第142話   消えたグラム伯爵

 朝の鍛錬を終えて、鎧兜を小脇に更衣室への扉を開ける。窓を開けていても、一汗も二汗も掻いた男たちが集まってしまうと、どうしても異臭が鼻をつく。


「父上」


 更衣室のすみから、珍しく素顔をさらしている息子が歩いてきた。鎧は着たままなので、歩くたびにガッシャンガッシャン鳴る。


「どうした、シグマ。いつにも増してもじもじしよって。しゃんとしろ」


「父上……なんだか、すごくイヤな予感が、するんです」


 雨に濡れた仔犬を連想させる髪の毛と、大きな体に似合わない、そわそわと落ち着きのない視線の動き。グラム伯爵は息子の背中を、バシバシと叩いて元気付けた。


「またその話か。お前は竜の産卵期がわかるからな、大方、卵がこちらに接近してくる気配に、気を揉んでいるのだろう」


「そう、なんですか……? 僕は、卵が心配? ですが、僕は父上のほうに、何かあるような気がして――」


 息子はときどき、驚くほど勘の鋭いときがある。だが、それは竜の産卵時期を察すると神経がたかぶって眠れないときには、発揮されない特技のはずだった。


 今日の息子は、訓練時には活き活きとし、あの忌々しいガブリエルに付き従って、安全に稽古けいこを済ませていた。目も血走ってはおらず、むしろ今が一番健康的に見える。


 あのナターシャとかいう侍女が持ってきた睡眠薬が、高い効果を発揮しているのだと察した。


「シグマよ、王族を護る騎士たる者、何かあるかもという憶測に怯えすくんでいてはならん! シャキッとせんか」


「は、はい……」


「いつまでも私が励ましてやれると思うなよ。お前は皆を護り抜き、その勇姿をもってして皆を励ます英雄なのだからな! 支える側であることを自覚するのだ」


「は、はいぃ……」


 気乗りのない返事をして、大きな肩をすくめ、とぼとぼと己のロッカーへ戻ってゆくシグマ。


 未だ頼りないその背中に、大勢の期待がのしかかっている事を、また、少数の理解者がその背を支えてくれている事実にも、グラム伯爵は気付いていた。


(私ももう歳だ。墓場まで持っていかなきゃならない秘密なんぞ山ほどあるさ)


 どんなに劣勢を強いられようとも、護ると決めた者たちは護る。引退だの隠居だのとは、誰が言うたか。グラム伯爵は、ただ去ってゆくだけの余裕のある身の上ではなかった。


(立つ鳥跡を濁さず、だ。去り際は潔く、そして後世に希望を残して消えてゆこう)


 彼にとっての、最後の戦いが待っていた。



 今朝の鍛錬のときは、たしかに城にいたというのに、どこにもグラム伯爵の姿がない。じつは昨日も一日姿が見えず、その行方ゆくえは誰にもわからなかった。


『なに? 王子が呼んでいると? 今の私は汗臭いゆえ、この鍛錬が終わり、着替えが終わり次第、急いで向かうと伝えてくれ」


 そうジョージに伝えた伯爵は、いつも通りに鍛錬場で過ごしていた。


 そして、忽然と消えてしまったのである。


 リアンはガビィとその部下に頼んで、方々ほうぼうを捜索しているが、未だ発見に至っていない。


「これだけ捜しても見つからないだなんて……いったい、どこにいるんでしょう」


 執務室で書類仕事に追われながらの、報告待ち。リアンは伯爵が良からぬ事を企んでいる予感がして、なかなか作業に集中できないでいた。


 執務室の壁際には、春の民グラスが目をつむって立っていた。グラム伯爵に雇われた彼は、主従契約の打ち切りを伯爵に伝えるために城に参上していた。


「王子、これは私の憶測であるが、たぶん、当たっていると思うぞ」


「どんなことでしょうか」


「グラム伯爵を隠してやっているのは、私の群れとは違う春の民かもしれぬ」


「別の春の民も、エメロ国に侵入していると」


「憶測だがな」


 グラスは虹色の両目を開くと、自身の緑色の長い髪の毛を、くるくると指先に巻きつけて、いじりだした。


「王子と私の髪の色は違うだろう。肌の色もな」


「ええ、そうですね。特に気にしていませんが」


「他にも、青いのや紫もいるぞ。ピンクもいる。我々春の民はな、容姿を含めていろいろと進化しやすいんだ。何かの特技に、やたらと特化した集団もいる」


 それは、なんとなくリアンも察していた。グラスたちに初めて会ったときから、そして竜の巣の民だと言われても小首を傾げるほど似ていないガブリエルに会ってから、竜人にも突然変異というものがあるのだと理解していた。


「シグマという狂戦士がいるよな。あいつは、どういうわけだか我々の匂いを嗅ぎつけて、居場所を見つける。そのシグマの鼻でさえも、敵わぬほど隠密に特化した春の民が、伯爵に雇われていたのかもしれぬ。さしずめ私との契約は、ただの目眩めくらまし、私たちはただの囮だったのだろう」


 憶測だがな、と付け足した。


「王子よ、エメロ人と春の民を親にもつお前は、進化の最先端を走っているのだ。お前は我々の常識を破った。春の民は春の民としか子供ができぬという既成概念を、根底から破壊した、大変興味深い、特別な存在なのだ。そんなお前を一目見ようと、世界中から春の民がやってくる。今までも、そしてこれからもな」


「今までも?」


「そうだ。気づいておらんだろうが、いくら変装しようが我々と王子からは匂いがする。そして組織的に隠蔽している極秘情報というのは、いつか漏れてしまうもの。王子が春の民との子供であり、さらには一国の政権を牛耳している事実は、束縛を嫌う自由の民である我々を大いに驚愕させた。グラム伯爵と契約したのも、半分は祖の墓の建設のためだが、もう半分は王子との対談目当てだった。いったい、どんな青年に育ったのかを、会って知りたかったのだ」


 きちんと謁見の予約を取って、王子に会いに来たという春の民グラスと、その一家。そんな相手をリアンは初対面で突き返し、さらには文鎮ぶんちんを投げて命中させてしまった。反感を抱かれていたのも、不思議な話ではなかった。


 今では誤解も無事に解けて、こうして部屋にも招いている。彼らの旅の話は、危なっかしくも気ままで自由で、あらゆることが原始的だった。


「王子、グラム伯爵を見つけるためには、賭けをする必要があるぞ」


「賭け事は、勝てる見込みが大きくないと、やらない主義でして」


「やるかどうかは、王子に任せよう。今度の春の民も、きっと狙いは王子との謁見だ。この際だから、お前から外に出て、声をかけてやればいい。そして隠しているグラム伯爵の身柄を差し出すことを条件に、お前は春の民と対話することを提示するのだ」


 取り引きは、春の民が好むやり方だった。一回一回の取り引きで、国まで傾かすことも平気でやる民だけあって、計画と決断が早い。


 だが、それは身軽な身の上の彼らだからできること。仕事が山積みのリアンだと、散歩すら制限時間を決めないと安心して行けない。


「……姉上の誕生日まで、あと三日です。大きな問題に発展することは、避けたいところですが」


「発展しないかもしれないだろう? 決められないなら、コイントスに任せてみるか?」


 グラスがどこからともなく金貨を取り出して、親指に載せた。しかし、やたらと分厚ぶあついそれが裏同士をくっつけた二枚重ねであることに気付いたリアンは、自分で決めることにした。


「わかりました、やりましょう。久しぶりに、外にも出たいですからね」


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