針千本

@QE33567

第1話

「人て、誰かを本当に好きになったら、その人のことを全部欲しくなっちゃうんだってね」

 何気なく、他愛ない会話の中で発せられたその言葉を、僕は今でも覚えている。穏やかに笑みを浮かべていた静香さんが、心に何を抱えていたか。それを知ったのは、僕が公園で静香さんと別れた数日後のことだった。

「10分です」

 看守、というのだろうか、それとも警備員か。意識的な事務口調でそう告げられた僕は、小さく身をかがめるようにして薄暗い面会室に足を踏み入れた。刑務所の中で会った静香さんは、覇気の無い顔でげっそりと痩せ、今までに見たことのないぼさぼさの髪をしていた。

 こんにちは、と動かそうとした口からは、ただ「こん」という息だけが漏れ、続く言葉は宙に霧消した。俯き加減で向かいの面会部屋に入った静香さんが、ぼんやりとこちらに目を向ける。

 視線を交わしたその刹那、静香さんの目に、嬉しさと戸惑い、羞恥と驚きが、いっぺんに浮かんだようだった。何となく僕は笑った。そうする以外、リアクションの返しようがないように思えたからだ。

「元気ですか?」

 言い終わるか終わらないかのうちに、何バカなこと聞いてるんだと頭の中で怒鳴り声がしたが、口の動きは止まらなかった。今度は、静香さんが口元にだけ笑みを浮かべた。「かなり、痩せましたね」

 自分の近況報告を織り交ぜながら、静香さんの様子をそれとなく尋ねる。

 就職が決まったこと、あとはもう卒論を書くだけということ、貯金が無くて今はとにかく居酒屋のバイトにシフトを入れまくっているということ。

 静香さんは、ただ穏やかに微笑みながら耳を傾けているように見えた。

 時計の針が指す残りの面会時間が5分、4分と少なくなるにつれて、僕の中でも焦りが芽生えてくる。今日来た目的は、静香にさんに聞きたいことがあったからだ。

「静香さん、もし話したくなければ構いません」

 呼吸を溜めて、一気に吐き出すように言葉を発した僕の続きを、静香さんは何かを悟ったような様子で、強引に引き取った。

「私が洋介、あなたのお兄さんを刺した理由は、ただ好きだったからよ。洋介の、何もかもを私のものにしたかった。誰にも、絶対に渡したくなかったからよ」

「そんな。だって、あなたと兄は、間もなく結婚するはずだったじゃないですか。兄が浮気をして、それに耐えかねたあなたが兄を刺したとか、何らかが原因で喧嘩になってあなたが兄を刺したのなら分かる。でも、少なくとも兄に聞いたところ、兄は浮気なんて全く身に覚えもなければ、ましてやあなたと喧嘩さえもしていない。むしろ、兄はあなたと結婚できることが、弟の僕から見ても、本当に幸せそうでした」

 それなのに、何故。

 僕は、じっと静香さんを見つめた。派手では無いが、いつも小綺麗な身なりで薄化粧をしていた静香さんは、今や囚われの身となり地味な白い服に身を包み、間もなく三十路に差し掛かる、少し陰りが見え始めた素肌を以て僕に向き合っていた。

「言ったでしょ、陽平君。人は、誰かを本気で好きになったら、その人のことを全部

欲しくなっちゃうって。私は洋介に愛されていた。それは十分感じていたわ。でも、私は洋介が私にする以上に、洋介のことをずっとずっと強く愛してた。もっと、洋介から愛情を受け取りたかったし、もっと、洋介に愛情を注ぎたかった。私にしか、出来ない方法で」

 そう言うと、静香さんは言葉を切ってふと宙を見上げた。視線の先には、時計が掛けられている。カチカチと時を刻む時計の針が、面会時間の終わりを告げている。

 静香さんの言ったことが理解できない訳じゃない。もし、狂おしいほど人を好きになったら、極端な行動に走ってしまうことだってあり得るかもしれない。

 それでも。

 どうしても、僕には納得できないことがあった。

「静香さん、最後に一つ」

 椅子から立ち上がり、出口に向かおうとする静香さんを僕は呼び止めた。

「あなたは何故、爪楊枝で犯行に及んだんですか? 包丁やナイフとかではなく?」

 ドアから出て行くとき、静香さんは振り返って微笑んだ。

「針千本は、飲ませることは出来なくとも、突き刺すことは出来るでしょ?」

 その時の、最後に見た静香さんの表情を、僕はおそらく一生忘れない。悠然とした笑みを湛えながらも、その顔は悲哀で満ちていた。愛する人に全てを捧げたくて、結果一生離ればなれになってしまった悲しみに、そっと身を浸すような表情を。

 受付で面会カードへの記載を終え、車に戻る道すがら、脳裏に静香さんの言葉が蘇った。彼女は言ってた。「針千本は」と。針千本。それは、兄が何らかの約束を破ったことで行われた報い。それが何であったか。今となっては、誰にも分からない。

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