第78話   僕のヒーロー

 一歳で四歳ほどの、二歳で七歳ほどの成長速度だった。三歳の誕生日を迎えた頃には、リアン王子はすでに十歳児と変わらぬ外見となり、エメロ王が反対する中、剣の稽古けいこを付けたほうがいいという周囲の勧めから、三歳児にして武術と勉学をみっちり仕込まれる毎日だった。


(……宿題、ようやく終わった。指、痛いなぁ……)


 勉強机からようやく離れることができて、一人、部屋の中でほっとため息をつく。


 大量の宿題は必死でこなしていたが、剣の師とは相性が合わず、毎日ぼこぼこにされていた。打撲跡が痛くて眠れず、しかし鎮痛剤は使い過ぎると体に悪いと周囲から止められており、一度も使用されないまま、王子は今日も眠れなかった。


(父上のご病気が、明日には治ってるといいな……おやすみなさい。もう僕は、一人で眠れます)


 クマのぬいぐるみを抱っこして、独り、大きな寝台にもぐりこむ。寝巻ねまきには着替えていたのだが、宿題をさぼることはできなくて、深夜まで起きていたのだった。


 エメロ王の容態は日に日に悪化する一方で、リアン王子は誰かに弱音を吐くこともできないでいた。せめて早く王の跡を継いで、一日でも早く父を安心させてあげようと、勉強に励んでいた。


 それが父にしてあげられる、今の自分の精一杯だった。


(んん……トイレ行きたい……)


 眠れないまま寝台に転がっていても、のどが渇いたり、トイレに行きたくなったり。今日はジュースを飲み過ぎてしまったかもしれない。


(ジョージは……あ、そっか、いないのか。朝と昼だけなんだよな、ジョージがいてくれるの)


 執事ジョージは父の命令で、王子に仕えていたが、それは昼間だけのこと。夜は交代で別の執事が来るのだが、その執事は時間にだらしない若者で、いつ呼んでも来てくれない。


「誰かいないか?」


 身を起こして、扉の外へ声をかけるが、案の定、返事がない。


(父上がお倒れになられてから、城に仕える者たちがどんどん不真面目になってゆく……。これも、僕の見た目がエメロ人っぽくないってだけの理由なのか)


 ふと、天井付近から、何者かの気配を感じた。リアン王子は見上げるだけで、特に声はかけない。初めて気配に気づいたときは驚いたものだが、今では、特に何もせずにいるこの気配に、慣れてしまっていた。


(僕を狙ってるわけじゃないみたいだけど、夜になると、なぜか天井裏に来る。いつもこんな所で、何をしてるんだろう)


 奇妙な隣人の気配に、ぼーっと上向いていると、ふと、また別の気配が。今度は部屋の、扉の外……廊下から、瞬く間にこの部屋へと近づいてゆく。


(誰!? 天井にいる子とは、ぜんぜん違う感じがする。怖い……でも、トイレには行きたいし……)


 今、声を発してはいけない。そう本能が告げている。だが、トイレに行きたい生理的欲求を長時間抑えることは、子供の体では無理だった。


 寝台を静かに下りて、おそるおそる、扉へと近づいてゆく。もしかしたら、全ては自分の気のせいであり、部屋の外には誰一人立っていないのかもしれない……そう思っていた矢先、扉のノブが、慎重な速度で回りだした。


「え……」


 ちょうど取っ手の内鍵を開けようとしていた王子は、手を引っ込めた。目の前で、まるで音を絶対に立てないように配慮した速度で、三回、だが、施錠してあるノブは、半回転もしなかった。


 今度は、鍵を差し込んだ音だろうか、カチャカチャと小さな金属音が鳴り始める。


 合い鍵はジョージが持っているはず、しかし扉を挟んで目の前にいるのは、ジョージではない。彼ならば、こんな悪い冗談を、今ここでこんな真夜中にしない。


 わずかに振動しながら鳴り続ける取っ手に、目を釘付けにするしかできないでいた。


 バシュッという、奇妙な音がした。


「だ、誰だ!」


 野太い怒鳴り声。


 静寂な夜の合間に、高速でぶつかり合う、耳障りな金属音。打撃音、壁を蹴る音、何かが割れる音、落ちる音、様々な争いの気配が、王子の神経をたかぶらせた。


「ウグォ! オエェ……き、貴様……うぅ……」


「だ、だれなの!? なにしてるの!?」


 リアン王子は気持ちが昂りすぎて、ついにいてもたってもいられなくなり、思わず取っ手を掴んで、扉を開けてしまった。いつも廊下を優しく照らす、壁にかかった大きな燭台しょくだい蝋燭ろうそくたちが、全て消えていた。


 鼻腔の奥を貫く、生温かな血の臭いが、足元から昇ってくる……。すぐそこに、即死するほどの衝撃を加えられた何者かが、転がっているようだった。


 恐怖のあまり動けず、部屋に戻ることもできずに、王子はその場で縫い留められていた。


 窓から差し込む月明かりのみで、夜目が効いてゆく。王子は、嫌でもその虹色の両目で、真実を目の当たりにした。


 足元で倒れていたのは、うなじあたりを手で抑えて、膝とひたいを絨毯につけている、見覚えのある体格の男だった。頭部の周辺の絨毯に、咲ききった薔薇の花みたいな染みが広がっている。


 剣の師だった。


 その太いうなじには、大きなナイフが半分ほど肌から露出して刺さっている。


「ひっ……!」


 条件反射で吸い込んだ息が、勝手に喉を鳴らした。焦って両手で、口を覆う。


 少しだけ自分と離れた位置で、黒い衣をまとった少年を見つけた。壁に背を預けて、じっと目をつむっている。その雰囲気は静かなもので、影に徹していた。


 殺意もなければ、干渉する気配も見せない。夜目が効かなければ、永遠にあの少年の存在には気づかなかっただろう。


「……も、も、もしかして、僕を、守ってくれたの?」


 少年が驚いて、金色の眼球を見開いた。


「……え? 見えてるの?」


「うん……」


 剣の師に少し斬られたのか、顔のあたりにぼろぼろの黒い布が垂れ下がり、黒いうろこに覆われたその素顔が……王子はもっとよく見ていたかったが、少年がとっさに、首元を巻いている黒い布を手で引き上げて、素顔の下半分を隠してしまった。


「守ったっていうか、お金で雇われて用心棒してるだけ。夜だけだけどね」


 本当はここに次男のガビィがいるはずだったが、今はグラム伯爵の屋敷で、常人では手に負えない狂暴な青年を指導するためにエメロ王からグラム伯爵邸へと派遣されている。青年の名前はシグマといい、十日に一回は死人を出す、熊のような男であった。


「僕が、エメロ国の王子様だから? だから守ってくれたの?」


 確認を取るように、追いすがるように、王子は暗殺者に尋ねた。


「そうだよ」


 見知らぬ少年に、即答された。

 エメロ国の王子だから、人を殺してでも守った――と。そこまではっきりと言われたわけでなくとも、王子の耳にはそう聞こえた。


 手を血に染めながら、迷いなく、誰が王子なのかを、この少年は答えた。


 わかってくれていた。


 認めてくれていた。


 いつ雇われた子なのかは、わからないけれど、雇われたその日、その時から、彼は自分をずっと見守ってくれていたのだ。


「じゃあ! 天井の上を歩いていたのも、きみなんだね!」


「え? 気づいてたの? ……きみって神経が過敏なんだね。生きてくの大変そう」


 三男はたまたま、本当にたまたま王子の部屋の近くで、不審な動きをする男を追跡していた。もしもこの場にいたのが、他の竜の巣の民であったなら、こんなに優秀な王子には、育たなかったかもしれない。


「王子、泣いてるの? ……そりゃそうか。今夜のコレは、悪夢でも見たんだと思って、早めに寝ちまいな。片付けは俺らがやっとくし、外も俺らが守っとくから」


「きみの他にも、僕を王子様だって思ってくれてる人がいるんだね!」


 まるで、ようやく水をもらえた植物のように、目をうるませて虹色の目を輝かせる。指や腕には包帯が巻かれ、顔はあざだらけで、それでも、この世界で生きてゆくための糧を得られた喜びに、花開く。


「ありがとう! 本当にありがとう! きみの顔、もっとよく見せて!」


 駆け寄って、細い両腕を伸ばしてくる。


「なっ、ちょっ、やめろ!! 服引っ張るなって」


「わああ、すっごく綺麗な目! 琥珀みたい! かっこいい!!」


 無理やりかがませて、その顔をのぞきこむ王子の、なんと無邪気なことか。ぴょんぴょんと跳んで踏みつけているのは、人から流れた鮮血の染みこんだ、草花模様の絨毯。


「僕、僕、頑張るよ! これからも、ずっと。もう怖くない、迷わない! 僕は王子様なんだ。父上を守れる、たった一人の家族なんだ!」


「あーあー、わかったよ、大きな声を出さないでくれるかな?」


「ねえ、トイレについてきて。もしも誰かが襲ってきたら――迷わず殺シテネ」


 ん? と三男が怪訝そうに眉をひそめた。一瞬だけだったが、今、たしかに――誰かが止めねば取り返しのつかない事態を引き起こすような狂気を感じ取った。


 この、三歳児から。


王子様この僕を守るのが、役目なんでしょ? 僕、今まで以上にもっと頑張る! だから、僕のことずっと守っててね! 応援しててね! 約束だよ!」


 迷いの消えた虹色の双眸が、狂気じみた依存性をこめて、三男の両手を握った。指を絡ませ合い、しっかりとその手とつなぐ。


 今しがた殺人を犯した手と。


(やっぱこいつ、エメロ王のガキじゃねーな……あの王の子なら、こんな目をして喜んだりしないだろうよ)


 黒い鱗に覆われた、異形の暗殺者と、不義の末に産まれた王子との間に、狂ったきずなが芽生える。否、この日からエメロ国の全ての権限は王子へと移った。動けぬ王に代わって、頑張ると決意した王子の気合は異常なほど跳ね上がり、そして、竜の巣の民という禁忌に躊躇なく手を染めあげて、弱小国だったエメロをからじょうへと押し上げていった。


 誰も、彼を止められなくなっていった。


 竜の巣に預けられている、たった一人の少女を除いて。


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