第77話   本当の貴方

 窓の外を歩く見張りに怪しまれないように、急いで浴室の窓を閉めたとはいえ、浴場を満たしていた濃厚な湯気は、ずいぶん薄くなっていた。


 緑色の大理石でできた湯舟と、湯けむりにため息をつく、見慣れない青年がいた。他には誰もおらず、たった一人で、湯船に浸かっている。


「ひい! 裸だよ」


「そりゃ風呂に入ってるんだから、着てないだろ」


 ヒメは小柄な三男の後ろに隠れてしまっていた。風呂に乱入した側が戸惑い、恥ずかしがるという異様な光景である。


 湯舟に浸かっている青年が、膝をたてて豪快に笑った。


「来ると思ってたけど、まさか入浴中とはね」


 その声は、聞き覚えのあるものだった。大声ではないが張りがあり、大変聞きとりやすい。


(ええ? リアンさんの声だ。けど、しゃべり方が力強くて、なんだか、陽気だな)


 ヒメはエメロ城に来た当日しか、リアンと話す機会がなかった。でも、あの儚いシルエットと、礼儀正しく、物静かで大人びた雰囲気をまといながらしゃべる姿は、ヒメの印象に強く残っている。


「リアンさん、なんですか?」


 ヒメは三男の後ろから出られないまま、顔だけほんの少しのぞかせて、でも直視してよいのか戸惑いまくり、目を泳がせつつ、ちょっとだけリアンの姿を確認した。


 鮮やかなオレンジ色の肌が、湯気でほんのりと輪郭を溶かされながら、二人の前にさらされている。オレンジ色の髪は短く刈られ、おでこにかかる前髪もない。

 青年に恥じる様子はなく、湯舟のふちに背中を預けて、ヒメの反応をうかがうように眺めていた。その口角は上がっている。


「はい、姉上。本当の僕に会いに来てくれたこと、感謝します。湯気がすごいですが、そこから、見えますか?」


 湯浴みに侵入されて怒るどころか、よく見てみろ、と。


 ずっと三男の後ろでおどおどしていたヒメは、おそるおそる、大変おそるおそる前に出てきて、顔を上げた。


 お湯から出た胸と肩は、ともすれば細すぎにも見え、オレンジ色の肌には、黄緑色のつる植物のような模様が入っている。今朝エメロの街で遭遇した、緑色の肌をした春の民にも、同じような模様が入っていたのをヒメは思い出す。


 化粧をしていたリアン王子は、儚く可憐な雰囲気であった。丁寧な物腰で愛想があり、しかし絶対にヒメを内側には入れない警戒心を持っていた。


 今の彼は、体躯は細いが野性的で、自信にあふれて見える。まるで別人のようだが、まぎれもなくフローリアン王子だった。


「初めまして、姉上。これが本当の、フローリアン・フォール・エメローディアの姿です。誰とも似ていない、貴女の弟です」


 自虐的に笑顔で言ってのけるリアンに、ヒメは、言い返せなかった。


 誰とも、似ていないと言われてしまったから。


「……ぁ……」


 毎朝、変装屋を呼んでいたのは、化粧のためではなく、エメロ人っぽく変装するためだったと、マデリンが言っていたのを思い出す。


「その……なんて声をかけたらいいか……」


 城の若い者が、どうして逃げるのか。城にいる年配者が、どうして王子に辛く当たるのか。なぜ皆が、彼の存在に否定的な振り回され方をしていたのか。


「僕はエメロ人の血を引いていません。もっと残酷な真実を言えば、エメロ十三世の血を継いでいません」


「……」


「正妻であるマリア王妃のあとに、極寒の地を治める大国から嫁いできた女性がいました。名を、カタリナ。エメロ国を混沌に陥れた、魔女です」


 エメロ十三世のもとへ嫁いできた女性が、春の民と浮気してできた子……説明されるまでもなく、ヒメにも察しがついてしまった。


「姉上が、どんな事にも積極的に介入してゆく性格であることは、ここ数日間で嫌と言うほど思い知りました」


「あ、はい、すみません」


「今朝、メイドに扮してまで市場で購入された果物、美味しかったですよ。ありがとうございました」


「本当にすみません! お出かけ用の服、準備してくれてありがとね」


「本棚に用意していた資料でも、熱心に勉強されていたとか」


「あ、うん! あの本棚、リアンさんが用意してくれたんでしょ? とっても助かってるよ。もっと読んで、勉強しておくね」


 ヒメは明るい話題にすがっていた。ともすれば失礼にもあたるほど、にこにこしていた。


 王子は、なぜか壁側にぼんやりと視線を移して、ため息をついてしまった。


「リアンさん?」


「王子、今更なに躊躇してんの? あきらめて全部話しちゃいなよ。ヒメを呼んでくるように言ったのは、王子だろ」


 え、そうなの? とヒメがつぶやいた。


 リアン王子は、さほど迷う性格でないのか、静止している時間は驚くほど短かった。湯に沈めているだけだった両腕を組み、再びヒメを見上げた。


「なんにでも積極的に介入して、己自身で経験して学んでゆく貴女にとって、今のままの状況は、大変歯がゆいものだったでしょうね。ガビィとマデリンが何かをひた隠しにしていることにも、不満があったでしょう」


「あ……ああああの、えっと、うん、まあ、はい、そうです」


 リアン王子の、虹色の虹彩に深く見つめられて、ヒメは焦りを隠せずに、視線が床の大理石を泳ぎだす。ずっと心の内に抱えていたもやもやを、そうであろうなと第三者に見透かされていたのは、かなりショックだった。しかも、今この場で、それを言い当てられるのは、まるでヒメのほうが裸になったみたいである。


 いちいちリアン王子の発言に狼狽して、ヒメは舌も頭もうまく回らなくなってきた。


「ふ、二人が隠してたのって、リアンさんが、春の民に似ているからってことだけなの? それだけだったら、私はぜんぜん気にしないよ。エメロ国民は、どう思うのか、わからないけど……でもさ、今まで通りお化粧してれば、きっとばれないよ。変装屋さんの技術は、すごいから」


 アハハ、と作り笑いも引きつってしまうほど、心の中にいるもう一人の自分が「そんなわけないじゃん! 鼻かんだだけでも化粧が落ちたんだよ!? ごまかし続けるのは無理があるよ」と必死に訴え続けている。だが、他にどうしたら良いのか、なんと言えばよいのやら、ヒメにはさっぱりわからなかった。


 他人の入浴中に無断で飛び込んでしまった時点で、すでに頭が回らなくなっていたのである。


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