第50話 ヒメ、姫君になる①
食堂に入ると、厨房で何かを炒める音が豪快に鳴りだした。
「わあ、バターのいい匂い」
「姫様、料理が来たら
「え? 今日の授業はお休みするんじゃなかったの?」
「姫様がエメロ国の代表であると自覚された今、鉄は熱いうちに打たねば」
「ハイ、そうでした。私も変わらないとね」
今までの自分の言動に、いちいちみんなが目くじらを立てていたのを思い出して、ヒメは素直に返事した。
「ジョージさんは朝ごはんは食べた?」
「もちろんですとも」
話している間に、料理が運ばれてきた。白いテーブルクロスの上に、できたての具だくさんスープと、春野菜のサラダ、それに焼き立てのパンと、スプーンとフォークが並ぶ。リンゴジュースも付いていた。
こんなに香るほどバターを使ったパンは、ヒメは初めてだった。竜の巣の料理は質素なため、ここにいるとヒメは太ってしまう気がする。
「あれ? エビは? どこに入ってるの?」
「じつはエビを使うというのは、この爺めがついた冗談です」
「へえ?」
「エビは王子のお好きな食べ物なのです。いつか姫様が全ての作法を修得され、王子とお二人で、エビをお召し上がりする日がくるのを楽しみにしておりますよ」
なんでそんな冗談を……と小首を傾げたくなるヒメだったが、ジョージに振り回されるのは今回が初めてではないので、もう、あきらめた。
「王子様の好きな食べ物が、エビかぁ」
「はい、とても大きなエビですよ。今日の
「へえ、見たことないなぁ、食べるの楽しみかも〜。あ、でも、今日やるはずだった食事作法の授業は、うそじゃないよね?」
「はい。これは授業用のメニューです。まずはパンとスープから始めましょう」
へ~、これで練習するんだ~、とつぶやき、ヒメは立ったまま料理を見下ろしていた。
「これ、具だくさんだけど、軽食だよね。私はいいけど、リアンさんが物足りないかも」
心配するヒメに、ふふ、とジョージが微笑んだ。口元に弧を描くように深く刻まれたほうれい線が、今までもずっと、誰かに微笑んできた歴史が長いことを物語っていた。
「そもそも、朝食を使ったお作法の授業は、王子からのご提案だったのです」
「リアンさんが私に、教えてくれるつもりだったの?」
「はい。いろいろとご指導なさりたいご様子でした。きっと、少しでも姫様とお過ごしになりたいのでしょう。王子は今まで、姫様の面影すらも、感じることができなかったのですから」
寂しい思いを、させてしまっていたようだ。ヒメは自分が偽物なのが、とっても恥ずかしくなってくる。
「……本物のマリーベル姫は、自分にこんなステキな弟がいることを、知ってるのかな」
「……」
返答をごまかしついでに、ジョージは厨房へ向かってブラックコーヒーを注文した。
が、胃が荒れるからミルク入れますと返ってきた。
「ぬぬぬ……高齢者が
「ジョージさんはブラックコーヒーが好きなんだね」
「ええ、仕事の合間に。ですがミルクを混入されることがほとんどです」
今朝早くに朝食を食べ終えた彼は、ヒメの分の朝ごはんを見るだけで胸やけする。だが、せっかくやる気になっているヒメの熱意を冷ましては大変と、コーヒーで症状を抑えることにしたのだった。
「姫様、これからも時間を有意義に使いましょう。姫様のお誕生日まで、あと十日。皆の上に立つ者として、ふさわしい
「はい!」
「それでは、始めましょう。まず、全ての基本は姿勢から! 食事のお席で美しく座り続けるためには、まず座るところから! はい、ご起立!」
「え? 立つの?」
ちょうど座ろうと椅子を引いていたヒメは、バターの香りに嗅覚をあおられ、料理から離れがたくなる。
「さあさあ姫様! 王族ぜんたる
「はぁい……」
執事ジョージからの礼儀作法は、妥協が一切ない厳しいものだった。
「まず立ち姿です。頭のてっぺんを、天井から糸で吊られているような感じで立ってみてください。あごは、少し引き気味に」
「天井のない外では、どこに吊られるんですか?」
「天井があるように想像しましょう」
そこには身分の上下など吹き飛び、講師と生徒の一対一の姿があった。
「お腹に少し力を入れて、背筋を伸ばします。お尻はきゅっと締めましょう」
「お尻をしめるって、どうやるんですか?」
「見られると困る極秘情報の書類を、お尻に挟んでいるかのごとく」
「そんなところに書類隠さないよ!?」
「想像上の話ですよ。はい、意識して!」
エメロ国を想う彼の、忠義の厚さと愛情の深さ、それ故の厳しさであり、ときおり飛んでくる「野生児を卒業するのです!」という意味不明な叱責も、心の底から「はい!」と返事ができた。
今後も、ヒメが立ち振る舞いのマナーを意識するたび、この熱意ある執事と、優しい王子の話を思い出すのだろう。
たくさんの人の心配と愛情を受けて、マリーベル姫が前を向いてゆく。
「ひざとかかとは左右ぴったりとくっつけましょう」
「うぐぐ、かかとを意識したとたんに、忘れてた
食事作法の時間も加わって、授業の時間はのびにのび、昼食の時間になる頃には、別の教育係がやってきて、ヒメの行動のクセを
緊急事態には、まず
だって竜の巣の教えと真逆だから。
違う環境で育った人間を短時間で異文化に染めるのは、容易なことではなかった。
そしてヒメは、持ち前の吸収力と柔軟性で、廊下を
小部屋に閉じこもってはいなかったが、若いメイドたちが深刻な顔で何か話し合っていた。
彼女たちはマリーベル姫に気がつくと、廊下の脇に寄って、深々とお辞儀する。
そうして、面倒臭さの塊のような姫様が通り過ぎるのを待つのだ。
ふと、メイドの一人が違和感に気づいて、少し視線を上げた。昨夜も今朝も、声量を考えずしゃべりまくりながら裸足で廊下の絨毯を走り回る野生児が、今はどこにもいない。
静かにまっすぐ歩いてくるその足取りには、昨日までの大騒ぎっぷりが幻だったかのようで。
ぴんと張った背筋に、美しさを追求した優雅な足取り。履いているのはサンダルだが、それすら気取らない気品さゆえだと錯覚してしまう。
しかも、その姫は通り過ぎるどころか、体の向きも靴先の向きも、全て自分たちに向けて気さくに挨拶してきた。
「顔を上げて。少し、聴きたいことがあるの。私のほうからも、話したいことがあるんだ。時間、いいかな?」
はたして、そこに立っていたのは、絵画の中から抜け出してきた、王妃マリアだった。否、彼女とよく似た慈愛の眼差しを持つ、エメロ国の王女であった。
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