第125話 無かったことに、できないのなら
「いらっしゃいませ……あ……」
変装屋に表口から入ったヒメとナターシャに、良い顔をしてくれた店員はいなかった。それでも客は客。派手なバンダナを頭に巻いた女性店員が、申し訳程度の愛想笑いを浮かべながら、ヒメに歩み寄った。
ヒメは敵意が無いことを念入りに伝え、借りていた眼鏡を壊してしまったことを正直に話した。
破損の具合を見せてほしいと申し出る店員に、ヒメは布を巻いて
「うわー、派手にやりましたね……ちょっとこれは、修理に時間がかかります」
「ああ、もう使う用事はないから、修理はゆっくりでいいよ。これのおかげで、すっごく助かったんだ。本当にありがとうね」
ヒメはどう弁償したら良いかを、話し合いたいと申し出た。
店員は苦笑とも受け取れる小さな
そのとき、
「ご機嫌よう、お姫様。時間があるなら、少し付き合ってもらえるかしら。眼鏡のお代は、それでチャラにしてあげるわ」
気怠げだが、その声には動悸や息切れに苦しんでいる気配は感じられない。
ヒメはナターシャを見上げ、行っても良いかと尋ねた。骨折に違法薬物の使用という、身近な人には絶対に遭ってほしくない災難を経験した知人を、
「お昼休みを、二時間ほど伸ばして頂きましたものね。彼女の腕のお見舞いに行きましょう」
「ありがとう、ナターシャ。私、ほんとはずっと店主さんのことが心配で、仕方なかったんだ」
「ヒメ様らしいですね。ですが、彼女のお見舞いに行くには、一つだけ条件がありますよ」
それは何かと、ヒメは続きを待った。
「わたくしはヒメ様の付き人ですので、おそばを離れるわけにはまいりません。ご一緒しますね」
「あ、なーんだ、それなら構わないよ。もっと難しいことを言われるのかと思ったや」
ヒメとナターシャが笑い合う、その無害そうな様子を観察していた女性店員は、彼女たちだけならナディアに危害は加えないだろうと、予想した。
女性店員は二人のために先導して、扉を開けてくれたが、まだ心配そうな顔をしていたから、ヒメは絶対に店主を傷つけないと彼女に誓ってから、先に進んだのだった。
声はしたのに、店主の姿が見えず。
「あれ? 変装屋さーん! どこー?」
薄暗く、所狭しと衣服に満たされたバックヤードで、ヒメは声を張り上げた。
「こっちよ」
店主がいたのは、ヒメが初めてドレスとお化粧を教えてもらった、あの狭くて物が多くて、天井が歯車だらけの小部屋だった。
「この作業場に、大人が三人も入ると息が詰まるわね。付き人には、部屋の外で待ってもらってちょうだい」
「わかりました。ヒメ様、なにかあったらお呼びください」
ナターシャはそう言ってヒメに一礼し、部屋の外から扉を閉めた。
「あら、聞き分けの良い子だこと…」
部屋の椅子に座っていた変装屋の店主は、またもすっぴんだった。ピエロメイクも薄化粧も、なにもしておらず、白のゆったりしたガウンをまとい、白いスカートにも見えるプリーツの入ったズボンを履き、足にはスリッパを履いていた。
「貴女には、いつも誰かが付いてるのね。過保護なのか、それとも、逃げられちゃ困る理由があるのかしら」
「変装屋さん、腕は大丈夫ですか?」
ヒメは嫌味の一つも聞き流す
店主は、白い三角巾で吊った利き腕を、軽く振ってみせた。
「大丈夫よ。痛いふりをしているだけだから」
「痛いふり?」
「たまにはアタシもサボりたいのよ。最近はいろいろあってね」
「そ、そうですね……。ほんとにいろいろありましたよね……」
同胞が大怪我を負わせてしまった手前、冷や汗が流れるヒメである。
「眼鏡、壊しちゃったんですってね」
「あ、はい。ごめんなさい、うっかり落としちゃったんです」
店主は腕を組んで、ため息だった。その態度の意味が、今のヒメにはわからない。
「あの……今日は、変装屋さんの顔が見れて良かったです」
「そんな、心にも無いこと言わなくていいわよ」
「いいえ、ずっと心配してました。私は骨折も、変な薬も知りませんから。きっと辛いだろうなって、気掛かりでした」
ヒメは本心を話したが、目の前の人物は信じてくれないのか、壁を眺めている。
「あの、変装屋さんは、どうして私を呼んだんですか?」
「ただおしゃべりするのも手持ちぶさたね。その服に合ったお化粧でも、やってみる?」
「痛いふりしてるのに、手を使う作業はまずいんじゃないですか?」
「ああ、そうだったわね。仮病は使い慣れていないと、逆に不便ね。普通にお茶にでもしましょうか」
お茶と聞いて、ヒメは変な薬の混入を連想して、首を横に振った。
「私は遠慮します」
「あら、警戒してるの?」
「お互い、悪党ですからね。関係がこじれてしまっている今は、不用意に物を贈り合わないほうがいいと思います」
「それもそうかしらね。じゃあ、本題に入らせてもらうわ」
長い髪を耳にかけ、店主はしばし、街の喧騒へと耳を傾けた。この部屋まで聞こえてくる音は少ない。店主は実際に聞こえる物音ではなく、街に漂う不穏さを、全身で感じ取っていた。
「外の騒ぎには気づいてる?」
「外? いえ、特になにも」
「貴女たちが、絵画の贋作を作ろうとしているって、もっぱらの噂よ」
「ええ!? ど、どうして」
「なんで貴女たちがそんなことしてるのか知らないけれど、お城のことが簡単に民に広がっちゃうのは困りものね」
「……」
ヒメは絶句するあまり、余裕が吹っ飛んでいた。
その表情だけで、真意の答え合わせが簡単にできてしまう。
しかし、変装屋の店主ナディアの
「贋作の件で、ネイル王子がお城に来ているんですって?」
「……それも……街で噂になってるの?」
「知らなかった? とっても素敵な王子様みたいね、その人」
「いったい誰が、そんな話をあなたにしたの」
「街で勝手に噂になってるって言ったでしょ。アタシ以外にも、彼を話題にしている人は大勢いるわ。本気で信じてる人が、どれくらいいるかは知らないけれど」
ヒメはもうどうしていいか、わからないまま息を吸っていた。その呼吸も、焦りから浅くなってゆく。
「珍しいんですってね、ネイル王子が外出するのは」
「そ、そうかもね」
ヒメはこれ以上の情報を漏らしてはダメだと思い、返答をはぐらかす。だが、わかりやすく視線を逸らしているヒメの顔を見れば、簡単に答え合わせができてしまう。
(これが最後の、
ナディアは、口にするのも大変な苦労を伴う話題を、また話すことにした。ヒメをここへ呼んだのは、そのためだから。
「アタシには、妹がいたんだけど」
「妹さん?」
「ネイル王子が、妹について詳しいみたいなの。彼に会って、話を聴きたいわ」
ヒメがぽかーんとしている気配が、伝わってくる。
「今日呼んだのは、それだけよ。本音を言えば、妹の話を口にするのも苦しいわ。毎日、仕事に打ち込みながら、記憶に乗せた蓋を押さえつけて暮らしてきた。けど、もう無理ね。いつも行く
「妹さんに、なにがあったんですか……?」
「……他の仕事で忙しい貴女は、聞かないほうがいいでしょう。きっと集中できなくなってしまうわ」
「そうですか……じゃあ、聞きません」
ヒメはナディアの実年齢を知らない。妹ならば自分と歳が近いかもなぁと、想像していた。
「貴女がここに来たのが、アタシにとってのトドメになったのよ。責任取ってちょうだいね」
「ええ〜? あなたの決心が、勝手についちゃったんでしょ? ネイル王子は今、とっても忙しいんだけど、あなたの妹さんと知り合いだっていうなら、もしかしたら会ってくれるかも。お城に帰ったら、話してみますね」
「お願いするわ」
「そうだ、変装屋さんと妹さんの名前を、教えてもらえますか? 名前を出したほうが、ネイル王子に思い出してもらいやすいかも」
ヒメの提案に、ナディアが一瞬、黙った。
「アタシは……ナディアよ。妹の名前は――エメローディア」
「私と一緒の名前なの!?」
「ええ。でも、アタシたち姉妹には、本当の名前が、別にあるの。あんまり言いたくないんだけど、もしもネイル王子が思い出してくれないときは、こっちの名前も出して」
「わかった」
「アタシの本当の名前は、ナルサスギア。妹の本当の名前は――ナターシャよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます