6. 飼育員



 ダイキは迷っていた。


 彼はこの水族館の中でもっとも若く、悩める飼育員のひとりだ。


 開館前からプールサイドで大きな長靴を履き掃除していた。デッキブラシに寄りかかりながら、ダイキは痛む腰を手の甲で叩いた。

 肉体的な悩みなら、全然良い。この広いプールを掃除するのは慣れてるし、腰痛だって休み明けの今だけで、すぐに治る。若いんだし。


 けれど我が子のように可愛い、バンドウイルカたちの問題となると別だ。

 ダイキ風に言わせてもらうと、あいつらは頭が良くて、スマートで、シャイで、イカしてる。最高だって叫びながら、双眼鏡で観察しているだけなら、実に楽だ。

 でもそれを仕事にしてしまうと、とたんに重労働が待っている。


 食べさせて、掃除して、体調の管理も欠かさない。まあ、それでも飼育員なら幸せだろう。けれど市営の施設ともなると、それだけとはいかない。

 俺の大事な仕事――悩みの素――が、もうひとつ重くのしかかる。教育という名の子育てだ。

 地方務めなのは覚悟でこの世界に入ったけれど、まさか子供もいない俺が、そんな悩みに晒されるなんて、思わなかった。

 先輩飼育員が言った。「お前は甘い」んだって。


 ダイキは後ろから大きいものにドンと突っつかれた。プールから顔を出す、やんちゃな子供イルカたち。オヤツが欲しいと言ってるのか、遊んで欲しいのか。


 彼は少し前から、研究機関付きの飼育員に、空きを求めたくなる気持ちと戦っていた。

 俺はこいつらに芸を仕込まなきゃならない。それが普通の飼育とイルカの飼育の違いだ。自然のイルカは芸なんてしない。いや正確に言うと、芸と同じ行動はする。だから人間はそれを利用して、芸に仕立てる事ができる。

 それは見事な技術であり、体系であり、飼育員の醍醐味でもある。

 ただそこに「いつでも」や「どこでも」の条件を付けると、途端にハードルが上がる。おまけに「どのイルカでも」を加えないといけない。

 仕込む対象が人で「歩く」「走る」「喋る」が芸になるのだったら、教えるのは簡単だと思うだろう。けれど――変な例えだけど――ヤクザな人に金を払って「走れ」と言って、彼は動くだろうか?

 イルカに極道のプライドや落とし前はないが、機嫌はある。体調もそうだ。ましてや子供たちは尚更きまぐれなんだ。


 ダイキは用具置き場の赤いボールを二つ、プールに投げてやった。子供たちはすぐに追いかけて泳ぎ出す。


 もうこの子らにも、芸の初歩を教えている。手間はかかるし、気まぐれな所はあるけれど、覚えは良かった。

 問題は一番小さな子供の「シエル」だった。


 イルカのお産は軽いと言われていたが、シエルの生は難産で始まった。ダイキはその場に立ち会った「産婆」のひとりだ。

 プールの中で、懸命に尻尾をつかんで彼を引き出した記憶は、いまでも鮮明だった。

 シエルは無事に生まれた。けれど出てくるまでに、少し時間がかかり過ぎた。

 大きな問題は心臓だった。通常の個体よりも血液を循環させる力が弱かった。過度の運動は心臓を肥大化させるという診断がでた。

 のちに判明したのだが、右の胸ビレにも多少の運動障害があり、中速以上の泳ぎに支障が出ていた。


 もちろん水族館ここは、身体の具合が悪かったり、もともと不具合がある動物たちを、ムチ打って働かせるような施設ではない。

 けれどダイキの心には、わだかまりがある。

 一番好奇心があって、真面目で、素直なのはシエルだ。同情心なのかもしれないけれど、彼はそれをよく知っていた。

 だから何とかして、ここで他のイルカのように過ごさせてやりたい。そう思って館長に頼み込み、無理のない範囲で訓練を行ってきた。


 だが所長室に呼び出された今日、言い渡されたのは、シエルの移動予定の話だった。

 所長は先輩飼育員とダイキに伝えた。

 シエルは当館には向かないし、自然の中でも生きられない。イルカの生態研究を行っている、もっと小さな施設があるので、そこで一生を過ごしたらどうだろう?

 自分もそこへ行きます、と言いかけたダイキを先輩が止めた。先輩職員は「考えをまとめておきます」とだけ答えた。部屋を後にしても、先輩はダイキに何も言わなかった。


 どちらが幸せかなんて、分かっている。けれど、子供のように世話を焼いてきたシエルを、里親に手放す感覚が、生まれて初めてダイキの心を重りで縛り付けていた。


 あるか分からない解決策。ダイキはそれを探し続けていたが、少なくともプールの底には落ちていなかった。




 開館したばかりの平日の水族館は、まだ閑散としていた。

 これから時計が回るにつれて、お客がじわじわと増え、人の流れができ始める。

 私服に着替えたダイキは、水族館の目玉のひとつである、ニ階分の高さのある吹き抜けの水槽の前を歩いていた。


 朝の仕事をやり終えたのち、ダイキが日課にしているのは、こうして館内を歩いて回ることだ。

 普段から裏方に専念している、ダイキのような立場にいる人間には、客の気づきが判りづらい。

 動物たちの水槽には、つい見落としがちになる死角があったりする。館内からガラスを通して見る視点は様々だ。男性、女性、大人、幼児、老人。その誰もが快適に過ごせる空間を提案するのも、飼育員の仕事だった。

 まあ、堅苦しい話を抜きにすれば、ちょっとした散歩と朝のゴミ拾いだ。


 回転するイワシの渦を見上げながら、ダイキは次のエリアに続く通路を歩いていった。

 ノコギイエイとアオウミガメのトンネルを抜けると、その先のドルフィンエリアにたどり着く。

 そこでショーステージの手前を左に曲がると、控えのイルカたちの様子を観覧できる、円形の小さな部屋がある。シエルを含めた子供イルカたちは、普段はここのプールで生活していた。

 ショーで集まる大人数に比べたら、この部屋はいつも全然人がいない。小さな子供たちがイルカに夢中になっている間、大人たちがほっとひと息つく、そんな場所だ。その為に中央には背もたれのあるソファを置いてあった。


 しかし今日、ダイキがその部屋を訪れた時、青いソファには誰も座っていなかった。

 そして二つあるガラスの一面に、朝だと言うのに人だかりが出来ていた。

 ダイキが観察してみると、一番前にたくさんの子供。そして後ろに壁を作る大人たちが列をなしている。肩車をしている親子もいた。


「なんだ?」

 ダイキは焦った。好奇心よりも、イルカたちに何かあったのかと心配になった。

 私服であることを利用して、大人たちの列に肩を入れさせてもらう。あまり高くない背を懸命に伸ばして、その理由を探した。


 そしてダイキは三回、驚くことになった。


渦輪ボルテックス・リング…」

 水槽の前の観客たちは、一匹のバンドウイルカが繰り出す水の手品に、すっかり魅せられていた。次々と飛び出す大小のリングが、つながったり千切れたりしながら、自由自在に水中を飛び回っていた。その舞台で生き生きと楽しそうに遊ぶイルカが、何とシエルだった。


 ダイキは胸が震えた。そんな遊びをするハクジラの話は聞いたことがあったが、まさかこの場所で、俺の子供が見せてくれるなんて…


 そして最後にダイキの注目は、ガラスの前に座る赤い帽子の少女に移った。

 その子は一番前でしゃがんでいて見えづらく、誰も気にしていなかった。けれど彼は気づいた。なんと指示を出しているのはその子だ!

 その証拠に、少女が指でガラスを叩く仕草と、シエルがリングを吐き出すタイミングが、完璧に同調していた。


 自分が最もシエルをよく理解している。そんな信念のもと世話をしてきたダイキだが、いまは鼻っ面を尾びれで引っ叩かれた気分だった。

 目が冷めた。シエルはまだやれる。こんな素晴らしい特技を、ただの遊びで終わらせるもんか!


 踵を返して、館長のいる中央オフィスに走り出そうとした時、ダイキは飼育員のさがでふと考えた。これが習性だったとしても、何がきっかけだったんだろう。教える者として、それを知る必要がある。

 彼は水槽に戻り、人混みの中から再び少女を探し出した。その横に膝をついて、声をかける。

「お嬢ちゃん…」


 肩に触れようとしたダイキの前に、黒いニット帽をかぶる男性がすっと割って入った。男は座っている少女をそっと抱えあげ、ダイキを見つめながら訊いた。

「何か?」

 少女は男の首に手を回し、こちらを探るように見ている。


 ダイキは思った。この二人のアーモンド型の目は、親子のようにそっくりだと。

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