7. 予感



「あーかね、ちゃん」


 声が先にして、後から軽いノックの音が部屋の中に響いた。

 妙に明るくて、ノリの良い声。


「はい、どうぞ」

 か細い声で、少女の返事があった。声は病室のベッドから少し離れた、作業机の前から聞こえた。


 間もなく扉が開き、小柄な女性の看護師が入室してきた。

 看護師は扉を閉めるや否や、ウキウキしたステップで、少女のいる机の前に近づいてくる。


「また何か描いているのかな? あ、やっぱり」


 赤毛の看護師は少し無遠慮に、茜と呼ばれた女の子の手元を覗き込んだ。


 茜は特に嫌な顔もしなかった。

 少しの時間の付き合いだけれど、大人びた少女の感性は、この看護師の開放的な物言いや態度の裏に、特に悪気が無いことを見抜いていた。


 看護師は色鉛筆で描かれた青い動物の絵に、感動した様子で手を合わせた。


「可愛らしいイルカね。前に見せてくれた子? 名前は確か――」

「シエルっていうんです。この前、飼育員さんに名前、教えてもらいました。この子は生まれつき…」


 看護師はただ黙って茜の話にうなずいていた。そしてイルカについて説明を続ける少女を見つめる。

ふうんと、心の中で感心した。この少女はこんなに熱心に、話すことができる子なんだ。そして、本人は気づいていないかもしれないけれど、輝きの中でときおり見せる笑顔が、とても素敵。



 看護師が、茜という女の子を知ったのは、一ヶ月前のことだった。

 少女は、両脚に負った傷が原因の、歩行に関する障害を診る為に、ここに通院してきた。

 初めて医師と共に少女と会った時、その幼い子を見て、看護師はとても驚いた。何にも興味が持てず疲れ切った顔、とでも表せばいいだろうか。とても年齢相応の表情をしていなかった。肉体でなく、精神の病を患っての診察かと、一瞬勘違いした程だ。


 よくよく事情を聞いてみて、看護師は言葉を失った。


 車の事故。

 母と弟の喪失という大きなショックが、身体よりも魂を、暗い闇の中に閉じ込めてしまったのだ。


 だが何度か通って来るうちに、少女の表情に変化が見え始めた。


 何だろう…楽しみ? 希望? 同情?

 看護師には読み取れない何かの兆候が、少女の心の中に確実に見られた。

 茜の無反応だった瞳に光が戻り、父や医師の言葉に反応するようになっていた。

 光から闇、そして闇から光へ。人の心というのは、こんなに劇的に変化するものかと、看護師は再び驚かされた。


 しかも茜の父親から聞かされた理由。

 それは水族館で一匹のイルカと会うようになったからだ、という。


 少しでも医療にたずさわる身としては、はいそうですかと、鵜呑みにできる話ではなかった。


 けれどこうして今、目の前で生き生きとしている茜の顔を見、声を聞いていると、胸が温かい気持ちで満たされ、理由はどうでも良くなってくる。

 何がきっかけであってもいい。この子の中にある、もともとの力が叶えた奇跡なんだ。信じたって良いんじゃないかな。


 何度か少女に会ううちに、看護師はそう思うようになっていた。


「それでね、望月さん。この子はちゃんと芸ができて、見てあげる人がいないと、水族館に居られないんですって。だから飼育員の人に、協力してって、お願いされたの。」

「…それで茜ちゃんは夢中なんだ。優しいね」

 看護師の声は独り言だったので、茜には聞こえていなかった。


「だから決めたの。足の手術、怖いけれどやってみるって。そうしたらパパに連れて行ってもらえなくても、私だけでシエルに会いに行けるもの」

「本当に、よく決心してくれたね。お父さんも喜んでるよ」

「うん」

 茜はにこやかにうなずいた。その顔に以前のような暗い面影は、微塵もなかった。


「将来、茜ちゃんは飼育員さんになりたいのかな?」

 看護師はこの子の未来が楽しみで、聴かずにはいられなかった。


「ううん、私は花屋さんになりたい。自分でお店をやるの」

「そっか…いい夢ね」

「あ、パパが戻ってきた、かも」

 茜の視線が、個室の扉にはめ込まれたガラスごしに映る、黒い人影をとらえた。


「じゃあ、迎えに行ってあげようか」

 看護師はベッドの脇から、折り畳まれた車椅子を出し、茜の座る椅子の前において準備した。

 茜は手だけの力で、器用に椅子に移り座った。


 看護師が後ろに伸びるハンドルをつかみ、茜の乗る車椅子を扉の前へと進めていく。


「…それは…本当…」

「ええ…実は」

 近づくに連れて、廊下で喋る大人の男性の声が聞こえてくる。

 ひとりではない。誰かが父親と、扉のすぐとなりで、立ち話をしているようだった。


「お父さん、ちょっと驚かせちゃおうか?」

 看護師が茜の耳元で、イタズラっぽく囁いた。

 茜はつられて笑いそうになり、口を押さえた。首を縦に振って同意を示す。


 音を立てないように近づいていくうちに、外からの声が鮮明に聞こえてくるようになった。


「娘がこの時期になって、手術に応じてくれて本当に助かりました」

「では術後の経過次第では、一ヶ月も経たないうちに、転院できるかもしれませんね」

「ええ」

「娘さんは…納得されているのですか? その…【水族館のイルカ】との事を…」

「…正直まだ、話はできていません。手術を受ける事と、私たちがここを去ることは、直接結びついていませんので…」

「そうですか。でも寂しいでしょうね」

「隠すつもりはないのですが…

 ははっ、子供が大きくなるのは嬉しいのですが、納得するように物事を説明するのが、だんだんと難しくなってきています。父親失格ですね」


 バンと、前置きなしに扉が開いた。

 驚いたのは父親だけではなかった。医師も看護師も、居合わせた大人全員が、その場に硬直していた。


 扉を開けたのは部屋の中にいた茜だった。

 勢い余って車椅子から落ち、床に手をついて前のめりになっていたが、顔だけは父親の方を向いていた。


 娘のそのあまりにも切ない表情に、父親は思わず言葉を失った。


 そのまなこに浮かぶのは、かつて茜を支配していた心の闇の片鱗ではなく――ただただ深い、悲しみだけだった。

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