第107話 グラジオラスの美意識
お手洗いに行っても、水を大量に飲んでも、怪しい薬は体内を渦巻き続ける。
「……痛みは無いけど、さっきよりも体調が悪化してる気がするわ」
即効性の高い強力な成分を使っているから、副作用が重いのだと、事前に説明は受けてはいたのだが……不安になってきた。
部屋に戻って、再び寝台で伏せっていると、
「ばあ!!」
八重歯がのぞく笑顔が、強烈なフローラルの芳香とともに目の前に現れた。虹色の虹彩に、緑色の肌、長くぼさっとした緑色の長髪からは、雑草のような細かな草花がひょいひょいと飛び出している。
「やっほー! ナ・ル・サ・ス!」
ナディアは金切り声を飲み込んで、半身を起こした。
「……その名前で呼んだらひっぱたくって言ったでしょ」
「アハハハ! 師匠
「その名前で呼ぶからよ」
これも幻覚なら良かったと、ナディアは眉間を押さえる。頭痛を誘う強烈な香りは、目の前の春の民が実在することを証明していた。
「グラジオラス……いつからここに」
「きみがお手洗いに行ったときに、すれ違いに侵入したんだよぉ」
甲高い声で笑う、春の民。ナディアは寝台から立ち上がると、衣類がかかった壁にもたれて、後ろ手に片手をつけた。
いつでも、壁のレバーを下げられるように。
グラジオラスは長い髪を耳に掛けながら、へらへらしている。片腕を動かした際に、
「騒いだって、だーれも来ないよ。きみが錯乱して喚くのは、昨日も今日もだったから。あーまたかー、って感じで、誰も気にかけないさ」
「……やっぱり、ただの
「いや〜、きみが強力な薬をご所望するからさ~、今なら、どんな薬でも盛れちゃうなって、思ったわけ」
ナディアの白い指先が、壁のレバーを思い切り下げた。
ガラガラと歯車の軋む音。壁板の一枚が斜めに飛び出して、スノウベイデル貴族がたしなむ美しいレイピアが、滑り出てきた。
ナディアの、利き腕でないほうの手に収まる。
「高い解毒剤でも、買わせるつもりかしら。破格に値切らせてもらうわよ」
「ハハハ、恩師に剣を向けるなんて、きみは相変わらずだな。今日は商売に来たんじゃないよ。きみとじっくり話しに来たんだ。こんな時しか、二人っきりで会えないからさ」
グラジオラスは、ナディアの用心棒が不在であると知っていた。彼は現在、闇医者のもとで治療を受けている。
「エメローディアって名前なんだってね、あのお姫様」
ナディアは顔に動揺は浮かべなかった。さも迷惑そうに、眉を寄せるに留める。
「あれは竜の巣の姫よ。手出ししたら、あんたでも危ないわ」
「そんなことしないよ〜。きみの妹と名前が同じだな〜って思っただけ」
「……ただの偶然でしょ」
「最近さー、スノウベイデルの竜が、頻繁に鳴いてるよね。名前も呼んでるし、恋しがってるのかも。もしかして、エメローディアが亡くなってること、わからないのかもね。自分で喰ったくせに」
アハハハ! と愉快そうな笑い声。話題がころころ変わるのも重なり、ナディアの右眉が若干、つり上がった。
「今の竜はさー、子供に戻ってるんだよ。友達と遊んだり、好きな人を大声で呼んじゃって、とっても無邪気だ。そんな竜を、もう一度、大人にして利用するためには、どうしたらいいと思う?」
「知らないわよ。アタシは情報屋じゃないわ」
「じゃあ、もっと情報あげる。竜の巣の民は残忍でケチだから、利用価値の高まる子育てしかしないんだ。あのエメローディアちゃんは、何に使うために生かされてるんだと思う?」
緑色の唇で、流暢にしゃべる春の民。一方のナディアは、体が熱くて、だるくて、口が回らない。
「……答えないと、帰らないつもり?」
「正解したら、店から出て行ってあげるよ。お土産付きだけどね」
やっぱり
「竜の世話係にするため、かしら」
「違うよー、とぼけちゃって。きみの妹は絵本の中で、どうなったんですかー」
ナディアのこめかみに青筋が浮かぶ。レイピアを持つ手に、力が入った。
「ああ、すごい汗だー。その高熱、腕から出てるんだよね。きみはお医者さんに行かなくていいの?」
「ほっといて。他人に体を触られるのが嫌いなの」
「ああ、そっか〜、一日で骨折が治るような体を、誰かに知られるのは怖いよねー。とっくの昔に滅んじゃったスノウベイデルの、唯一の生き残りだし。研究対象として世界中の闇医者に追われてるから、すっぴんじゃ外出ができないんだもんね〜」
ナディアが大きく踏み込み、レイピアの切っ先が鏡台の鏡に突き刺さった。蜘蛛の巣が広がり、割れ落ちた破片が床に散らばる。
グラジオラスが避けるまでもなく、大きく逸れた切っ先は、とても戦える状態でないことを相手に悟らせてしまった。
「アッハッハッハ! 本当に恩師を刺そうとした! 自尊心の高い弟子なんて、持つもんじゃないな〜」
グラジオラスはレイピアに近づくと、素手で引き抜き、へし折って床に投げた。
「それじゃあ、遠慮なく反撃させてもらうよ」
ぼふんっ、と花粉が部屋中に充満し、ナディアはとっさに
そこかしこで、黒い煙でできた人影が、踊り始めた。白い鉱石を全身に生やした、スノウベイデル人が、助けを求めて腕を伸ばしてくる。
(きみは
窓、窓を開ければ、少しは臭いが薄れるはず……。その考えは
「竜の巣の民はさ、エメローディアちゃんを竜に喰わせるつもりなんだ。あの絵本を再現するために。大人になった竜を使役するために」
目眩がして立ち上がれない。そこかしこに、いろいろな気配がする。妹、あの姫、見知った人々、鉱石を生やした化け物たち、そして、目の前にきた虹色の、幻覚。
「竜の巣の民が何をしようと、きみには関係ないかー。あーあ、きみはまーたエメローディアを見捨てるつもりなんだねー」
ナディアの眉間に青筋が増え、足場にあった腕輪の空き箱を掴んで、虹に投げつけた。
ひょいと避け、グラジオラスは白い歯を見せて愉快そうにしていたが、虹色の不思議な双眸は、一切笑っていなかった。
(俺はきみが後悔しながら生きてきたことを、知ってる。大事な弟子だもの、わかるよ)
グラジオラスは、緑色の薄い鱗に覆われた両手で、ナディアの顔を固定した。
「俺は、きみこそが喰われに行くべきだと思うね。きみの妹が返ってこないのも、スノウベイデルが滅んだのも、そして今エメローディアちゃんが生け贄に選ばれているのも、もとを辿れば、きみの判断が間違ったせいだから」
グラジオラスの、異様に大きな眼球には、渦巻く虹色の粘膜が揺らめいていた。
「きみの妹、寂しがってるよ〜? きみを探して、あの廃墟をさまよってるかも。迎えに行ってあげたら?」
ナディアは拒絶の意をこめて、体を逸らして距離を取ろうとしたが、片手が床にくっついて、離れない。
虹から視線を外すのは危険極まりないが、勇気を振り絞って手元を見てみると、子供用の可愛らしい玩具のような色彩の靴が、ナディアの白い手を、踏みつけていた。薬のせいで痛みを感じなかったのだ。
靴の下から指を引っ張り出すことができない。男が全体重をかけて踏んでいるせいだった。
優しかった虹色の眼差しが、急に真っ黒に吊り上がる。星も月もない、冷たい真夜中に、部屋も、窓の明かりも届かなくなる。
「お前はほんっとうに醜いヤツだな。俺が育てた
洞窟の中で響く落雷のような低い大声に、薬の影響で過敏になった聴覚が悲鳴を上げた。残った片手で耳を塞いで身を縮めても、余韻が暴風のごとく頭の中で暴れ回る。
「見捨てたんじゃないわ。あんな化け物だらけな街、どうやって住むのよ……」
「スノウベイデルを、竜の力でもう一度、復活させようよ。竜の呪いで不死身になったきみなら、喰われたって復活するでしょ? 竜にきみを喰わせて大人にした後に、妹も故郷も、復活させてもらおうよ」
「アタシに生きたまま喰われろって言うの!?」
「お前のせいで、無関係な娘が巻き込まれてるんだぞ! お前が見捨てた妹の代わりとして! 皆に騙され、絶望しながら、あの娘は竜に噛み砕かれてゆくんだ!! そんなひどい話があるか!?」
「アタシがあの子をエメローディアにしたわけじゃないわ……」
「ああそうか、お前には関係無いか! 血の繋がらない
「やめて」
「可愛くてしょうがない自分のために、これからも永遠に逃げ回っていろ!!」
「もう黙って!!」
顔を上げたナディアの視界に、振り上げられたグラジオラスの片手が映る。平手打ちをくらい、鼻血が出た。
「じゃあ、来てくれるー? 俺と一緒に、竜に会いに行こうか。きみの美しい自己犠牲を、しっかり見届けて、本に描いてあげるよ……」
ナディアは真っ赤に腫れた手を絹の寝巻きの
それでも、何度も振り下ろす。
「たとえアタシが! 妹に変装して喰われたって! 竜はなんの願いも叶えないわ! スノウベイデルのように、どこかの国が滅ぶだけよ!」
春の民が怒りの形相で口角を吊り上げた。全てが鋭く尖った、獣のような歯が見える。
「まーだ抵抗するのか。もういいよ、勝手に連れてゆくから」
「誰を喰らっても、竜はおかしくなって暴れだすわ! でも竜の巣の民からあの子を連れて、逃げられる人なんていない。故郷だって復活させたいほど未練はないの。もう三百年も経ってるのよ!」
春の民が、手を踏みつけたまま立ち上がった。ゆらりとした影が、蛇のように部屋に伸びる。
「じゃあ、あの娘が喰われるのを見過ごす気か? 俺の弟子はなあ、俺の作品も同然なんだよ。その作品が美を捨ててまで生を謳歌したいって言うなら、作者の名にかけて、ぶち壊すまでだ!!」
緑色の平手が、握り拳に変わり、ナディアは思わず目を強くつむった。
わからずやな恩師。一度言い出したら聞かない。昔から大嫌いだった。
だが、もう、抵抗する力が無い。
(どんなに苦しくても、アタシは、自分の力で、償い続ける道を選びたかった……)
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