ぼくの隣にはいつもゴミ箱があった

ろくなみの

僕の隣にはいつもゴミ箱があった。

僕の隣にはいつもゴミ箱があった。いつからかときかれても少し困る。気がついたときから、それはずっとあったのだ。

 そのゴミ箱は、多くの家にあるような筒のような形ではなく、駅に置いてある大きな四角いものによく似ている。紙パックのジュースのような形で、手前側に長方形の口があった。

 隣にゴミ箱がある日常は、僕にとって生活の一部になっていた。たとえばだ。消しゴムを使っている時のことだ。消しゴムを長い間使っていると、当然本体がすり減って、ケースの部分は長くなる。だから僕を含め、大勢がハサミを使ってケースを切り、長さを適当に調節する。その時に切った残骸を捨てるのは、みんな大概は机の下。すなわち床だ。だけど僕は違う。まるでボディガードのようにたたずむゴミ箱の口に放りこむのだ。それが当り前なのだ。

 ほかにも特徴がある。僕の隣のゴミ箱は、みんなに見えていないということだ。それに気がついたのは幼稚園の頃だった。ある日お菓子が配られた。小さな袋にチョコレートが入ったものだ。みんなおいしそうにそれを食べて、そしてゴミは後で先生が配る袋に回収されるようになっていた。その時にも僕は、隣のゴミ箱に、チョコのゴミを捨てていた。

「あれ? けんじくん、ゴミどうしたの?」

 その時の同じ組の女の子に聞かれた。

「ゴミばこにすてたよ」

「え? いつ?」

 きょとんとした顔で女の子は言った。

「さっき」

 女の子はまた目を丸くした。

「はじっこにあるのに、どうやって?」

 その時の女の子は多分教室の端のゴミ箱を指摘したのだろう。だけどそのときの僕にはそれが理解できなくて「ぼくのとなりのごみばこだよ」と答えた。女の子は混乱したように、何度も何度も僕を問い詰めた。僕は女の子がどうして僕の言っていることが理解できていないのかわからなかった。

 別の日にお絵描きの時間があった。家族の絵を描くことになっていた。お父さんを描いた。お母さんを描いた。そしてゴミ箱を描いた。

「けんじくん、どうしてごみばこがよこにあるの?」

 女の子はまたも懲りずに僕に言った。

「だって、ずっといっしょだから」

 女の子は黙り込んだ。どうこたえるべきか考えるように、まじまじと僕を見つめた。その時に僕は理解した。誰も僕の隣のゴミ箱が見えていないことを。

 ゴミがどうなっているか。それは僕にもわからない。ゴミ箱の中を覗き込んでも、中に広がっていたのは暗闇だった。手を突っ込んでも底は感じられないし、捨てたものがたまっているようにも見えない。ただなんとなく、こいつはそういうものなんだと理解することができた。

 小学生になって、自分の部屋が持てるようになった。その日以来、僕の部屋が散らかったことは一度もなかった。なぜなら、僕の隣にはいつもゴミ箱がいたからだ。いらないプリントやテスト、そんなものはぽいぽいとゴミ箱に放りこんだ。そこでとても便利だった話がある。服や教科書だ。ある日のことだ。脱いだ服をなんとなくゴミ箱に捨てた。しまったと思った。捨てたゴミがどうなるかわからないので、取り返しがつかないことをしたんじゃないかと不安になった。だけどその不安はすぐになくなった。捨てた服は畳まれてタンスにしまわれていたのだ。不思議な話だけれど、その時も僕はそういうものなのかと、すぐに理解することができた。教科書も試してみた。ランドセルを開けて、中身をすべてゴミ箱に放りこんだ。するとそれはすべて机の本棚へと移動し、さらにきれいに立てかけられていた。驚いたのは筆箱だ。一緒に入れた筆箱は、机の上に自然な形で置かれていた。僕はその事実に当時は感動すらしたが、今となってはそれが日常になってしまった。

 物理的にゴミ箱が存在できない場所に行ったときでも、ゴミ箱は存在した。たとえば飛行機だ。飛行機の僕が座っていた両隣の座席には人がいた。だからゴミ箱があるスペースは確保できないと思っていた。けれど違った。飛行機の中にあるイヤホンが入っているビニール袋を破いたとき、捨てようと横を見ると、座席の横の肘を置くところに、ミニチュアサイズになったゴミ箱が存在していた。おかしくて思わず笑ってしまった。とりあえずゴミを口の方へもっていくと、ゴミ箱は掃除機のようにビニールを吸いこんだ。

 このことからわかるように、僕の隣のゴミ箱は、変幻自在なのだ。満員のエレベーターのときは、隣の人のサラリーマンの肩に乗るし、細いつり橋を渡った時は、僕の肩にゴミ箱はいた。ゴミ箱は、いつもどこにでも存在した。スペースがある時は普通の大きさに戻った。

 中学生になると、部活動でとりあえずテニス部に入ってみた。何かしら運動をしたかったのだ。その時にもゴミ箱は大活躍だった。たとえば球拾いだ。向こう側のやつが打ってきたボールを籠にためて、ある程度たまったら籠を向こう側に持っていかなければならない。そんなときに、僕はゴミ箱を使った。手に入れたテニスボールをゴミ箱に入れると向こう側の籠に移動した。つまり持っていく手間が省けるのだ。不思議だったのが、誰もその現象に対して疑問を抱かなかったことだ。いつまでたっても向こう側のテニスボールが減らなくて、こっちのテニスボールが消えているのに、それが当り前みたいにみんな受け入れていたのだ。本当に不思議な話だ。

 二年生になって好きな女の子ができたことがあった。クラスの背の高い、髪の長い女の子だ。別に理由はない。なんとなく好きになって、なんとなく目で追ってしまっていた。あの子がクラスの友達と話している時の笑顔とか、真面目に授業を受けている時の表情とか、ちょっとうとうとしている時のしぐさとか、そういうのが全部愛しく思えた。だからとりあえずラブレターを書いてみた。恥ずかしいシンプルな内容に、書き終わってから思わず赤面した。こんなものをあの子に見せられないと思って、僕は隣のゴミ箱に捨てた。そう、いつも隣にいるあのゴミ箱だ。

 すると次の日の放課後のことだ。部活に行こうとする僕をあの子が引きとめた。

「どうかした?」

 彼女は恥ずかしそうに鞄から封筒を取り出した。それは見覚えのあるものだった。

「これ、ありがと。うれしかったよ」

 彼女の持っていた封筒は、昨日僕が書いて捨てたラブレターを入れたものだった。どうやら鞄の中へゴミ箱から移動したらしい。

「でもごめんね、私彼氏いるんだ」

 人生初の失恋だった。心にぽっかり穴が開いたように何もできなくなり、テニスの調子も悪くなった。それも一カ月くらいでふっきれたのだから、単純なものだ。その間僕の隣のゴミ箱は使わなかった。今まで捨てていたゴミが、もしかしたら変なところに届いていたらと思ったら、とたんに隣のゴミ箱が恐ろしくなった。みかんの皮をむいても、今まで捨てていた隣のゴミ箱には捨てずに、部屋にあるゴミ箱にふつうに捨てた。隣のゴミ箱は、少しさみしそうに見えた。

 高校生になった。受験で苦労するようなところじゃない、中の中くらいの高校だ。そのころにはゴミ箱はほとんど使っていなかった。そこでもテニスを続けることにした。上には上の世界があって、とうてい僕には追いつけないような人もいた。だけど僕は頑張った。そんな僕を励ますように、ゴミ箱は隣でずっといた。試合中にコートにあるとものすごく邪魔だったけど、それでも僕は、ゴミ箱のことを嫌いになれなかった。

 ある日初めて女の子にラブレターをもらった。どうしていいかわからずに、僕は久しぶりに隣のゴミ箱にそのラブレターを捨てた。見なかったことにしたかった。だけど無駄だった。ゴミ箱に捨てたそれは、すぐに僕の鞄に戻ってきたのだ。これは捨ててはいけないものだと、ゴミ箱に叱られた気分になった。

 手紙の内容は、まるで中学生の頃の僕のラブレターを読み返したときの物とよく似ていた。ものすごく恥ずかしかった。だけどやっぱりうれしかった。人生で初めて、誰かに好意を持ってもらったのだから。だから僕は彼女を呼び出してこう告げた。

「ありがとう、すごくうれしかった。でも僕は君のことをよく知らないから、友達から始めてもいいかな?」

 それから僕とその女の子は仲良くすることにした。その時の告白の現場にも、ゴミ箱はそこにあった。

 仲良くし始めてから、よく手紙の交換をした。そのころに携帯電話なんて便利なものはなかったから、そういう手段で連絡を取り合うしか手段がなかったのだ。家の電話の子機で、電話をよくした。その子と話すとすごく楽しかった。毎日の愚痴や、楽しかったことを、お互いに報告しあった。その時間が、僕はとても好きだった。それから僕は彼女と付き合うことになった。ゴミ箱に思わずガッツポーズをした。ゴミ箱は当然何も言わなかったけれど、なんだか嬉しそうだった。

 高校を卒業してからどうするかの話になった。

「僕は進学かな。まだいまいち夢とかないし、大学で見つけたい」

「そっか」

 彼女はため息をついた。

「どうしたの?」

「私さ、海外行きたい」

 彼女はそう言った。あまりの唐突な言葉に、僕は固まった。

「語学の勉強したいの。これからはもっと海外のこと考えないといけない。日本にとどまってちゃいけない気がするの」

 行かないでと言いたかった。だけど言えなかった。彼女の可能性を僕なんかのために捨てないでほしかったから。

「わかった」

 そう言うと彼女はありがとうと僕に言った。その目はうるんでいて、今にも涙がこぼれてしまいそうだった。僕はどうしようかと悩んだ。どうしようもできなかったから、彼女の手を握った。彼女は泣いた。ぼろぼろと涙をこぼした。僕は彼女を心配させないように、必死で涙をこらえた。隣のゴミ箱は、何も言わずに、ただどこかを見ているようだった。

 大学に行き勉強を頑張った。友達は高校のころに比べたらあまりできなかったが、ごく少数の人と僕は仲良くしていた。飲み会の時の席でも、ゴミ箱はあいている座布団に座っていたり、あたかも僕の保護者であると主張しているようにも見えた。

 どんな時にも、あの子のことを忘れたことはなかった。手紙も毎週交換していた。だけどそれも長くは続かなかった。女の子の手紙が来る周期は、日に日に長くなり、いつしか手紙をやり取りすることはなくなってしまった。

 数ヵ月後に、もう手紙は終わりにしよう。幸せになってください。と書かれた手紙が届いた。

 それを三回ほど読むと、僕は今までやり取りをした手紙をすべて読み返した。何百通とある手紙を閉じたファイルを眺め、一通一通じっくりと文字を追った。読んでいると涙が出てきて、文字がかすれて読めなくなった。嫌になって僕は、思わずファイルをゴミ箱に捨てた。捨てたファイルは僕の頭上に出てきて、角の部分が頭に当たった。激痛が走り、部屋の中でうずくまった。ああ、またこいつに僕は叱られたんだなあと思った。

 それから三年がたった。就職活動も無事に終わり、小さな企業に就くことになった。毎日デスクワークをして、家に帰り、酒を飲んで寝るだけの生活になった。それでも僕はあの子のことを忘れなかった。

 ある日会社が倒産した。僕が働いて二年目のことである。突然のことで意味がわからず、僕は茫然としていた。

 ゴミ箱は何も言わずに、酒を飲む僕の隣に立ちつくしていた。ビールの缶を放りこんだ。僕の頭上に降ってきた。もう使うはずのない書類を捨てた。それも頭上に降ってきた。何を捨てても、ゴミ箱は僕のゴミを捨ててくれなかった。

「じゃあ僕の一番のゴミを捨ててくれよ」

 そう言って僕はゴミ箱の中に身を乗り出した。頭が入り、強引に体をねじ込んだ。狭かったけれど、なんとか入った。中には暗闇が広がっている。幼いころに見たもとまったく何も変わらない。匂いもしない。音もしない。光もない。何もない空間。死後の世界があればこんなところなんじゃないかなあと思った。そのまま僕は全身をゴミ箱の中に入れようと、下半身もずりずりとねじ込んでいった。重力は上半身にかかり、自然に頭が下へと向く。そのまま僕は落下した。落ちた。どこまでもどこまでも、暗闇の底へ飲み込まれていった。怖くはなかった。何もない自分が、どうなっても構わないと思ったからだ。そのまま僕はどこにあるのかわからないゴミ箱の底へと向かうこととなった。落ちていくうちに意識が遠くなっていった。どこも真っ暗で、目を開けても閉じても変わらず、僕は目を閉じることにした。夢の中へ落ちていく気分で、ここが現実なのか、夢なのか、わからなくなった。

 だんだん意識が遠くなった。眠気にも似た感覚が僕を襲い、自分が何なのか、なぜここにいるのか、考えることすらできなくなっていった。

 どれくらい時間が経っただろう。何時間どころか、何年もこのままだった気がする。暗闇の世界は何も変わらない。ここはどこなのだろう。頭がこんがらがっているうちに、体にかさりと紙のような薄いなにかが当たった。まるでそれは僕の体の中をかすめていくように、沈んでいった。不快感はない。ただ、なにかが通過した感覚だけだった。

「けんじくん、ごみどうしたの?」

 声が聞こえた。どこかで聞いたことがある気がする。幼い女の子の甲高い声だ。

「ごみ箱に捨てたよ?」

 もう一人の声が、彼女にそう言った。

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