8. 再開
コッコへのお返しは、想像以上に色々な人の目に止まったみたいだ。
ガラスの壁の前は、今日も明日も明後日も、いつも人がたくさんいるようになった。誰もが僕を見に来ている。子供も大人も。
いつも通り楽しかった。何か変な物(たぶん人間の言葉だ)が、壁にペタペタと貼られて、ちょっと見通しが悪くなったのは別にして。
前にも増して、僕に餌をくれる人間が、声をかけてくれうようになったのも、嬉しかった。
仲間の妬みはなかったかって? そりゃあ、少しは変な声も出されたけれど、すぐにこの技を教えてくれって、せがまれた。
隠すつもりはないから、僕は惜しみなくコツを教えてあげた。でも輪を自在に操れるのは、大人を含めても、僕だけだった。
すぐにもっとスゴイことが起きた。
あの大きなプール。ついに僕があそこに戻る時が来た!
出番は少し、大人たちのジャンプの合間にやる小さなショーで、相手は子供たちだ。大きなプールは前面すべての壁が透けている。呼ばれた僕はいちばん前まで出ていって、いつもみたいに泡のリングで遊んでみせた。その時には人間の合図で、泡を出したり食べたりできるようになっていた。
時間は短いけれど、より大きなパチパチと笑い声が水の中でも聞こえるので、とても気持ちが良かった。
本当はジャンプも見せたかった(これでも練習しているんだから)。でもまた勝手なことをやって、閉じ込められたら困る。大人になって、そこは我慢した。
コッコも、僕のことをちゃんと見ていてくれた。でもその時間は変わって、ショーの間だけになった。彼女はいちばん前の椅子に座っていた。ガラス越しに見える彼女は、少し遠くなったけれど、いつもと変わらず笑顔でいてくれた。だから僕も頑張れた。
残念なのはあの詩が聞けなくなったこと。疲れた時にあの波があると、とても癒やされるんだけれどな。今でも寂しい時は、あの温かい感触を思い出して眠っている。
すっかりショーに出るのがあたり前になった毎日。けれど、良い悪い関係なしに、変化は突然やってくるんだ。
いつものように時間になり、笛で呼び出された僕は、大きなプールを一周してから、観客の前でお辞儀をした。そして頭をあげた時、すぐに気づいた。
コッコがいない。
昨日も、おとといも。それがついには一週間になった。あの子と出会ってから、会えない時間がこんなに続いたのは初めてだった。
二回目の笛の音がすると、僕は気を取りなおして、いつもショーをこなす。そしてさようならの挨拶をする。最後にもういちど見ても、やはり彼女はいない。
小さな不安が積み重なったせいか、僕はショーの間、演技に集中できなくなってきた。そして得意だったあのきれいなリングが、うまく作れないようになってしまった。
気を使ったのだろう。人間たちは、それから僕をショーに出さないようにした。さらにあの小さなプールのガラスを、青い壁でふさいでしまった。
いったん外に出て人に喜ばれることを覚えた子イルカにとって、退屈な生活は罰に近かった。けれど、どうせコッコはそこにいない。あの子に見せるために、僕はこれを始めたんだから、もうどうでもいい。僕はどんどんと暗い気分で、滅入るようになった。人間たちの心配も気にせず、日中も浮いているだけの時間が多くなった。
どれくらい経ったか、数えるのも忘れていたある日、とつぜん壁の幕が取り払われた。
僕はあまり反応をみせず、ただ外を眺めた。何も変わらずあっちは暗かった。またガラスの向こうに人が来る。芸をするのが億劫だなと思っていたら、案の定、誰かがやってきた。
最初に、僕の世話をしてくれる人の脚が見えた。帽子を被っている。彼が誘うように手を降ると、背後から不思議なものがやってきた。
それは人がいつも座っている椅子に似ていた。けれど大きな丸い輪が付いていて、車みたいにスルスルと滑ってくる。照明の外からやってきた椅子の上に、最初に小さな靴が見えた。それが白い足になって、やがて手が見えて――
コッコ?
そこに座っている女の子は、僕の知っている少女じゃなかった。違う。
帽子をかぶっていたので、陰になって余計に目が見えなかった。
コッコ!
僕は不安になって、彼女の名前を音で呼んでみた――何もない。
出会った頃に教えた音をいくつも出す。強く、低く――無反応。
最後に見せたリング。
少女は僕たちが遊びで使うゴムのおもちゃのように、まったく動かなかった。
こんな時、人だったらどんな音を出すだろう。たぶん同じだ。僕はイルカで、そして鳴き声が出なかった。
コッコが来ないことも嫌だけれど、暗い顔でここにいる彼女を見るのは、もっと嫌いだった。
人間は悪いものじゃないと、僕は言った。訂正するよ。僕は人が、コッコが好きなんだ。
悲しみのあまり、僕は助けを呼ぶ時に似た、鳴き声を出していた。
近くのプールで、大きな水音と振動が響きはじめた。僕の声に驚いて、心配した友達や大人たちが、騒ぎ始めたようだ。
外にいる帽子の世話人が、あわてて胸から何かを取り出して、喋り始めた。水の上からも人の足音がして、周囲が慌ただしくなる。
大人の手が見えて、少女の乗った椅子が、来たときと同じように後ろに滑っていく。
最後に見えたコッコの小さな手は、ギュッと握りしめられて、小さく震えていた。
「落ち着いて良かったですね、ダイキさん」
若いアルバイトの飼育員が、流れ落ちる汗を拭った。
「興奮したアイツらを見るの、初めてっす」
「シエルが【呼んだ】んだ。あんなに反応するとは思わなかった」
「え?」
「いや、なんでもない」
再び水槽のガラスをブルーシートで隠し終えたダイキも、帽子を脱いで、タオルで汗を吹いた。
落ち込んだシエルにあの娘を見せようと提案したのは、ダイキだった。一般人を巻き込む事に、館長は渋っていたが、ショー再開の為と説明して何とか納得してもらった。
彼なりにシエルの調子を心配して、何とか考えた策だったのだが――ダイキは少し後悔した。
イルカは賢い。シエルは特に。
あいつにはきちんと見えていた。少女が普通の状態じゃないと感じ取っていた。元気にさせるどころか、逆効果だったかもしれない。
「ダイキさん」
少女を車に乗せた父親が、戻ってきて声をかけた。
「申し訳ありませんでした。お嬢さんに、怖い思いをさせたかもしれません」
父親は首を振った。
「そんな事はありませんよ。娘は入院している間、看護師に良くイルカの話をしていたようですから。最後に少しでも見れて良かったでしょう。」
「なら良いのですが」
父の言葉尻に反応して、ダイキは無念そうに訊いた。
「あの…先日のお話なのですが、ご出発の時期は決まったのでしょうか」
「本日のもうひとつの話題はその事でした。手術が成功して、こうして出歩ける許可を頂きましたから、再来週にはここを発とうと思っています」
「再来週ですか…」
「向こうに良い転院先を見つけましたし、私の仕事場も近いので、家族には良い環境です。そうですね、良い水族館も見つけられるでしょう」
最後は冗談っぽく言った。
「ダイキさんには感謝していますよ。ここにはたまたま娘の願いで来ただけなんですがね。イルカを見せ続ける事が心の治療になるなんて、私には思いもよらなかった」
父親は困ったように笑った。
「おかげで娘が笑うようになりました…そう、この土地は私にとっても辛いのです。二年前の事故を思い出してしまう。特に娘は…茜はそれから、泣きつくして、笑顔を忘れていましたから」
時計をみた父親が荷物を背負い直した。
「すみません、娘を待たしているもので…ではこれで」
父親の言葉を黙って聞いていたダイキが帽子を取り、ばっと頭を下げた。
「あの! 差し出がましいお願いなのですが…最後に、シエルの出るショーを、お嬢さんに見て頂けないでしょうか? もちろんご本人が嫌でなければの話です」
事情がわからず聞いていたアルバイトも、あわてて先輩に続き、お辞儀をする。
父親は困惑したようだったが、最後に笑って答えた。
「そうですね、娘に聞いてみます。では失礼します」
少女の父親が去った館内で、ダイキは飼育員として、シエルの親として、自分のできる役割を黙って考えていた。
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