第58話   シグマという男②

「シグマさん怪我してたの!?」


「いいえ」


「え、でも、頭の包帯に血がたくさん――」


「僕の血ではありません」


 その返答に、ヒメは目が点になった。脳の処理が追い付かず、少しの間、瞬きするだけの人間となった。


「どういうこと? 他人の血で汚れた包帯を頭に巻いてるの?」


「はい」


 ヒメを見下ろすシグマは、おそろいの形の石を拾った子供のような笑顔になった。


「姫様も、僕のこと理解できないんですね」


「うん、まったく……」


 ヒメは数歩、後退あとじさった。


 ドン引きされていることに気づかないシグマは、小脇に抱えた兜を見下ろす。


「この兜をかぶっていないと、頭を怪我したのかと大勢に訊かれるんです。それが恥ずかしくて、ずっとかぶっていました」


 ほかに恥ずかしがる点が多々あるような、とヒメは思ったが、もう口が、思うように回らない。


「その血は、いったい誰の?」


「ガブリエル殿です」


「え!?」


「彼だけなんです、僕と会話してくれるの。他の人は、僕が気配を消して近づかないと、逃げてしまうんですけど、ガブリエル殿は、ご自分から僕に、話しかけてくださるんです」


 もじもじとしゃべる彼に、ヒメは錆びて開かない扉と戦うようなりきみ具合で、声を絞り出した。


「……あの、ガビィさんの血が付いた包帯を、頭に、巻いてるってことで、いいんだよね」


「はい」


 なんの抵抗もなく、彼は正直に返事をする。嘘をつかなそうな彼だからこそ、ヒメはカッとして青い目を見開いた。


「ねえ! その包帯はいつもらったの!?」


「もらったわけではありませんが。今朝です」


「腕!? 腕だった!? そこまではわからない!?」


「彼の左腕の動きが若干、不自然でしたので、おそらくは左腕です」


 どうしてガビィの包帯を、シグマが頭に巻いているのかという大きな疑問は、大きすぎてヒメの頭から抜けてしまっていた。


(そんな……あの襲撃から何日も経ってるのに、まだ傷口がふさがってないなんて)


 シグマの頭を覆う布は、ほとんどが茶色く染まっている。ヒメはぎゅうっと胸の前で両手を握りあわせると、落ち着きなく、床に視線を泳がせた。


「シグマ様」


 ずっと廊下の椅子に座っていた執事が、立ち上がった。


「決闘の日は、姫様のお誕生日から二日後のお昼三時に。稽古場でお待ちください」


「あ、はい! ありがとうございます!」


 失礼します! と勢いよく頭を下げて、シグマは鎧を鳴らしながら足早に廊下を歩き去っていった。


 その様子を、ヒメはあんぐりと口を開けて、痙攣しながら見送った。パッとジョージに振り向いて、目尻を吊り上げて詰め寄る。


「ジョージさん!! なんてこと言うの!! 私がシグマさんに勝てると本気で思ってるの!?」


 マデリンとだって、ナイフが無かったら勝てなかったのに。常に全身を鎧で覆っている彼の、どこをナイフでとどめれば良いのか見当もつかない。


 ヒメに胸倉を掴まれそうな勢いで詰め寄られて尚、ジョージは動じていなかった。


「姫様。シグマ様はお父上であるグラム伯爵の指示には、従うのです。姫様とわたくしでグラム伯爵に掛け合い、絶対に姫様が怪我をしないようにルールを作ってもらいましょう」


「え……私が有利になるルールを作るってこと? なに作っても、勝てる自信がないよ」


「勝たなくても良いのですよ。一国の姫が騎士団長を倒してしまう事態のほうが、わたくしは胃が痛いですな。助言を差し上げますならば、互いに片手に持ったボールを、先に三回落としたほうが負け、というルールはどうでしょう。姫様は身の危険を感じたら、わざとボールを落とせばよいのですよ」


「え~、わざと落とすなんて、卑怯じゃない?」


「シグマ様は加減を知りません。たとえ稽古けいこ用の剣だろうが、練習相手を殺害してしまうのです。それも、ごく普通の練習感覚で」


 練習相手に、お願いします、と丁寧に頭を下げて、血まみれで動かなくなった相手に、ありがとうございました、と丁寧に頭を下げるシグマの姿が、ヒメの目に浮かんだ。


「ちょちょちょちょっと待って!! 被害者が出てるの!?」


「はい。グラム一家を恨んでいるお人は多いでしょうな」


「そんな人を雇ってるなんて! このこと、エメロ王やリアンさんは知ってるの!?」


「存じておりますとも。だからこそ、シグマ様を身近な場所に置いて、監視しているのです。今は、ガブリエル様がシグマ様の監視役を勤めております。グラム伯爵もおいでくださいましたから、しばらくはシグマ様がどなたかを撲殺する事態は避けられるでしょう」


 なんてこった、とヒメは目眩めまいがした。

 大金を積まれた仕事でしか、暗殺をしない竜の巣の民のほうが、よっぽど可愛いと思えるほどに。


「姫様、どうかシグマ様を、受け入れてくださいませ。彼には少しでも多くの理解者が必要なのです」


「無理……絶対無理。だって練習相手になってくれた仲間、殺してるんでしょ?」


「はい。二桁ほど」


「無理だって!」


「今すぐでなくて良いのです。じっくり時間をかけて、シグマ様を理解してあげてください」


 老齢の執事は椅子から立ち上がり、長い間眺めてきた廊下と、いろいろな問題を抱えた人々の後ろ姿に、思いをせた。彼らの未来に、自分はあと何年寄り添うことができるのだろうかと。


「グラム伯爵とマデリン様にとって、彼はかけがえのない家族なのですから」


「シグマさんはマデリンさんのこと、忘れてたみたいだったけどね……」


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