第136話 リアン王子と春の民グラス
ヒメがお
エメロ城の緑色の屋根に、柔らかな日差しが降り注いでいた。
「ふいー、どっこらしょっと」
ほぼ垂直の煙突から、可憐な美少女メイドが這い上がって、屋根に座って休憩するなんて、誰が予想したであろうか。
小さな耳に挟めたペンを手に取り、エプロンポケットに押し込んでいたノートを取り出して、昨日の昼間から地道に作っていた『城内の不自然な空間』の地図を、新たに書き足してゆく。
「さて、ようやく地図が埋まりましたわね。我ながら、この国のために、よく働きますこと」
ノートを走るこの空間は、もともとエメロ城内部の人間を、極秘に外へ逃す道だった。人間関係が泥沼化しやすい貴族同士の小競り合いの果てに、謀反を起こす者がいても、おかしくはない。
長らく忘れ去られていた秘密の抜け道。否、実際には煙突掃除屋のみが、極秘に抜け道を守っていた。その証拠に、今しがた抜け穴を探検し終えたマデリンの着衣には、目立った汚れが付着していない。
「春の民はここを通り、リアンの母親と逢瀬を重ねていたのですわね……この事実、今のリアンにどう話せばよいのやら。許されるなら、このまま墓場まで持っていきたい秘密ですわね……」
ぼんやりと、城下町の屋根屋根を眺めていた、そのとき、先ほどマデリンが出てきた煙突から、仔猫を肩に乗せた竜の巣の民の子供が、ひょこと上半身を見せた。
「あ、おねーちゃん! どうだった? たんけん、たのしかったー?」
「いいえ、ちっとも」
「なーんだ、ちぇー……」
子供は退屈そうにしながら、仔猫と一緒に煙突の中へと戻っていった。
ガビィは城の厳重な門の手前の壁で、春の民グラスの来訪を待っていた。
聞き耳を立てて、全神経を研ぎ澄ませて、それでもグラスが目の前に現れるまで接近されていることに気づかなかった。
ガビィの紅い宝石のような双眸が細まる。
「事情はフローリアン王子から聞いている。墓参りの件がまとまり次第、お前たちにはエメロ国から撤退してもらうぞ。俺たちは、マリーベル姫の誕生日が近くて、忙しいんだからな」
「そう言うと思っていたぞ、竜の巣の王子よ。では、フローリアン王子のもとまで案内してもらおうか」
グラスは従者を付けていなかった。もしかしたら、後ろに何人も隠れているのかもしれないが、妙な動きさえしないならば、ガビィにとっては何人でも同じことだった。
グラスはガビィよりも少し背が低く、虹色の瞳で見上げてきた。
「竜の巣の王子よ、質問がある。フローリアン王子は、普段は何をしている人間なのだ? 王子に会うまでに、教えてほしい」
「ん……? 普段から多忙なやつだが」
「もっと具体的な説明を願う」
「……と、言われてもな。いつも公務に追われている」
「どのような公務だ。お前、さては、しゃべるのが得意じゃないな」
「説明も苦手だ」
グラスが緑色の眉毛を寄せて、どう尋ねたらいろいろ聞き出せるか、頭を
リアン王子は、朝から落ち着かなかった。というのも、忠臣にして猪突猛進な性格のガビィが、あれよと言う間に春の民グラスと連絡を取りだして、今日この執務室へ、グラスを召還してしまうからだ。
まずは、なんと言って彼らに謝罪しようか、王子は迷っていた。熊の
今日の自分の振る舞いが、未来を形作ってしまう。いったい春の民の
扉が叩かれ、ガビィの声が、グラスの到着を告げた。
リアン王子は、慌てて執務室の椅子に行儀良く腰掛ける。さも、初めから冷静沈着に、待ちかまえていたかのように。
扉が開かれた。入ってきた春の民は、グラス独りだけだった。
リアン王子は、辺りを見回す。グラスの後から、ガビィがやってきて、扉の脇に移動すると、壁に背中をつけて待機体勢になった。
「……」
しばし沈黙が。進行役が自分に任されたのだと察したリアン王子が、
「あ、あの、先日は、大変な失礼を、なんとお詫びすればよいか」
緊張で噛みまくりのリアン王子。再び咳払いし、自身を落ち着けるために深呼吸した。そして椅子から、立ち上がる。
「先日は多忙を理由にカッとなってしまい、お仲間に固い物をぶつけてしまったこと、深くお詫び申し上げます。本当に申し訳ございませんでした。怪我をされた人は、いませんでしたか?」
謝罪の意を表明する王子を、グラスは眺めていた。けが人の有無は、首を横に振って示す。
「私こそ、先日は失礼いたした。王子がご多忙とは
優雅な美声で謝るグラスは、「だが」と先を続けた。
「王子は上機嫌かつお
「暇だなんて……ここ最近ほど、多忙を極めた時期はありません」
「グラム伯爵が言っていたことと、ずいぶんと食い違うな。王子はたいそうな怠け者で、身を粉にして働いているのは影武者ばかり。エメロ国の未来を危惧して忠告する家臣どもを、金で雇った竜の巣の民で抹殺する暴君だと」
リアン王子が緑色の目を見開いて、椅子から立ち上がった。
「竜の巣の王子ガブリエルは、そのような者に仕える男ではありません。貴方も彼を信じたからこそ、もう一度ここへ参上くださったのでしょう?」
「……」
無言で薄笑いを浮かべているグラス。リアン王子は静かに着席した。
「先日訪れた件は、貴方がたの信仰するリーフドラゴンの墓標を、エメロ国のどこかに建設して、自由にお墓参りができるようにすること、でしたよね。我が姉であるマリーベル姫の誕生日以降に、正式な話し合いの場を設けます。日時は、いつにしましょうか」
「まあ待て。王子が忙しいのは、よくわかっている。ここへ来るまでに、さんざんガブリエルに説明させたからな」
グラスが視線で指し示すと、壁にもたれていたガビィが、不愉快そうに目を細めた。
グラスは半笑いで、王子に視線を戻す。
「王子は冷静になれば話のわかるヤツだと、こいつが言っていた。本当にその通りだったな。そちらの暇ができるまで、我々のことは気にするな。城下町でも騒ぎを起こしたりはせん。墓のことは、後日また使者をよこして知らせよう」
「わかりました。お待ちしています」
「して、王子よ、グラム伯爵はどこだ」
え? と王子の語尾が上がる。
「彼に、どのような用事が……」
「自慢ではないが、我々は浪費家でな。いつも資金繰りに苦労している。そんな折り、援助を申し出たのが、グラム伯爵だったのだ。我々が城下町で活動できたのも、ヤツの資金によるものだ」
「な、なにを言って……」
「信じられないか? 私も全く、同感だ。やつの話に出てくる王子と、実際に会ってみたフローリアン王子はまるで違う。どういうことかと、ヤツを問いつめたい」
ずっと黙っていたガビィが、ため息をついて窓を眺めた。
「最近、あの
リアン王子が、少し動揺している。
「ガビィ、伯爵をここへ連れてきてくれ」
「グラスと二人きりにするわけにはいかない。廊下の見張りを、ここへ呼んでからだ」
さっそく人を呼ぶために廊下へ出ようとするガビィを見て、グラスが肩をすくめた。
「部外者が来てしまっては、あの事が話しづらくなってしまうな」
「あの事? なんですか?」
「王子、実の父に会いたがっているとグラム伯爵から聞いている。本当か?」
リアン王子の顔が、こわばる。
「僕の父親は、エメロ十三世、ただお一人だけです」
「……わかった。この話題は二度としないと誓おう」
グラスは人差し指を口に当てて、了承した。
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