第137話 ネイル王子と変装屋ナディア
変装屋の店主ナディアがエメロ城を訪れたのは、早朝のこと。同行した従業員が、リアン王子に変装を
ナディアは執事ジョージに、ネイルからの手紙を見せて、ちょうど良い時間になるまで、エメロ城の第二応接間で待たせてもらうことにした。
第二というだけあって、少し狭い。しかし調度品の輝きは眩しく、丁寧に磨かれ、大事にされているのが伝わった。
深緑色の
(たくさん聞きたい事があるから、早起きして来たけれど、いったいどれぐらい待たされるかしらね)
折れて痛いふりをするのも面倒になって、利き腕を吊っていた大きなハンカチを、取っ払う。
だが、ネイルが人を待たせることはなかった。ノックもせずに、すんなりと部屋に入ってきたネイルに、ナディアが無言で驚いた。
「おはよう、ナディア。早いんだな」
二メートル越えの高身長に、黒髪を裂いて生える
「貴方がネイル王子ね。初めまして、アタシは変装屋のナディアよ。いつも弟くんたちから贔屓にされてるわ」
「ふふ、弟たちと対等に遊んでくれる女性は、貴女だけだからな、悪友感覚で絡んでくるんだろ。面倒だろうが、これからも頼む」
ネイル王子も、斜め向かいのソファに腰を下ろした。体重が重いのか、メキメキと音を立ててソファにめりこんでしまっている。
「これでも、空を旋回してダイエットしたんだが」
「……五百キロくらいありそうね」
「効き腕のことは申し訳なかった。ジェニーは普段、竜の巣の民と鍛練を積んでいるゆえに、人間相手の手加減が難しかったんだろう。反省しているから、許してやってくれ」
ネイルはナディアの、三角巾が取れた腕を眺めていた。
部屋の扉がノックされ、二人分の茶器が載ったおぼんを持った、ジョージが入ってきた。ソファの前のテーブルに、丁寧に置いてお茶を淹れてゆく。
「なんだか、すごい光景ね。あのエメロ城に、変装もせず竜の巣の王子が二人もいるだなんて」
「俺の
「そうね。ちょっと難しいかしら」
ジョージが一礼して、おぼんを脇に、静かに部屋を出ていった。
ナディアはそれを、流し目で見送る。
「ネイル王子、アタシの緊張をほぐそうとしてくれて、ありがとう。お気遣い痛み入るわ」
「そんなつもりは、なかったんだが」
「いいえ、嬉しかった。一人で来てくれたこともね」
竜の巣の民が大勢、護衛に付き添っている場合も想定していたナディアだった。とても嫌な思いをしただろう、それでも、竜の巣の王子ネイルと直接会って話ができる機会を、逃すわけにはいかなかったが。
「本題に、入らせてもらうわね。貴方は――」
ナディアは、一瞬迷った。すでに亡くなっている妹のことについてか、それとも、生きているヒメの今後を尋ねるか。
「……貴方は、お姫様をどうするつもりなの?」
「どうもしないが。エメロ国に居場所がないのなら、うちで預かろうとは考えている」
ネイルはお茶の入ったカップを手にして、その大きな口に似合わず静かに飲んでいる。
ナディアもお茶に手を伸ばした。
「……気分を害してしまったら、申し訳ないのだけど、あるスジから、貴方たちがお姫様を利用して、スノウベイデル国の竜を操ろうとしていると聞いたの。そのためにお姫様の名前を、エメローディアにしたんだって、聞いてるわ」
「ヒメを心配しているんだな」
「そういう、ことになるわね……」
ナディアはネイルの、ほとんど人外に近い横顔を眺めた。ガビィが言っていたとおり、彼が妹と竜の記憶を両方とも保持しているのならば、彼の言葉の全てに、意味があるように感じる。
「世界中の悪党が、それと同じことを試しているぞ。エメローディアそっくりの女性を捕らえては、竜に食べさせているんだ。なんの結果も出ていないがな」
「貴方たちも、同じことをしようとは思わないの?」
「俺たち三兄弟は、ヒメのことを妹のように思っているんだ。だが、ヒメを誘拐して洗脳し、名前をエメローディアに付け替えた親父は、どう思っているのかわからない」
「竜の巣の王が、考えたことだったの」
「親父は気分や思いつきで行動するからな、いったいなんのためにヒメをエメローディアの代わりにしているかは、誰にもわからないんだ」
ナディアは、視線を泳がせながら少し思案した。聞きたいことが山ほどあって、本当は一気に質問責めにしたい気持ちを抑えて、冷静さを保つ。
「竜の巣の王は、あの子のこと竜に食べさせるつもりだと思う? 貴方の意見が聞きたいわ」
「俺は……ヒメの選ぶ未来と、その
「試練?」
「おそらく、ヒメの今後の選択次第で、世界は終わりを迎えるんだろう」
急に大規模な話に飛んでいったように感じるが、隣国スノウベイデルから発生する白い鉱石の広がりや、ときたま空に浮かぶ大きな卵など、世界を揺るがす大厄災は、じつは竜のさじ加減で、いつでも起こせることをナディアも知っていた。そのことに気づいている専門家もいるが、どうすることもできず口を閉ざしているのが現状だった。
「アタシはこんな世界、滅んだって、悲しくもないわ。アタシの心は、何かに執着することを忘れてしまったの。なにも愛おしいと感じない」
「では、どうして俺に会いに来たんだ」
「……自分でも、わからないわ」
「妹のことが、聞きたかったんだろう」
ナディアは素直にうなずけない。妹を失って三百年も経つのに、いつまでも、妹に何があったのか知りたい自分に、苦しみ抜いてきた。あの日、妹を竜のもとへ送り出した、自分自身にも――。
「床に座りましょう。ソファのメキメキいう音のせいで、集中できないわ」
「それもそうだな」
はたしてネイルは、妹ナターシャの記憶を本当に保持していたのだった。生まれつき目の色が緑色の彼女は、それ故に珍しがられていた。彼女はそれを、愛されていると勘違いし、自分を求めるお客に対して悪い気はしていなかった。
その結果、あの掃き溜めのようなスラム街で、彼女だけは優しい心を保ち続けていられた。
だが、その愛情を錯覚だと教えた貴族がいた。それがナルサスギア――ナディアだったのである。
若く、珍しい容姿をしているから大事にされているだけで、彼らお客は他にも大勢の少女たちを囲い、自分の望み通りにならなくなった少女から殺してしまうのだと――大変な危険を伴う仕事を、恐ろしい境遇でこなしている事実を、真っ向からナターシャに突きつけたのだった。
その件で、ナターシャと喧嘩になったことも、ネイルは知っていた。ナターシャにとっては、大勢に愛されて、食べ物やお金がもらえるなんて夢のようだし、この職業以外に生きるすべを知らない。なによりこの仕事が好きだった。お客に愛されること以外に、愛を知らない子供だった。
「だが、ある日ナターシャが客と代金のことで揉め、殺されかかった。そこへ駆けつけて、助けたのが、ナディアだったな」
「……本当に、なんでも知ってるのね」
離れて床に座るのもアレだから、ナディアはネイルの近くに座っていた。
ネイルは大きなスリットの入った黒い服を着ているにも関わらず、大きな
「俺はいろんな他人の記憶を持ってはいるが、その人物本人ではないから、感性や意見にズレはあるぞ。それでも、何か聴きたくてここへ来たんだろ。何が聴きたい」
「ありきたりな質問で申し訳ないんだけど……あの子は、アタシを恨んでた? ほら、あの子、民衆に殺されたじゃない。そのときアタシは、そばにいなかったから。いつでも助け合ってきたのに、アタシは、別の場所にいたの」
ついに聞いてしまった、と手に握っているお茶のカップを、ナディアは見下ろす。
ネイルの青い宝玉のような双眸が、宙を眺めながら、ゆっくりと細まる。まるで何かを、思い出しているかのように。
「恨んではいなかった」
「……そう」
「彼女の体がばらばらにされたのは、死後だ。生きたまま切り刻まれたわけじゃない」
ナディアの胸に深く突き刺さっていた怒りの
「それじゃどうして、あの子は亡くなったの。殺されたんでしょ、誰かに」
「……俺には、不運な事故だったように思う。ナターシャは、自分が竜の世話役になれば、スラムの全員を助けられると信じていたが、ある日、彼らに施しがしっかりと行き渡っているか気になり、書庫の書類を漁ったんだ。そしたら、初めの数日をのぞいて、全く記録がされてなかった。どういうことかと、ナターシャは役人にしつこく問い詰め、鬱陶しがった役人が、階段から突き落としたんだ」
「……竜に無礼を働いて殺された、というのは、役人のついた嘘だったのね。そうだと思ったわ。あの子が竜に
「俺が知っているのは、ここまでだ。ナターシャは首か背骨を折って即死したんだろう。怯えて助けを待っていたわけじゃない、ナターシャは最期まで、闘い続けていたんだ。あんたたちのためにな」
非常にあの子らしい最期だった、そんな話が彼から聞けて、ナディアは深いため息をついた。
全てがネイルの嘘話かもしれない。彼は竜の巣の民、悪党の一人。信じるか否かは、ナディア次第だ。
そしてナディアは、信じてみても、良いと思えた。ある一つの事柄を除いて……。お茶を飲む手が進まなくなって、床に置いた。
「でも、嘘よ……あの子は、アタシのこと恨んでるはず……だって役人にあの子を売ったのは、アタシなんですもの」
「ナターシャが自分から志願したんだ。記憶を書き換えるもんじゃない」
「アタシのために行ったのよ……アタシが、止めていれば、こんなことには」
だんだん、はっきりしてくる。永らく見ないふりをしてきた、自分の本心。永らく抱えこんできた、自分のしたかったこと。
「貴方の中に妹がいるなら、会って謝りたかった」
「これはただの記憶だ。俺に謝られても困るな」
「それでも、アタシにとっては、貴方は妹の代弁者だわ」
堪えきれず、溢れた涙を片手で
いつか見かけた子供のように、感情の溢れるまま泣きじゃくった。
「ナターシャ……! ナターシャ、ごめんなさい……どうか戻ってきて……もう一度会いたいわ……」
涙で滲む視界の向こうに座るのは、黒装束のバケモノ。目の色をのぞいて、全てが純白だった妹は、もういなかった。
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