れあって偶然に芽生えた、一つの人格。そのせいか、今までナターシャはこれが自分であると自信を持って言えるモノが、無かった。


 どの人格とも違う、自分だけのモノが無かった。必ず、自分と似ている個性の人格が、自分の中に、住んでいる。それがナターシャには嫌でたまらなかった。


 でも、シグマに出逢ってから、その嫌悪感から解放された。竜も『ナターシャ』も、シグマに好意を抱くような性格ではなかったからだ。


(この感情は、わたくしだけのモノ。わたくしが一人の個として、主導権を握って人生を歩んでいる証)


 ナターシャはナターシャとして、己を保って生活できるようになった。が、シグマは日によって現れる子供の種類が違うらしい。時に無邪気に戦闘を楽しみ、時に父の言うことに怯え、時に争い事を好まず閉じこもってしまい、神経が高ぶると眠れなくなってしまう子もいた。


 どの人格も神経質で繊細な部分があり、そして少年であった。


 騎士団長として大勢の大人を束ね、この国を守ってゆくなんて、とてもできない。


(彼から芽生えたたくさんの子供たちを、無理に消す必要はないでしょう。皆、シグマ様をお守りしようと懸命なのですから)



 突如、空気が震えた。


 竜のいななきが、ここまで聞こえてきたのだ。


 最近までおとなしく、鳴くこともなかったため、ナターシャもネイルの息子も、仔猫まで、隣国スノウベイデルの方角に振り向いていた。


 おそらくは、エメロ国民のほとんどが、驚いているであろう、今まで聞いた中で、ことさら大きな声であった。


「竜がまた、元気になってきたよ」


 シグマが、白銀竜に喰われた姫の、竜が姫を食べる絵を、片手でなぞった。


「まだまだ、産まれるんだって。卵、どんどん産めちゃうんだって」


「ねえシグマ、竜のことわかるのー?」


「うん……わかるよ。友達だから」


 シグマが、翡翠色の目を伏せていた。


「僕は、友達と戦ってばかりいる、悲しい子だから。だから、わかるんだよ、喜んでるのが。喜んでる友達は、僕がやっつけなきゃダメなんだよ」


「シグマ、ほんとはみんなと、ともだちになりたいのー?」


「うん、でも……誰も悲しい子とは、遊んでくれないんだ。悲しい子は、喜んでる子をやっつけちゃうからね」


 そばで聞いているナターシャにも、たまにシグマの言っていることの意味がわからないときがある。シグマは別の者を代弁しているときもあり、悲しい子、喜んでいる子の意味は、自分のことではない場合もあった。


 ふと、彼の真意を解読している場合ではないとナターシャは気付く。


(大変です。卵の速めの到着と、竜が速い卵を大量に産んでしまうことを、エメロ王とフローリアン王子に、お伝えしなければなりません)


 このままでは、ヒメの誕生日と重なってしまうかもしれない。エメロ国は今、ヒメの誕生日のみを励みに回っていると言っても過言でないくらい楽しみに支度したくしている。早めに伝令を行わないと、避難が間に合わなくなってしまう。


(ヒメ様の誕生日は明後日です。中止が間に合うでしょうか。この日のために各地から城下町へ大勢が移動されて、人口密度はずいぶんと高くなっていますわ)


 いつもなら、卵がエメロ国まで流れてくるのは、まだ先だった。


「シグマ様、王子、それから占いペット様も、お部屋で良い子にしていてくださいね。わたくし、ちょっと出かけてきますわ」


 はーい、という二人分の返事と、シグマのシャツの中に隠れてしまっている仔猫が一鳴き。


 ナターシャは王子の執務室へと、急いだのだった。


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