第108話   赤い髪の救世主

 突如、窓の外から、バルコニーの手すりを掴んでよじ登ってきた赤毛の青年の姿が。彼はひらりと手すりを飛び越え、そのまま勢いよく窓硝子まどがらすを蹴破った。


「うおわ!! びっくりした!!」


 グラジオラスは飛んできた硝子の破片を瑠璃色のマントをひるがえして弾き、ついでに自身をマントで覆い隠した。繊維の素材不明のマントが、瞬時に部屋の風景と同化する。


 部屋に飛び込んできた悪の王子は、今度こそ春の民を捕まえるべく、気配の濃厚な箇所へ距離を詰めた。ようやく完治した利き腕を伸ばそうとしたそのとき、散らかった部屋に転がっていた熊の置物に足先を引っ掛けてよろめき、白銀のガントレットに覆われた手は空を切った。


(なんだこの部屋は! 足の踏み場がないぞ)


 花の芳香が充満している部屋が、物置並みに物で溢れている上に、弱って座り込んでいるナディアが部屋の真ん中を占めているという、悪条件。


「ナディア! はしに寄れ!」


「……」


 反応がない。動けないようだ。


 ガビィは春の民への攻撃を中断し、ナディアを守る構えに切り替えた。ここで派手に暴れると、ナディアを巻き込んでしまいかねない。


 香りに気配を溶かしながら、グラジオラスが破壊された窓からひょいと外へと脱出した。ところが、着地点に立っていたのは、同じく気配を消して店の影に隠れていたシグマだった。


 ぬっと立ち上がった、白銀色の鎧に包まれた巨体。すでに抜剣済みのその姿に、グラジオラスが虹色の目を剥く。


「うわあああ!! なんでシグマがここにー!!」


「待て待てー!」


 子供が野良猫を追いかけるような無邪気な声とともに、二人分の足音が、否、付き添いのナターシャの分も合わせて、三人分の足音が、あっという間に遠くなっていった。


「大丈夫か、変装屋」


 ガビィがしゃがむと、ナディアの放心した顔と目が合った。ナディアは震える片手を床につき、なんとか立ち上がろうとしたが、うまくできなかった。


「ガブリエルくん……」


 薬の影響か、赤髪の勇ましい救世主の姿が、星のように輝いて見える。


 その救世主が、部屋のあちこちを見回して、くしゃっと顔をゆがめた。


「……お前、少しは部屋を片付けたらどうだ。何かにつまずいて敵を逃したのは、初めてだぞ」


「……。だから、あなたはモテないのよ……」



 ナディアはガビィに肩を借りて、寝台に腰掛けていた。滝のように汗をかいていたので恥ずかしかったけど、おかげで薬の成分が抜けたのか、意識がはっきりとしていた。


「貴方が何を聞きに来たかは、知ってるわ。でも、疲れたから少し休ませてほしいの。駄目かしら」


「わがままを通せる身の上か。竜の巣の民全員が、お前を疑ってるんだぞ。楽な姿勢で構わないから、さっさと質問に答えて、疑いを晴らせ」


 壁にもたれて立っているガビィが、険しい声音で言い放った。病み上がりのような体の相手にも容赦がない。相当怒っているようだと、ナディアはため息をついて、割れた窓を眺めた。


 木枠ごと、粉々になっている。


「逃げないから、少しだけ廊下で待ってて。汗だくだから着替えたいの」


「一人でできるのか? 利き腕、折れてるんだろ。誰かを呼んで、手伝ってもらえ」


「平気よ、一人でも。鼻血も止まったから、下も向けるわ」


 ナディアが立ち上がり、衣装箪笥へと移動してゆく。


 ガビィは違和感に目を細め、ナディアの背後から、その腕を掴んだ。


 びっくりして振り向いたナディアの顔を、猫科動物のごとく瞳孔の細まった竜の巣の民が、ジト目で覗き込む。


「折れてないじゃないか。どういう事だ」


「……」


 掴まれている利き腕は、すでに赤みが薄らいでいて、低体温な竜の巣の民の、ガントレット越しの肌をわずかに温める程度だった。


 なんの言い訳もできず、ただただ自分の秘密が悪の組織に知られてしまった焦燥に、しかしナディアは表情を崩さなかった。


 そんな変装屋店主の素顔を、こんなに近い距離で見下ろしたのは、ガビィは初めてだった。赤い瞳が興味深く、そして無遠慮に、他人のすっぴんを観察する。


「お前、化粧落としたらすごい顔してたんだな。人間じゃないみたいだ」


「……落第点、いいえ、退学級の口説き文句だわね」


「芸術品と会話しているみたいだ。なんか、こう、アレだ、白い壺のような」


「……陶器のことを言っているのかしら」


 ナディアは苦笑混じりに、ガビィの手から腕をするりと取り戻した。そのまま、後退りして距離を取る。


「たぶん、それだ。そういう壺っぽい顔してる」


「せめて彫刻とか、絵画の被写体に例えてほしかったわね」


「芸術には詳しくない」


 大真面目な顔で、ばっさり話題を切り上げるガビィ。しかも、堂々と両腕を組んでいる始末。


「俺はてっきり、お前が変装で真っ白にしているのかと思っていたが、元からだったのか。どこの国の出身だ? お前と同じような連中を見かけたことがない。腕の件といい、説明しろ壺人間」


「……。もう、隠し通せないわね。着替えながら話すわ。だから、貴方は廊下に」


「わかった」


 着替えると言っても、一日寝込んだだけで骨折完治は、さすがに従業員が気味悪がるので、新しい下着に寝巻きと、カーディガンをまとう程度。お洒落着で普通に生活するのは、明日か明後日になりそうだった。


 ナディアは自分の正体が、スノウベイデルの最後の生き残りであることと、竜の呪いで不老不死になったこと、そして義理の妹について、ガビィに話した。


(貴方にこんなこと話しても、にわかには信じないかしらね)


 軽い切り傷ならば瞬時に治る。ガビィが信じない場合は、落ちているレイピアの切っ先で、腕を切って見せようと考えていた。


 着替えの終わったナディアの部屋に、ガビィがもう一度入ってくる。そしてさっきのごとく、腕を組んで壁際にもたれた。


「お前の話、兄さんが言っていたスノウベイデル人の特徴と合致しているな」


「え?」


「スノウベイデルの首都出身だろ。大勢いた王子の一人に、ナルサスギアという青年がいたらしいな。男性にはギア、女性にはディアを名前に付け足すことにより、『その国を動かす重要な歯車』という名誉を授かる文化があった。しかしナルサス王子はギアを授かった翌日に、両親の前でドレスを着た。激怒した父親に、もう二度としないと反省するまでスラムに放置されたんだ。違うか?」


「……どうして知ってるの? ドレスの話」


 ナディアの表情が、焦燥に染まっていた。ドレス姿を目の当たりにした自分の両親と、義理の妹に話した程度しか、思い当たる節がない。虹彩すら白い双眸が、ガビィに釘付けになっている。


「俺自身は、スノウベイデルについては何も知らない。話は全部、兄さんから聴いたんだ」


 十代後半から二十代前半くらいにしか見えないガビィが、なんでもないことのようにサラッと言った。


 ナディアの視線が、所存なげに泳ぐ。こんなときにふざけた事を言うのは、この赤毛の青年の性格上、ありえない事だったが、すぐには鵜呑みにできなかった。


「貴方のお兄さんって、いくつなの?」


「兄さんが生まれたのは、スノウベイデルが滅んだ後だ」


「あ……そ、そうよね、じゃないとアタシと同じ歳になっちゃうもの。じゃあ、貴方のお兄さんは、誰かからアタシのことを聞いたのね」


 白い髪を耳にかけながら、ガビィの返事を待った。


「違う。兄さんは竜の記憶と、『お母さん』ってヤツの記憶を、両方、保持しているんだ。お母さんはスノウベイデル人でスラム出身。雑貨屋の店員と娼婦を掛け持ちしていたが、たまたま道で拾った貴族からの説得を受けて、体を売る商売は辞めた。その貴族こそ、のちの義理の姉。二人で雑貨屋の倉庫裏に住み込みで働き、なんとか暮らしていたみたいだな」


 ナディアは、何を言われたのか、すぐには飲み込めなかった。お母さん、の辺りから、恐怖に近いぞわりとした感覚に支配され、ガビィが得体の知れない化け物に見えてきた。


「その義理の姉とは、お前のことだったんだな、ナディア。妹からもらった名前を、今でも名乗っていたんだな」


 同名の別人かと思っていた、と付け足すガビィを、ナディアは空に深海魚を見たかのような顔で、見上げていた。あまり無防備な顔をさらさないよう努めてきたのに。


「……こんなことって、あるのかしら。アタシはまた、幻覚に襲われてるんだわね」


「下にいる従業員は、お前の呪いのことを知っているのか?」


「たぶん、知らないはずよ。彼女たちと会うときも、化粧で素顔を隠してるから、アタシがいつまでも若いことに疑問を持ってる子はいないんじゃないかしら」


 そんなことより。ナディアのほうが質問したい気持ちでいっぱいだった。


「その、貴方のお兄さんの話だと、妹が、貴方たちのお母さんってことなんでしょ? でも、信じられないわ、あの子が、そんな……」


「兄さんの作り話かもな」


「いいえ、貴方のお兄さんは、アタシについて詳し過ぎる。本当に、妹の記憶を持っているのかもしれないわね……」


 ナディアの心に、ガビィの兄と会って話が聞きたいという欲求が生じた。手紙でもいい、妹がなぜあんなことになり、竜の呪いはどうやれば解く事ができて、妹と竜が当時なにを思っていたのかが、どうしても知りたくなった。


 しかし、ただでは会わせてくれないだろう。大金を要求されるかもしれない。何より、もう過去に蓋をし、無かったことにしてしまいたいという相反する気持ちにも、疲れてしまっていた。


 妹のことも、もう誰にも話さないでいたかった。口にするのが、未だに辛い。なにもかも、わからないままだから。たとえ理由を知れたとしても、当時の理不尽な故郷の事情のせいだと、わかっているから。


(きっと妹も、アタシのように竜に呪われたんだわ。そうでもなきゃ、暗殺者集団の生みの親なんて、あの子がなるわけないもの)


 故郷が無事だった頃は、本当になんでも叶えてくれた、白銀の竜。気難しいため、一日に頼める願い事は少なかったけれど、それでも貴族たちはこぞって、竜に欲望を叶えてもらっていた。


(アタシも屋敷に戻されたわ。あんなに好きだったドレスを着ることが、急に怖くなってしまったから。でも、帰って来ないあの子を待ちたくて、またスラムまで降りてきた。それきり、家族には会ってないわ……)


 貴族の願いで奇妙だったのは、エメロ国を石で覆い隠すというもの。白銀の竜のつがいであった黄金の竜の亡骸が、スノウベイデルではなくエメロ国に埋まっているため、エメロ国への牽制と同時に、物言わぬ聖地とするために、願われたのだとナディアは考えていた。


「アタシからの話は、以上よ。今度は、貴方の番。でも、何を聞きに来たかはわかってる。昨日の朝、貴方に変装して自宅待機を触れ回ったのは、アタシの差し金じゃないわ」


「だが、俺の弟は、未だにお前の仕業だと疑っている。違うと言うのなら、証明できる物を出せ。じゃないと俺も庇ってやれない」


「……ないわ。そんなもの」


 ナディアは、ずっと手慰みにしていた猛禽類の爪を、見下ろした。


「なにもないわ」


 静かになったガビィに気付いて顔を上げると、ガビィの視線も、その爪に注がれていた。


「これが気になるの? ネックレスだったの。直さなくちゃ」


 ナディアは着替えた際に首から外して枕元に置いた、ちぎれたネックレスの紐をつまんで見せた。


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