第84話   邪竜の血の匂い

 ヒメの部屋は二階だから、一階の食堂へ下りるときは、階段を使う。その際にすれ違う使用人たちは少なくなかった、昨日までは。


 今日は、誰ともすれ違わない……。一階の廊下の、視野の届く範囲に、誰一人歩いていないのだ。


 ヒメは言いようのない不吉な予感に、頭を抱えて青ざめた。


「ああああああ、大変だぁ。みんなして、マリーベル姫の誕生日を台無しにしようとしてるみたいだ……なんか落ち込むなぁ」


「姫様を嫌ってのことではありませんが、たしかに、ご自分のお誕生日を疎まれるのは、悲しいことですな」


 誰もいない一階の廊下。朝の慌ただしい時間帯だというのに、物音一つしない。事態の深刻さが、視覚聴覚からもひしひしと伝わってきて、ヒメは精神的に苦しくなる。


「本当に静かですな」


「で、でもさ、私の部屋で仕事してたメイドさんもいたことだし、さすがに誰一人いないってことはないでしょ。もっとよく耳をすませてみよう」


 すると聞こえてきた、がっしゃがっしゃと激しく鳴り響く鎧の音。


(げ、この歩き方と、歩幅の感覚は、シグマさんかも。二階の廊下を走ってるみたいだけど……あ、今、階段を下りてるぞ。っていうことは、一階に用事があるのかな?)


 ヒメが振り向くと、ちょうどシグマが階段を一気に飛び下りて着地するところだった。脚部の防具がぶつかり合って、けたたましい金属音が鳴る。


 周囲の困惑も意図せずに、一国の姫相手に決闘を申し込む非常識の塊。それがさらに背中の大剣を引き抜いてみせるものだから、ヒメとジョージの顔から血の気が引いた。


「な、なんで剣を抜いてるの? あ、もしかして、今から剣の稽古けいことか?」


「いいえ、今朝の稽古はすでに終わっております。姫様、用心してください、シグマ様はたまにですが、手が付けられないほどに暴れるのです」


 シグマが獣のような雄たけびをあげながら、ヒメたちのいるほうへ全速力で突っ走ってきた。


「ええええ!?」


「ひとまず逃げましょう!!」


 ジョージが食堂の扉を開けて、ヒメを中へと引っ張り入れた。鍵を掛けたが、すぐにシグマの体当たりに強行突破されて、吹っ飛ばされたジョージが床に転倒してしまった。


「ジョージさん大丈夫!?」


 ヒメはジョージを庇って、前に出た。


「ちょっとシグマさん! 何してるの、暴れないで!」


 そのかんにも、食堂の数多の椅子が泥団子のごとく掴んでは投げられ、掴んでは投げられて、壁がへこんだり、椅子の足が折れたりと、大惨事になってゆく。


 飛び散る破片が顔に当たって、ヒメは頭を両手でおさえて身をかがめた。


「やだ! ちょっとシグマさんってば、落ち着いてよ! あとジョージさんも早く立って! となりの厨房に逃げよう!」


「うう、私を置いてお逃げくださいませ姫様。たぶんもうダメです」


 お尻をしたたかに打ち付けた老人に、素早い行動を求めるのは酷であった。


「肩を貸すよ。掴まって」


 ヒメはジョージを立たせようとするが、痛みでうめいている相手はなかなか肩を掴んでくれず、悪戦苦闘しているにヒメの頭上を椅子がかすめた。ついにヒメもパニックに陥り、金切り声をあげた。


「だ、誰か来てええ!!」


 すると、厨房の扉が開いて、大人っぽいメイドのナターシャが、きょとんとした顔で辺りを見回した。片手に、ベーコンと目玉焼きが中途半端に調理されたフライパンを持っている。


「あらあら。シグマ様、何をしているんですか?」


 話しかけられたシグマはナターシャのほうを見向きもしないで、テーブルを持ち上げようとしているところだった。


「ガブリエル殿が! ガブリエル殿がこの部屋のどこかにいるんだ!」


「え? ガブリエル様がですか? お探ししますので、シグマ様はそのままお待ちください」


 ナターシャはフライパンをテーブルに置いて、軽く首を左右に動かす程度に、周囲を見回すと、もう一度シグマを見上げて肩をすくめた。


「どこにもいらっしゃいませんけど」


「でも匂いがするんだ!! あの血の匂いが! 竜の血の匂いだ!」


 なんのことを言っているのか、ヒメとジョージにはわからなかった。ただただ猛り狂うシグマの姿に恐怖し、固まっている。


「僕が失くした黒の剣とおんなじ匂いがするんだ! ガブリエル殿は絶対にここにいるんだ!」


「ガブリエル様にお会いしたら、どうするんですか?」


「今なら斬れるんだ!」


「はい?」


「今なら、今じゃないと、もうガブリエル殿を斬る機会が来ないかもしれないんだ!」


 ご老人を吹っ飛ばして謝らないどころか、大剣を棒きれのように振り回して、過呼吸気味に奇妙なことを必死に訴えているシグマに、ヒメはだんだん腹が立ってきた。


「いいかげんに――」


「シグマ様、よく見てくださいな。お部屋をこんなに散らかして。お父様に見つかったら、叱られてしまいますよ」


 ほんのわずかに怒気を孕んだ、女神のように優しく悟す声。シグマの泳いでいた視界が、ようやくナターシャを捉えた。しかし興奮冷めやらぬその様子は、今にもナターシャに危害を加えそうだ。


「お部屋をこんなにしたのは、シグマ様なんですよ? あーあ、椅子をこんなに投げて、壁がへこんでしまいました。お父様はあなたをお許しにならないかもしれません」


「でも、でも! ここにいるんだ!」


「ガブリエル様をお斬りになる機会は、いつかまた訪れます」


「でも!」


「ええ、きっと訪れますから。さあ、椅子を壊してしまったこと、お父様に謝りに行きましょう。わたくしもいっしょに、参ります」


「うう……ううぅ……」


 兜で顔はわからないが、たぶん涙目になっているのだろう、大きな体の騎士団長。片手にしていた大剣を、大きな金属音を立てて鞘に戻した。そして空いた両手で、ナターシャの両手をぎゅっと握った。


「心配しなくても、大丈夫です。貴方ならきっといつか、ガブリエル様をお斬りになれます」


「……うん。ナターシャ、いっしょに父上のもとへ来てほしい」


「もちろんですわ。一緒に、行きましょう」


 一緒に、を強調しながら、シグマの両手を握り返した。


 二人が片手をつなぎあって、部屋を出てゆく後ろ姿を、ヒメと執事は呆然と見送ったのだった。


「す、すごいね、ナターシャ」


「ええ本当に、感服いたします。暴走状態のシグマ様をお止めできる女性は、ナターシャしかおりません」


 異様に静かな城の中で、あの二人が会話しながら遠ざかってゆくのがわかる。食堂のとなりにある厨房も無人のようで、誰かが調理に入っているらしき物音もしない。ナターシャが代わりに厨房に入って、朝食を作ってくれようとしていたのだと察して、ヒメは目を伏せた。


「きっと今頃、マデリンさんも他の仕事に追われてるんだろうな」


「マデリン様は王子付きの侍女でもありますから、メイド長の仕事と人手不足も重なり、おまけに朝にも弱いですから、心労も相当なものでしょう……。わたくしが、もう少し若ければ」


 ヒメはめちゃくちゃになった食堂を見わたし、ここは自分も掃除や事務作業に回らねばと、あれこれ考え始めた。大きなスカートのドレスでは動きづらいから、まずは昨日のメイド服に着替えねばと思う。


 ふと、テーブルの下からサッと動くモノが視界に入って、目が点になった。


「ねえジョージさん、今テーブルの下に、なにかいなかった?」


「え? イタタ……」


 ジョージはていこつあたりをさすって、顔を歪ませていた。


「あ、私が確かめるよ。ジョージさんはそこでじっとしてて」


 動くのならば、動物だろうと思った。野良猫か、大きめの鳥だろうか。さっきの騒ぎで、怖がっているかもしれない。


 ヒメはそーっとかがんで、テーブルの下をのぞいてみた。


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