第105話 悲しみの源
変装屋の三階に、店主であるナディアの私室がある。ごてごてしいまでに美を強調した調度品が、自分専用の大きな鏡台の引き出しの中から、そして、半開きの衣装箪笥の中から、さらには脱ぎっぱなしのしわくちゃな衣類がのっかったソファの下から、あふれてあふれて、床に散乱している。
「片付けなきゃって思うんだけど、どれも捨てられないのよね……」
それもすっかり、ぬるま湯になっている。
「ハァ……熱で寝込むなんて、何年ぶりかしら。だるいわ……」
ぬるい水の下で、真っ赤に腫れた皮膚がうねるように強く脈打ちながら、血液や養分、それから、人知を超えた得体の知れない液体を循環させて、利き腕の骨の形成を助けてゆく。
意思を持っているかのごとく、腕が脈打ち、そのたび、高熱が生み出される。
体の中で、頑固な線虫が大量に蠢いているような感覚だった。初めて経験したときは、筆舌に尽くしがたい生理的嫌悪感に、胃がカラになっても吐き続けていたのを思い出す。
「何度経験しても、慣れないわね。自分の体が、再生してゆく感覚……」
飲んだ薬の影響で、痛みには鈍くなっていた。今はただひたすらに、不快感が襲う。
部屋の中でたった一つの、大きな窓には、バルコニーが設置されていた。よく晴れた青空が見える。寝ていては余計に空しか見えないが、バルコニーに立って街を見下ろせば、もしかしたら、ちょうどあの子がお見舞いに来てくれるんじゃないかと、自分でも都合の良すぎる期待を抱いてしまい、そんな自分に、軽く自嘲した。
(竜の巣の民は、どうして、あの子を大事にするのかしら。……顔立ちと雰囲気が、妹に似ているから? ありえるわね……)
歳の頃も、背丈も、世間知らずで明るい雰囲気も、あの娘は妹とよく似ていた。目の色が似ていない、そう思っていたのに、いざ彼女の両目に翡翠色を付け加えるのだと思ったら、少し、身が震えた。
『私の目の色が、綺麗な緑色だって、役人さんが褒めてくれたの。それでそれで、私の身分をエメロ国のお姫様だって偽って、竜の世話係にしたいんだって』
そこは玄関なのか外なのか、それすらよくわからない粗末な小屋だった。帰ってくるなり、彼女は笑顔で報告してゆく。今日掴んだ、人生最大の幸運を。
『それで私も、その人たちに言ったの。私が竜のもとへ行く代わりに、姉さんに女性の名前を付けてあげて、って。役人さんたち、いいよって言ってくれたわ』
初めて聞いたとき、そのあまりの嫌な予感に、悪寒がしたのを今でも覚えている。スノウベイデル国の首都からやってくる役人は、いつも絶望しか運んでこないからだ。
『竜にご飯を運ぶだけの、簡単なお仕事だから、私でもできるわ。勝手に決めてごめんね』
名前なんて、よくよく考えたら、どうでもよかったのに。自分の心さえ、強く持ち続けていれば、ほんの少しでも揺らぐことなんて、ありえなかったのに。
不慣れなスラム生活で、心身共に限界だったのは、自分のほうだったのかもしれない。
『姉さん、しばらく、一人にしてしまうけれど――どうか一人の女性として、幸せになってね』
「待って!!」
伸ばした手が、幻覚をつかみ取ることはなかった。妹の痩せた体に、太った役人の腕が伸びてゆく。妹の顔をつかみ、無理やりに目を見開かせて、無遠慮にのぞきこんでゆく。
『なんと、本当に目の色が緑色だ!』
「やめて」
『この娘が相応しい! さっそくエメロ人の姫に見立てて、竜の世話係に任命しよう』
「連れていかないで」
『明日からお前は、竜の世話をする姫巫女エメローディアとなるのだ。無礼のないように、礼儀作法をしっかりと叩き込まねば。さあ我々と来るんだ!』
たった一人の、自慢の妹は、大勢の役人に連れられて、去っていった。
緑色の大きな目を細めて、白い前髪を揺らして、健康美そのものな笑顔で、少女は――竜の生贄にされるとも知らずに、
『それじゃあ姉さん、行ってくるね』
みんなの役に立つんだと、自ら、喜んで。
純白の布で着飾られて、家を出てゆく妹を、スラム街のみんなが祝福し、見送った。
妹は姫巫女エメローディアとなる、その見返りに、スラムの人々への定期的な食べ物の支給と、姉に女性の名前を付けてほしいという取引を、役人と交わしていた。
(けっきょく約束なんて、何一つ守られなかったけれど、そんなのは、アタシにはどうだってよかった。せめてあなただけでも、返してもらいたかった)
最後に見た妹の姿が、美しいものとして人々の記憶に残っただけでも、否、それだけしか、良いことが残らなかったのが、悔やまれた。どろんこな日々でいいから、一緒にとなりで笑っていてほしかった。
コンコンと、部屋の外から扉が叩かれる。
「ナディア様、起きていますか?」
控えめに声をかけてきたのは、いつも派手なバンダナを頭に巻いている、若い従業員だった。
「どうしたの?」
「氷嚢、お取り替えいたしましょうか。今、替えを持ってきています」
高熱で体がだるいナディアは、彼女に部屋まで入ってきてもらおうかと迷ったが、白い絹の寝巻きが汗でぐっしょりと肌にひっついていることに気付いて、これは絶対に見られたくないと思った。
「扉の前に、置いてってちょうだい。自分でなんとかするわ」
「はい」
扉の外、廊下の上に、何か固い物が乾いた音を立てて置かれた。彼女の持ってきた氷嚢は、木桶のような容器に入っているらしかった。
「あ、ナディア様、解熱剤はまだありますか?」
「あるわ。明日には、治ると思う。心配かけるわね」
「いいえ、大丈夫です。お店は、わたしたちでなんとか回していきますから、ゆっくり休んでください」
それでは、と言ったのちに彼女は一礼したのか、一拍置いて足音が遠ざかっていった。
ナディアは寝台から無事な腕を床へと伸ばして、派手な色の錠剤が入った小瓶と、水差しの載った盆を、引き寄せた。
再生する利き腕の生々しい感覚が強くなり、また薬に頼ろうと思ったのだ。
しかし、手に取った瓶に貼られた紙のラベルの、グラジオラス製鎮痛剤、と記されたオシャレな装飾体が目に入るなり、ナディアの白銀色の柳眉が寄った。
「この薬……痛みは薄れるけれど、もう飲まないほうがいいかしら。妹の幻覚が、頻繁に現れてしまうわ……」
瓶を盆に戻し、寝台に片手をついて、体をゆっくりと起こした。体の下敷きになっていた長い白銀を、手櫛で乱雑に整える。
なんのために起きたのか、薬でボーッとする頭で思い出そうとする。廊下の外の氷嚢の存在が脳裏をよぎり、ああ、と低い声をもらした。
「ついでに、お手洗いにも寄ろうかしら。薬が体から、抜けてくれたらいいんだけど」
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