第16話   見ツケタ

 ヒメは大変恐ろしかったが、勇気を出して、扉へ近づいた。

「私に、用があるの?」

「ヒメ様、なりません!」

 侍女が赤ちゃんをあやしながら引き留めた。


 ヒメは「大丈夫、扉は開けないから」と小声で侍女を制して、扉へ向き合った。


「あなたたちは、私の名前を呼んでたね。でも私は、あなたたちと会った覚えがないんだ。人違いだよ。だから、もう引き上げてほしいな」


「ヒ、メ……泣イテ、ル……」

 赤ちゃんの泣き声にしか反応していない。


「うーん、聞こえてないのかな」


「何も言わないでおきましょう。通り過ぎるのを待つのです」


「でも、扉が。このままじゃ押し入られちゃうよ。そうだ、顔だけ、私の顔だけでも見せれば、人違いだってわかってくれるかも」


「とんでもない! お顔に傷がついたら大変です!」


「顔はどうせ布で隠すんだし、平気だよ」


「これ以上は、ネイル王子の足手まといとなります!」


 足手まとい。がんばりをばっさり否定されて、ヒメは大変傷ついた。

 いつだって自分は頼られず、仲間外れで、そしてある意味では特別扱いだった。


(こんなときでさえ、何もさせてもらえないだなんて、完全なお荷物だよ!)


 ヒメはもう限界だった。


「私だって、あんな化け物に太刀打ちできないことぐらいわかってるよ! 顔を引っかかれて血だらけになるのも怖いよ! でもこのままじゃ、三人とも殺されちゃうかも! あいつらの狙いが、私と同じ名前の女性なら、なおさら違うとわかってもらわないと!」


「ヒメ様、落ち着いてください!」


 侍女の腕の中で赤ちゃんがずっと泣き叫んでいる。

 それは扉の外にいる侵入者の興味を引き続け、ついに扉に、大きな亀裂が走った。


 ヒメはこれまでにないほど焦った。

「きみと赤ちゃんに何かあったら、ネイ、じゃなかった、長男さんが悲しむよ」


「貴女に何かあったら、王様は主人をお責めになるかもしれません。わたくしたち家族のためにも、ヒメ様はじっとなさってください」


 侍女は徹底してヒメが戦場に立つことを反対した。

 王の恐ろしさを知っているヒメは、言い返せず、しぶしぶ降参した。


「わかった。無理言ってごめん。でも扉がダメなら、窓はどう!? 窓から外に逃げよう」


「ええ!?」


「窓の外を見てくる。きみは赤ちゃんをあやしてて」


 ヒメはしっかり閉じられた窓に近づいて、ふと、耳をつけた。

 あの化け物のささやき声がする。


 ヒメは木の板をそっと押し開けた。

 すると、ちょうどよじ登ってきた化け物の爪に押されて、バァン! と閉じられてしまった。


 そして部屋の扉もバァン! と大破した。


 飛び散る木片とともに室内に放り込まれたのは、顔と体の覆いが派手に損壊した、竜の巣の民の戦士だった。

 胸元を覆っていた黒い鱗が剥がれて、大きな引っ掻き傷からは鮮血が流れている。

 筋肉で引き締まった良い体をしていたが、こんなに筋肉の付いた男性が、やられてしまったということは――


(ど、どどどどうしよう! 訓練を一回も受けてない私が、この人でも勝てなかった化け物と、どうやって戦えば勝てるの!?!?)


 しかも、赤ちゃんを守りながら戦うなんて。

 ヒメは怖くて泣きだしそうだった。


「ヒメ……ドコ……」


 右往左往し始める化け物に、ヒメは我に返った。

 化け物の頭部が、ゆっくりと、赤ちゃんを抱いた侍女へと向けられる。

「逃げて!」

 ヒメは部屋の出入り口を指さした。扉が大破したので廊下が見える。


 ところが侍女は首を横に振って、なんと赤ちゃんを片腕に抱いたまま、もう片方の手で小さな刀を構えだす。


 ヒメの護衛を担う彼女は、王の命令と夫ネイルの面目を保つため、ヒメを残してこの場を離れるわけにはいかなかった。


「エメロー、ディア……?」


 泣いている赤ちゃんの顔をのぞきこもうとする化け物の背中に、ヒメの投げた書物の背表紙が命中した。


「おい暴漢!」


 ヒメは持っていた刃物で顔の覆いを切り裂き、手で豪快に引き剥がした。


「私がエメローディアだ!」


 勢いよく揺れた金色の髪に、曇り一つない白い頬、彫りが深く美しい鼻筋に、険しさを帯びたアーモンド形の碧眼へきがん


 そのすべてを化け物は凝視し、そして頭半分まで裂けた大口をばっくり開けると、すさまじい雄叫びを上げながら、飛び散った。

 部屋中に、白く輝く鱗が散乱した。本棚の本の隙間にまで、鱗が挟まっていた。


 静かになった部屋で、ヒメはへたりこんで、壁にもたれた。

 えたりはじけたり、相手が想像以上に化け物だったことに、今更、体がガタガタと震えだす。


 それでも自分たちが勝利したと信じて、ヒメは侍女に笑顔を向けた。

「あっけなかったね……」


「もう、ヒメ様! 化け物に引っ掻かれたらどうするおつもりですか」


「ハハハ、怒らないでよ」


 侍女は未だ緊張状態が解けず、肩で息をしている。


 床に倒れていた重傷の男性が、苦しげにうめいた。

「あ、大変! お兄さん、ケガ見せて」


 ヒメが男性に歩み寄ろうとした。

 ところが侍女が先に男性に駆け寄って、ヒメを制した。


「わたくしが医務室へ連れて行きます。ヒメ様は、この子をお願いします」


「あ、はい」


 赤ちゃんはヒメの腕に渡った。

 両手の空いた侍女が、男性の上半身を起こす。


 侍女に肩を貸してもらい、男性は時間をかけて立ち上がると、侍女に体幹を支えられながら、よろよろと歩きだした。


 侍女の対応の早さに、ヒメは違和感を覚えた。

 彼女がまるで、傷口や血液をヒメに触れさせないために、率先して動いているように思えたからだ。


 興奮冷めやらぬ赤ちゃんが、ヒメの腕の中で泣き続けている。


 侍女は振り返らなかった。


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