四月一日

樹一和宏

四月一日


 歩道を歩いていると、数人の小学生達が誰の家に集まるかを話し合いながら僕を追い越していった。大学生らしき男女が手を繋いでいて、サラリーマンが電話の向こうの相手に何度も頭を下げていた。

 ふと顔を上げるとソメイヨシノが揺れていた。陽気な風に煽られ、ひらひらと薄ピンクの欠片を落としていく。

 歩道に沿って植えられた桜の木は、ずっと奥の大学前まで続いている。

 週末の休日。たまには趣味に時間を取ろうと愛用の一眼レフを持ち出したのだが、行く先が思いつかず、ついこちらの方に足を運んでしまった。

 視界の半分を埋めるピンクの群衆。それらを見ていると、急に彼女のことを思い出した。

 よく笑って、怒って、すぐ泣く人だった。

 四月一日。春。

 社会人になってから四年。彼女と別れてから五年が経った。

 彼女は今、何をしているのだろう。

 代わり映えのしない日々。起きて、働いて、寝て。たまに友達とあって、騒いで、それが嘘だったかのようにまた働いて。

 習慣が変わっただけで、僕の生活には何一つ面白みがない。

 今思えば、別れた理由もつまらないことだった。もっと僕が大人であれば、僕達は今も一緒にいたかもしれない。

 肩に桜が落ちた。

 彼女は今、会社で働いているのだろうか、それとも誰かと結婚して洗濯物でも干しているのだろうか。もう会うことも連絡することも出来ない。もう交じらない人のことを考えると、妙に感傷的になってくるのは何故なのだろう。

 カメラを構え、ソメイヨシノの枝葉にピントを合わせた。

 そういえばあの時もこうしていた気がする。こうしていると、また彼女の声が聞こえそうな気がした。


 ※


「桜って絵になりますよね」

「え?」


 突然掛けられた声に、僕は驚いてファインダーから目を離した。

 女性だった。短い黒髪、透明感のある白い肌、幼く見える顔立ち。高校生だろうか。


「初心者が適当に撮っても綺麗に見えます」と悪戯な笑顔を見せてくる。

「そ、そうですね」


 可愛い子だったが、何で話し掛けてきたのか見当がつかなかった。美しい花には棘がある。怪しい人には付いていかないを幼い頃から叩きつけられていた僕は、腹の内が見えるまでは言葉を控えることにした。


「見てください。これこないだここで撮った写真なんですけど」


 携帯の画面を見せてきた。とりあえず見ると、桜の写真だった。画像がスライドされ、数枚の桜を見せられる。素人の僕でも分かるぐらいその写真達は凄かった。

 日差し下で伸びをする枝葉。燃える夕焼けに焦がされた後ろ姿。雨の中待ち人を待つ首を凭れた桜。子供達と戯れる親のような姿。

 同じ桜の写真のはずなのに、喜怒哀楽がハッキリと伝わってくるのだ。


「凄い……」

「ですよね! ですよね! 最近撮り始めたんですけど、もしかしたら私才能あるかなーって」


 引きつった笑みを浮かべていると、女性はハッとして我に返った。


「すみません、私つい夢中になっちゃって」

「いえ、別に…… それであの、何か用ですか?」


 彼女は何のことか分からないのかキョトンとした表情をして首を傾げた。


「用……とは?」

「……え? 何か僕に用があって話し掛けたんじゃないんですか?」

「あぁ! すみません。用はないんですけど、私と同じようにここで写真を撮ってる人を初めて見掛けたもので、つい……」


 そう言った名前も知らない女性は、照れくさそうに笑った。

 変わった人だな、というのが第一印象だった。積極性とか、表情の明るさとか、僕にはないものを持っていて、別次元の人間のようにも思えた。


「よく写真撮るんですか?」と彼女は僕のカメラの液晶を覗こうとしてくる。

「まぁ、たまに」


 彼女の意図を汲んで過去に撮った写真を見せることにした。


「風景が多いですね」


 僕の写真は『狙った被写体を中心に撮る』ということは少なく、そこにある『空気感といった雰囲気を撮る』というものが多かった。


「何だか寂しい写真が多いですね」

「情緒あるって言って欲しいですね」


 彼女は口を抑え「すみません。私またつい」と申し訳なさそうに眉をひそめた。


「まぁ寂しい写真ってのは事実ですからね」


 何か良いことを思い付いたように彼女は「あっ」と声を上げた。


「今日はエイプリルフールですから、私が言ったことは嘘だったってことにしましょう」


 ほんと変な人だな、と僕は引きつった笑い方をした。

 大学の入学式を一週間後に控えた時のことだった。


 ※


 その後どんな会話をして、どうやって解散したのかは忘れた。

 桜を眺めながら歩いていると、いつしか大学前に到着していた。無意味のようにも感じられたあの講義の時間。だけど、こうして遠く過ぎ去った過去を見返すと何か意味があったようにも思えてくる。時の流れで、美化されただけかもしれないが。

 僕はそこにはないはずの青春の残り香に釣られて、構内へと足を踏み入れた。

 キャンパス内の人通りはほとんどなかった。近所の人だろうか、乳母車を押した女性が歩いているぐらいだった。

 建物を見ると、たった四年前なのに、凄く遠いことのように思えた。そう感じるのも、見覚えのない売店や配置の変わってしまったテラスのテーブルのせいかもしれない。

 在学時代、足繁く通った部室棟を覗きに行く。演劇部の作りかけの看板、地下室から漏れ出る軽音部の演奏、映研の窓に貼られたポスターが僕の入学の時のまま残っていた。

 建物内には流石に入らないが、中に入れば、熱に浮かされたような当時の喧騒が、そのまま聞こえてきそう気さえする。

 そういえば、彼女と再会したのはここでだったけか。

 三階にある写真部の窓を仰ぎ見ると、先輩が殴って歪ませたロッカーの一端が見えた。どうやら写真部もまだ、当時のまま残っているらしい。


 ※


「あ、君新入生? もしかして入部希望? ほら、入った入った」


 とりあえず見学と思い部室に寄ってみると、快活な男の先輩に背中を押され、僕は写真部の部室の中に入ってしまった。

 当時の写真部は男の先輩が四人、女の先輩が三人と他の団体と比べても小規模な人数だった。その理由として一番人数の多かった四年生が先月卒業してしまったのと、写真に興味を持つ人が減っているからじゃない? と先輩は語っていた。

 写真に興味を持つ人が減っているというのは、証拠やデータはないが何となく共感した。

 先輩の捲し立てられる話を半分だけ聞きながら、僕はL判で印刷されたアルバムを捲っていた。集合写真や、楽しそうな撮影会の一コマ、文化祭の一ページなど、思い出の写真が収まっていた。


「L判のアルバムは思い出用。こっちのA4サイズのデカいのがガチ用だよ」


 そういって女の先輩から受け取ったアルバムを捲ると、とても学生が撮ったとは思えない色合いの写真が出てきた。色相、明度、彩度、被写界深度、などなどが計算尽くされて撮られていた。

 魅了され、言葉を失うというのを初めて経験した瞬間だった。

 我に返ったのは、ドアがノックされたからだった。小気味良いリズムで鳴らされた音に振り向くと、さっきの快活な先輩が「はいはい」と飛んでいく。

 ドアの先で「新入生?」と僕の時と同じような会話が聞こえ始める。


「ほんと! じゃあ入って入って!」と先輩はドアを大きく開き、新入生に道を譲った。


 一同の目が向けられた先、ドアから入ってきたのは、一週間前に声を掛けてきた彼女だった。童顔の顔立ちのせいか、スーツが似合っていなかった。

 僕は彼女の顔を見るや「あっ」と声を上げてしまい、その声に反応してこちらを向いた彼女もまた「あっ」と声を上げた。

 思いがけない再会に、不安を抱えていた胸の内が晴れていくようだった。


 眠たい一時限目の講義。二年生になったら絶対一時限目は取らないと朝の電車の中で神に誓い、頬杖をつきながら僕は教室の後ろの方で教員を待っていた。教室前方から入ってくる生徒達を見送っていると、それに紛れて見覚えのある人が入ってきた。写真部で唯一の同期となった彼女だ。僕を見つけるや、手を振って隣へとやってくる。


「おはよ、今日も眠そうだね」

「僕はどうして君が元気なのか知りたいよ」

「教えてあげようか?」

「いや、大丈夫。今のはただの皮肉だから」

「朝からハンバーグ食べてるからね」

「……それはもしかして皮肉とひき肉を掛けてるの?」


 彼女は分かりやすく頭の上にハテナマークを浮かべる顔をした。


「君の言ってることはたまに分かりにくいよ」

「住む次元が違うんだ、しょうがないよ」

「ほら! それ! そういうの!」


 僕と彼女はしょっちゅうこんなくだらない会話をした。僕自身も嫌味や皮肉を効かせた台詞を言ったが、満更でもでなかった。

 授業が被れば一緒に受けるし、タイミングが合えば一緒に昼食をとり、部室で顔を合わせれば最近撮った写真の話で盛り上がった。

 僕にも彼女にも、学内で一緒に行動する仲の学友はいたが、互いに趣味の方を優先してしまう節があり、自然と写真部で顔を合わせることが多かった。

 彼女はよく野良猫の写真を撮っていた。試しに僕も構内にいる野良猫の写真を撮ってみせると、犬みたいに喜んでくれて、その味を覚えてしまった僕は気取られないようにたまに猫の写真を撮ったり、風景画に猫をさり気なく混ぜることをするようになった。

 そう接している機会が多いと、次第に相手のことが気になってくるのも自然の摂理で、十月の文化祭で展示会が開かれることになった時、僕は写真を撮りに行くことを口実に彼女をデートに誘うことにした。

 のだが……


「夏は花火を見に行かないといけません」と先手を打ってきたのは彼女の方からだった。


 僕は「丁度、展示会用に花火でも撮ろうと思っていた所なんだ」と返事をし、互いに素直に誘うことも出来ないのか、と後々笑うことになった。

 大学近くの神社で行われる夏祭りに、僕達は行くことにした。混み合う駅前で待ち合わせをし、いつもの服装で首から一眼レフを引っ提げて待っていると、「ごめん、お待たせ」と髪をアップにした浴衣姿の彼女が現れた。

 思わずハッとした。いつもの幼さを感じていた彼女が急成長したみたいで、纏う雰囲気さえも鮮麗されているようだったのだ。

 真っ青な浴衣の中を金魚が泳いでいた。

 見惚れてしまったのは事実で、褒めようとしたが、これまで人の容姿を褒めることをしたことがなかった僕は素直に褒めることが出来ず、かといって「今来たとこ」なんて定番の気遣いをすることも出来ず、結局「カメラ持ってこなかったんだね」なんて関係ないことを言うことしか出来なかった。


「……彼女出来たことないでしょ?」

「なななななんでそんなこと聞くの?」

「べぇーーーつに」


 祭り会場に着いても、彼女は少し不貞腐れていた。

 幾ら話し掛けても「そーですか」「そーですね」とわざとらしく気のない返事ばかりを繰り返す。


「そろそろ機嫌直してくれない?」

「べぇつにぃー機嫌悪くないですけぇどぉ?」とあからさまにそっぽを向いた。


 これじゃあ何を言っても聞く耳は持ってくれないな、と思い、リンゴ飴で機嫌取りをすることにした。


「私はそんな安っぽい人間じゃないんだから」


 なんて言っても、屋台のおじさんに「お嬢さん可愛いからサービスしなくちゃ」と大きめのリンゴ飴を貰うとすっかり機嫌を良くしていた。

 蜘蛛の巣のように境内に張られた提灯が、ぼんやりと赤く光る。神社の境内に並ぶ屋台を、彼女はリンゴ飴をかじりつつ、目移りしながら進んでいく。僕がその後ろをついていくと、時折付いて来ているか確認するために後ろを振り返ってきた。そうして目を合わせる度に、彼女は照れくさそうに笑ってきて、くすぐったかった。

 彼女の写真を撮ったのは、その時が初めてだった。

 振り返ったタイミングでシャッターを切った。彼女は撮られたことに気付いて「何勝手に撮ってるんだー」と怒ってきたが、どこか笑っていて、ただじゃれついただけとなった。

 結局その神社のお祭りでは花火は打ち上げられなかった。

 帰り際、それを口実に「今度こそ花火を撮るために、花火大会に行こう」と僕が誘うと、彼女は「花火以外も撮りに行こうよ」とバイトのシフトを撮った画像を僕に送ってきた。

 暗にバイトがない日ならいつでもいいよという意味だとすぐに分かった。

 一度勇気を振り絞ってしまえば、それ以降は意外と何とかなるもので、僕達は夏休みの大半を二人で遊びまわることになった。その成り行きかは分からないが、夏の終わりには僕達の関係は部活の同期という枠を超えて、恋人という枠へと移り変わっていた。


 ※


 自動販売機でコーヒーを買うと、構内のテラスに腰を下ろした。

 そういえばこのカメラでよく彼女を撮っていたっけ。と思い出し、カメラを操作して昔の写真を見ることにした。

 初詣に行ったり、節分で豆を投げつけられたり、バレタインにリアルなゴリラのチョコを渡してきたり、エイプリルフールに嘘をつかれたり、月見をしたり、また夏祭りに行ったり、紅葉狩りで山に登ったり、ハロウィンで吸血鬼にふん装したり、クリスマスイルミネーションに喜んだり……

 彼女は季節のイベント事は必ずやる人だった。一度だけ、どうして季節の行事を大切にするのか訊いてみたが、特に深い意味はないらしく「一年通して楽しもうと思えば楽しめることが幾らでもあるんだから、折角だし楽しまなきゃ。はい、ポッキーの日」と僕は初めて、あーんをした記憶があった。

 写真を順送りにしていく。当時は何も気にしなかったが、今見ると彼女の写真ばかりが撮られていた。それまで人物の写真なんて撮っていなかったのに。

 リンゴ飴をかじりながら振り返っている写真から始まり、冬服でモコモコした彼女が雪ではしゃいでいる写真で、彼女の写真は唐突に終わっていた。次の写真から寂しい風景画ばかりが並んでいる。

 別れた原因は、日常にありふれた、よくあるつまらないことだった。


 ※


 三年生の冬を迎えるころには、大学で開かれる就職セミナーは毎週のように開かれ、就職課の個別指導は連日予約が殺到していた。

 僕と彼女は喋る機会が目に見えて減っていた。自分のことで忙しいというのもあったし、部活へ顔出すことも難しく、すれ違いが続いていた。

 就職への不安、日々周りから掛けられるプレッシャー、恋人に会えない不満。

 行き場もなく、沈殿していくだけの何かのせいで余裕がなくなってきていたのは確かだった。その状況を冷静に客観視する自分はいたが、行動する主観的な自分は、客観視する自分のアドバイスに従っていられる程、大人にはなりきれていなかった。

 噴火口は近かった。でも、周りも同じ、自分だけではないと呪文を唱えることで、何んとかだましだまし、自分の感情を呑み込み続けることが出来ていた。

 噴火しそうになる原因は、明確に浮き彫りになる不安、プレッシャー、不満の三つだけではなかった。

 あの快活な先輩にもあった。

 たまな暇を見つけて部室へと足を運ぶと、あの先輩と彼女が楽しそうに話しているところに遭遇することが多々あった。快活な先輩と彼女は似ている所があった。日頃楽しそうな所や、活動的で明るい所も。入部当初からも二人が仲良く話しているのを目撃していたが、近頃はやけにそれが目に付くことが多い気がした。

 先輩は四年生で授業もないはずなのに、僕が部室に来る度にその姿がある。彼曰く、「写真部が好きだからつい来ちゃうんだ」とのことだったが、僕にはそれが彼女目的であるようにしか思えなかった。

 講義の合間の移動時間に二人が並んで歩いているのを目撃した。

 苛立ちを感じ始めていた僕がそれについて追及すると「たまたまだよ」と彼女はいつも同じ返事をした。それにも僕は苛立ちを覚え始めていた。

 携帯で連絡を取り、会おうとしたが、合わない時間と合わない日付は否応にも僕達を引き剥がす。僕は無理矢理会える時間を作ろうしているのに、彼女は「合わないねー」と言うばかり。僕に会おうとする意志が見えないのも、腹立たしかった。

 その憤りのせいか、ここ最近携帯で連絡をとっても喧嘩のようなやり取りになってしまうことが多くなった。喧嘩がしたいわけではない。昔みたいに仲良く喋りたいだけのはずなのに、気持ちがばかりが先走って、膨らんで、空回りしていく。

 自分の機嫌の主張ばかりで、相手を思いやる気持ちが蔑ろにされていた。

 そうして払拭されない塵はどんどん積もっていき、やがて僕達は破局を迎えた。

 四月一日。雨。

 別れを切り出したのはほぼ同時だった。僕が「話がある」と言うと、彼女も「私も」と言ったのだ。普段は予定が合わないのに、こういう時に限ってすぐに合う。

 エイプリルフールには必ず嘘をついていた彼女が、唯一嘘をつかなかった日。

 かつて僕が告白した公園で、かつて僕達が出会った日に、僕達は互いに背中を向けた。

 後悔はなかった。ずっと感じていた燻ぶりにもう悩まされることはない。そのはず。そのはずなのに、寂しさがいつまでも僕の後ろ髪を掴んでいるようだった。


 先輩達が卒業して、僕は就職活動で日々駆けずり回った。ようやく念願の内定が出て、ふと足を止めた時、季節は既に、秋になろうとしていた。

 六人程の後輩に囲まれ、居酒屋で内定祝いが開かれた。四年生は僕と彼女だけだが、当然彼女は来なかった。いちよ、たまに写真部に顔を出すことはあるらしいが、僕は別れてから一度もその後ろ姿さえも見たことがなかった。

 お酒が入り、酔いが回り始めた頃、一人の後輩が口を滑らせた。

 それは彼女に新しい彼氏が出来たという話だった。真偽は分からないというニュアンスだった。すぐに別の後輩が小突き、話が煙のようにかき消される。僕に気を使ってか、誰もそれ以上その話をしなかった。僕からも別れた彼女が今誰と付き合っているのか訊くのはおかしいと思って、口にはしなかった。

 気にならない、といえば嘘になる。彼女は今何をしているのだろう。誰と付き合っているのだろうか。就活は終わったのだろうか。どこに就職をしたのだろうか。

 酔った勢いで連絡をしようとしたが、奥底にいる酔い切れていない自分が、そんな情けないことするな、と指を止めさせた。


 卒論を終え、クリスマスを迎えた。今年のクリスマスも一人だと自虐する人達のネタに笑いつつも、心に隙間に入る楽し気な空気は、冬の寒さのせいか、痛みを伴うようだった。

 彼女は今頃、誰と何をしているのだろう。

 新しくできた彼氏と楽しそうにしていることを想像すると、ただ辛くなった。そこで初めて僕は、未練があることに気が付いた。気付いてしまってからは、あの時ああしていれば、こうしていれば、とただ後悔の荒波に揉まれていくだけだった。暗雲は水平線の先まで続き、晴れる見込みはなさそうに思えた。

 冬が去って、春が到来しても、僕の心が晴れることはなかった。

 卒業式を迎え、駅から大学へと続く歩道が、桜で埋め尽くされた。昔はあんなにも綺麗に見えた桜も、今は魅力の欠片さえも感じない。

 久しぶりに大学に行くと、久しぶりに見た連中がたくさんいて、体育館前は軽い同窓会みたいになっていた。僕も友達と再会し、近況報告やらなんやらで笑っていたが、目だけは人混みの中を泳いで、彼女の姿を探してしまっていた。

 結局、式で彼女の姿を発見することは叶わず、写真部の追いコンにも彼女は姿を現さなかった。

 後輩は「来たがっていましたけど、明日からの研修のせいで今日の夜には出発しないといけない、みたいなこと言ってましたよ」と言っていた。それが嘘か本当かは分からない。彼女はエイプリルフールを除き、嘘をつくような人ではないと知っていたが、猜疑心を持つ僕には、どうしてもそれが、僕に会いたくないための嘘であるように思えて仕方がなかった。

 そうやって結局、彼女の姿を見ることもなく、僕の学生生活は終わりを迎えた。

 後輩達と別れて、人気のない夜道を歩く。さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返り、心細さが増していく。

 せめて、もう一度だけでも、彼女の姿を見たかった。それは好きだからとかじゃなくて、彼女がこの後、どういった人生を歩んでいくのか、その一端でも知りたかったからだ。

 駆け抜けた日々を振り返ると、どうしても彼女の姿が必ずそこにあった。

 夏の暑さについて語り合った線路沿いのこと、限定品のスイーツを買うために朝早くから買いに行ったこと、窓辺で微睡んだ午後のこと、部屋の模様替えに付き合わされたこと、星を撮影するために夜中に出掛けたこと、図書館で司書さんに静かにするように怒られたこと、授業をサボって部室でお菓子を食べていたこと、唐突に始まった雪合戦のこと、結局撮れなかった花火のこと……


 ※


 季節は廻り、今に至る。鮮明に思い出せることあるし、あやふやなこともある、きっともう思い出せないこともあるかもしれない。

 後悔はないし、未練もきっと、もうないと思う。あんなに垂れ込んでいた暗雲も、知らない内に僕の心から消えている。時間というものが、如何に残酷で優しいものなのかを今になって実感する。

 大学周辺の写真を撮り終え、帰路に着くことにした。彼女のことを思い出して、彼女と共に過ごしたこの大学の近くにいれば、もしかしたら再会できる、そんな気がしていた。

 当然そんなことがあるはずもなく、僕は駅に向かい出す。

 途中、ふと記憶が蘇り、足を止めた。記憶が確かなら、あの公園は桜が輪っか状に並び囲んでいた。面白い画が撮れると思った。ついでにと思い立ち、あの公園へと足を向ける。

 僕達が別れた場所だが、今ではそれも時間と共に風化して、美化されてしまっている。

 今思えば、当時の僕はまだまだ子供だった。今と比べてどう成長したかなんて、微々たる違いでしかないが、そんな僅かの成長を積み重ねて僕らは大人へとなっていく。

 五時の音楽を流し終えた公園には人気は全くなかった。

 これ幸いと思い、僕は公園の中央に陣取り、夕陽に燃やされる桜にピントを合わせた。

 その時だった。

 しっかりとした形を持って耳に残っていたあの台詞が、指でなぞるように後ろから聞こえた。


「桜って絵になりますよね」


 心が突き動かされて、でも信じ難いそれに、僕はゆっくりと振り返る。

 風が吹いて、間を繋ぐ。

 振り返った先には彼女がいた。

 短かった黒髪は長くなり、幼かった顔立ちもすっかりと大人びて、綺麗になっていた。

 奇跡みたいに出会って、必然のように別れて、奇跡的に再会する。

 彼女は言う。


「君に会えるかと思って」


 僕は必至言葉を探した。

 驚きとか、喜びとか、そういうことを言えばいいのか。それとも彼女の台詞に合わせたことを言えばいいのか。それとも猜疑心のままに、口にすればいいのか。

思い悩み、そして僕は、一つのことに思い当たる。


「今日は四月一日。エイプリルフールだろ?」


 彼女は笑った。相変わらずと笑ったのだろうか、嘘が見破られて笑ったのだろうか。

 肯定とも否定ともとれるその笑顔に、僕は続ける。


「君に会えると思った」


 彼女は笑顔を弱め、微笑みに変えると、優しく告げる。


「君も、嘘が下手だね」


 薬指に光る指輪。その一言で充分だった。

 春風が、心の傷を撫でていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

四月一日 樹一和宏 @hitobasira1129

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ