第1章  ヒメの奇妙な日常

第1話   竜の巣のヒメ

 雲を見下ろす高き高き山の奥に、肌寒く薄い空気が、一陣いちじんの風とともに動きだす。


 黒い装束しょうぞくで肌の露出ろしゅつを一切断ち切った少女が、ほおめつける黒い布の隙間すきまに指をかけ、汗ばんだ肌を空気にさらした。

「ハァ……」


 代謝がよくて、すぐに体温が上がってしまう体質の彼女が、するすると黒い布をはいで、肩の出たラフな格好に戻れるのは、この私室だけ。

 手作りのタペストリーで彩られた壁の随所ずいしょには、木でできたまとあての的が、いくつも下がっている。


「よし、練習始めるか」


 金色のボブヘアーの前髪を、銀色のヘアピンでめて、気合をこめて、深呼吸。


 壁にかかった投擲用とうてきようのナイフに手を伸ばして、五本、黒いずぼんのおびに挟んだ。

 両手を胸に当てて、静かに精神を集中。思い浮かべるは、背後の物陰に隠れて自分を狙う、暗殺者、五人。


 少女はさりげない手つきで帯から凶器を引き抜くと、き足で勢いよく回し蹴りして体を反転。背後の的を素早く捉えて、大きく振りかぶった。

 一つの的に、ナイフの先端が音高く貫通かんつうする。


 その音を聞きつつ、ヒメは狙いを次々に変えて、帯から凶器が消えてゆく。

 中心を穿うがたれる木の的。

 最後の一本は、閉じた窓に吊り下げていた木の的に――その窓が突然に開いて、顔を出した相手の眉間みけんにドスッと刺さった。


「いったーい!!」


「あ、ごめん! って、なにひとの部屋の窓、開けてるのさ!! せめて一声かけてからにしてよ!」


 ナイフの刺さった眉間を両手で押さえて「ふえ~!」と声を震わせているのは、全身を黒い布で覆った小柄な少年だった。

 ナイフに切られたおでこの布が、窓枠まどわくにはらりと落下する。


 あらわれた眉間には、黒光りする分厚ぶあつうろこが、まだらに生えていた。

 ナイフはちょうど、鱗と鱗の間にがっちり挟まっていて、少年は片手でスポッと引き抜くと、ニヤッと口角を上げた。


「ヒメさん、着替え中だったの?」


 ヒメと呼ばれた少女は、自分の格好を思い出して、大慌てで背を向けた。


「もう、窓閉めて! それかあっち向いてて!」


「窓のかぎをかけないヒメさんが悪いんだぞ。誰が入りこんでくるかわからないだろ? 用心しないヒメさんが悪い」


「わかったってば、もう!」


 朝、目覚めたときや、いろいろ大変な思いをした後など、風を感じたくて窓を開けて、ぼんやりと景色を眺める。

 雲一つない青空に、肌寒い外の空気……。


 そして、鍵をかけ忘れてしまうヒメだった。


 壁にかかった丸い鏡に、急いで黒い上着を着こむヒメの顔が映りこむ。

 鏡面のヒメの肩越かたごしに、窓辺まどべひじをついて目を閉じている少年の顔も映っていた。


(私にも早く、丈夫な鱗が生えないかな……。まだ生えてないの、私だけだ)


 鏡に映りこむ窓から、風が入る。

 前髪を留めたピンを外すと、金髪が揺れた。


 ヒメは物憂ものうげな青い瞳で頭部全体を凝視しながら、丁寧に黒い布を巻いていった。


「よし、終わり。で、私に何か用?」


 振り返ると、少年が閉じていた目を開けた。瞳孔の細い、爬虫類みたいな大きな眼球の色は、金色だ。


「昨夜の仕事で無茶させたから、疲れてるかなーって思って。これ差し入れ」


 少年が風呂敷包みを片手で投げてよこした。

 とんでもない豪速球ごうそっきゅうを、ヒメは両手と全身で受け取る。


「んもう! わざわざありがと! でも私は、次の仕事も出られるくらい元気だよ。これは、奥さんが?」


「ん。自信作だってよ」


 黒い風呂敷の結び目をほどくと、大粒のナッツクッキーが十枚ほど重なって入っていた。さっきの衝撃でかなり割れたが、ヒメは気にしない。


「わあ! 嬉しい! これ大好きなんだ」


 ヒメはナッツクッキーの匂いをかぎながら、深呼吸した。


「ありがとう、三男さん。奥さんにもよろしく言っといて」

「ほーい」

「それと、窓からは入らないでね」


「えー、窓の鍵閉めの抜き打ち検査は、今後も続けます」

「えー」


 空を飛ぶ鳥の鳴き声とともに、あなたー、と夫を捜す女性の声が聞こえた。赤ちゃんが大泣きしている声も聞こえる。


「あら」

「あれは兄さんの女房だな。ちょっと捜してくる」

「よく泣いてるよね、あの赤ちゃん」

「ああ、大変だよ。あの赤ちゃんは、兄さんにしかなつかないんだ」


 じゃあな、と三男は顔を引っこめて、片手で窓を閉めていった。


 ヒメは窓枠から身を乗り出して、真上を眺めた。

 ほぼ垂直の石の壁の斜面しゃめんをよじのぼってゆく三男が、最寄もよりの窓へと入ってゆくのを見届けた。


 三男の王子は見た目こそ少年だが、ヒメよりもずっと年上で、妻を多く持っている。

 彼だけでなく、ここの男性は妻を多く持ち、どれが誰の妻なのか、そして誰が誰の夫なのやら、老若男女問わず同じ服装なせいもあって、ヒメはお手上げ状態だった。


りゅう』で暮らして、もうすぐ十六年がつのに。


 仕草の特徴や、声の違いで、なんとか区別をつけている状態だった。


「私も、誰と結婚するか決めないとな……」


 独身の女性は、年下の少女たちを除いてヒメだけだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る