第59話 突撃、ガブリエル様のお部屋!
「姫様……未婚の
「ちょ!? ヘンなこと言わないでよ! 今は夕飯前だし、それに
ハンカチで目頭を覆ってしくしく泣き真似するヘンな爺さん。でもガビィの部屋まで案内してくれると言うので、ヒメはしぶしぶ彼と行動を共にしている。
「ガブリエル様は、王子の
そう説明したとたんに、ジョージはハッとヒメを見上げた後、慌てて来た道を戻りだした。通り過ぎていた扉の前まで戻ってくる。
「わたくしとしたことが。歳は取りたくないですな」
「この扉? なんか、つるっとしてるって言うか、地味っていうか、あ、うちの竜の巣ではこういう扉が一般的なんだけど」
ヒメはすっかりエメロ国の扉の文化に染まっていた。
ガビィの部屋だというそこは、小さい扉ではないのに、古株のジョージすら通り過ぎるほど目立たない。扉表面の自然な木目が、壁紙の草花の抽象画と溶け合っているせいだった。
「お花の彫刻は嫌がられましたので、というより、どの彫刻も嫌がられましたのでー、そのー……」
「あはは、ガビィさんらしいや」
想像に
(よし、ちょっと笑ったら、緊張がほぐれたぞっと)
ガビィは忙しいから、部屋にいるかわからないとジョージが言う。ヒメは深呼吸一つ、扉に片手を寄せて、こんこんと指で叩いた。
「ガビィさん、私です」
すると、椅子にでも座っているのだろうか、衣擦れと何かの軋む音が聞こえた。大きなため息も聞こえるが、これはヒメの訪問に対してではなく、疲労からくる深いものだった。
「……どうした?」
かすれた声で尋ねられたとたん、ヒメの脳裏に、ふっとよみがえる、本日の走馬燈。今朝はマデリンと一騎打ち、その後は
おまけに今、ガビィにどんなふうに思われてるのかも気になってきた。
(うわああん、めんどくさいヤツだって、思われてるんだろうな~きっと)
悲しくなって、「なんでもない」と言いそうになり、慌てて気を強く持った。
「その、け、怪我っ、あの、怪我の様子を、見せてほしいの」
噛みっ噛みになった。なんだか、息が上がってきて、体が熱いような気もするが、今ここで自室に引き返すわけにいかない。
「……見てどうするんだ」
「あれからまだ血が止まってないのは、おかしいよ。私、少しなら手当ての知識があるから、片手でするのが大変なら、その、私が、傷を縫い直す、から……」
ヒメの後ろに立っていたジョージが、おえっと小さくえずいていたが、ヒメは気づかない。
部屋の奥から、またため息が。
「さてはシグマか? ……人のゴミ箱を持ってゆくから、何事かと思ったら、姫に報告するとはな」
理由も告げずにゴミ箱を持ち去られても、ガビィは何事かと思うだけで、特に気にしていなかったようだ。
「腕の心配なら不要だ。部下が糸を抜いて縫い直した」
「そ、そう……。あ、ねえ、ちゃんと休憩してる? リアンさんもそうだけど、マデリンさんもあなたも、休んでないよね? そうだ、みんなでいっしょに晩ご飯食べようよ。それか、お茶飲もう? ゆっくりしようよ、ね?」
「姫の誕生日までは、誰も休まないぞ」
頑固な返事。
竜の巣の民にとって、負傷は未熟者の証、つまり恥ずかしい事だ。怪我を見せたがらない気持ちはわかるが、未だに分厚い壁ばっかり作られるとヒメだってイライラする。
口をとんがらせて、扉の取っ手に手を掛けたが回らない。
「オエッ!!」と、大きくえずいたのは、ジョージだった。
「姫様! 縫い直すとか傷口とか、この胸やけに苦しむ年寄りになんの恨みがおありでしょう!」
「え? え? なになに?」
「はぁおやめくださいませ、魚の内臓でも悲鳴が上がりますのに」
ジョージは先ほどまで目頭を覆っていた白いハンカチを口元に当てて、執事服の胸ポケットに入れていた一本の合い鍵を取り出すと、
「ガブリエル様、洗面台をお借りします!」
「は?」
扉を合い鍵で開けるなり、白いカフスをひらめかせてヒメの片手首を掴むと、勢いよく部屋へとなだれこんだ。
「ええ!?」
引っ張られて、ヒメはガビィの私室に転がり込んでしまった。ガビィは鍵穴がガチャついた物音に警戒して立ち上がったのだろう、寝台を背にして立っていたが、ヒメに正面衝突されて二人一緒に寝台に倒れ込んだ。
「きゃああ!! ご、ごめなさい!!」
シーツに手をついて顔を上げたヒメは、自分の首にかかった巨大なエメラルドが、ガビィの眉間に乗っかっているのを見て、この石が彼の眉間を強打したことを悟ってさらに悲鳴をあげた。
そんなことをよそに、マラソンランナーのごとき見事なフォームで、他人の部屋を疾走する執事。洗面所の扉を音高く開閉して、中へと消えた。おえええっとえずき始める。
ガビィが寝台に寝っ転がったまま、首だけ動かして洗面所を凝視した。
「……なんなんだ、あの爺さんは」
マリーベル姫の、執事である。
ヒメが大慌てで怪我人の体から下りようとあたふたしていたら、とつぜん大きな手で背中を押されて――否、抱きしめられて、着衣の上から厚い胸板に押し付けられた。
「ふぇっ」
くしゃみ寸前のようなヘンな声が出て、ヒメは消毒液と、初めてガビィのにおいに包まれた。
砂っぽいにおい。ずっと外に出ていたようだ。そう言えば今朝がた、去っていった使用人を呼び戻すと言っていたのを、ヒメは思い出す。
ガビィが寝台に片手をついて、起き上がった。もう片方の手は、しっかりとヒメを抱き寄せたまま。
(ああ、上に乗ってる私が、床に落ちないように支えててくれたんだね)
(姫を腕に抱えるのは、十六年ぶりだ……)
ガビィと向き合う姿勢で、その膝の上にまたがっているヒメは、部屋の開きっぱなしになっている扉が大変気になった。
「あの……ガビィ、さん?」
おろおろと青い目で訴えるヒメの、その目をのぞきこむように、真っ赤な炎珠が迫ってくる。絵本の表紙の、あの竜の目に心ごと囚われた、あの感覚が蘇り、ヒメの背筋をぞくりとさせた。
赤くて長いまつげに囲まれた、いつもは眠たげな両目が、今だけ大きく見開かれている。縦に細い瞳孔が、ヒメの戸惑いに満ちた表情を映していた。
(少し前まで、おくるみに包まれた赤ん坊だったのに……不思議な感覚だ)
ヒメは気づいた。彼の目は眠たげなのではなくて、ネイルとよく似た、物憂げな眼差しなのだった。こうして不意打ちで驚かされたり、考え事をしたりすると、獲物を前にした猫のような目付きに変わる。
(姫を誘拐するのは、楽ではなかった)
すぐに終わる簡単な仕事、竜の巣の民の誰しもが、そう思っていただろう。しかし、ガビィたちを待っていたのは――
寝台に片手をついた状態で体を支えていた腕を、そっと動かして、ヒメの顔へと近づけてゆく。
ぺそっとおでこに、筋張った大きな手が張り付く。叩かれたのかと勘違いしたヒメは、嫌われた~、と泣きそうになったが、ガビィの視線は、ヒメのおでこと真剣に向き合っていた。
「熱がある」
「へえ? ねつ……?」
「姫の平熱がどれくらいか知らないが、腕に伝わる体温が、高い」
ぼーっとした表情で見上げるヒメの白い頬は、いつもの三倍は桃色だった。
(ああ……どうりで、すぐに起き上がれなかったり、ガビィさんの腕を、振りほどけなかったりしてるんだ……。あれ? そうかな、私、抵抗してたっけ……?)
ヒメは力が抜けてしまい、ガビィの
「休みが必要なのは、お前だ。自分の部屋へ、戻るんだ」
子供みたいに背中をぽんぽんと叩かれて、ヒメが最後の抵抗とばかりに、包帯に覆われた左腕をなでた。肩の付け根から腕の関節にかけて、白い包帯が綺麗に巻かれている。
「ガビィさんも休んでくれないと、やだ……」
「まだ仕事がある」
「だめ、ガビィさんが、倒れたり、いなくなったりするの、やだから……」
ヒメの呼吸が荒くなり、小さな鼻の頭が、真っ赤に染まっていった。まぶたが震えだし、伏せられた金色の長いまつげから、涙が一筋、頬を伝い落ちてゆく。
「……置いてかないで……ガブリエルさん……」
「……」
どこにも居場所がない不安と、悲しみが、体の震えとなって、ガビィにも伝わる。
病気のせいで、
(あの夜の誘拐は、思いとどまるべきだと、過去の俺に、伝えることができればな……)
ジョージがハンカチで手を拭きながら戻ってきた。ガビィの腕の中で、ぐったりしているヒメを見て、ぽかーんとする。
「いくらなんでも早すぎませんか、ガブリエル様」
「なにがだ! 下品な発言はよせ!」
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