9. ショー



 水族館の食堂のテレビが、その日の天気は晴から雨になると伝えていた。


 ダイキの心配をよそに、お昼の最初のショーは予定通り行われるという放送が流れた。

 父娘おやこの来る時間からすると、出番は午後ニ回目のショーになりそうだ。お客さんには申し訳ないが、シエルのミニ・ショーはサプライズ扱いで、一度きりのプログラムを組ませてもらった(女性飼育員と交わした、明日の昼をおごる取引の成果だ)。チャンスは一度きりとダイキは考えていた。


 映画のような豪勢なオープニングテーマが聞こえてくる。ダイキのいる場所から観客席を見ると、お客の入りは上々だった。彼はシエルの様子を見にステージの袖を離れた。


 シエルはいつもと変わらない様子で、悠々とプールを泳いでいた。

 ダイキはこの一週間、シエルに付きっきりで技を教えていた。子イルカは飽きるのも早く、すぐにイタズラや別の遊びをする。けれどシエルは集中して練習をこなしてくれた。

 プールに手を入れると、シエルが顔を出し、伸ばしたダイキの手に鼻を擦り寄せてきた。

 このショーの意味をお前に教えることは出来ないけれど、大丈夫。俺に任せておけと拳に心を込め、ダイキはタッチを返してやった。


 そんなダイキの自信とは裏腹に、天候が一気に変わり始めた。

 いやな西風が吹き始めて、流れの早い灰色の雲が空の青さを隠し始めた。


「っくしょー、次まであと少しなんですけどねえ。これ、行けますかね」

 バイト君が天を見上げて、落ち着かない様子でつぶやいた。

「大丈夫」

 ダイキは空を見ず、帽子のつばの下で、まっすぐにステージを見つめていた。

 やがて無情の一滴が落ちてきた。水面に小さな輪が浮かび始める。それはひとつ、ふたつと、やがて数えることが出来なくなっていく。

 バイトスタッフたちが、急ぎ集められ、客席の椅子をタオルで拭き始めた。

 これ以上強くならないことを祈るしかない。ダイキはテレビの占いを信じる人間ではなかったが、今日ばかりは自分の星座が上位であることを祈った。


 まもなく招待客の到着を知らせる内線が鳴った。

 ダイキがサービスセンターまで出迎えると、父親が傘をさして待っていた。娘は車椅子だったが、大きなタオルを持っているだけで、レインコートは着ていなかった(年頃の女の子らしく、雨具をつけた格好が気に入らないらしい)。

 ダイキは父親の表情で、言いたいことの八割が分かった。来てみましたけれど、この天気で大丈夫でしょうか?

「ご案内します」

 多少強引に、若い飼育員は彼らをステージの一番前まで案内した。そこにはダイキの指示で、車椅子用のスペースとビニールを被せた椅子を確保しておいた。


 風が強くなったせいで、雨滴が地面にあたる音が増えてきた。すり鉢状のステージを見あげていくと、レインコートの客以外は殆どおらず、傘を畳んで帰る客の背中が見えた。

 娘の父は頑張って傘を両手で支えていたが、表情が険しくなっていた。娘はタオルを頭からかぶり、表情が読み取れない。膝下が濡れるのも構わず、ただじっと開演を待っているようだった。


 ダイキは腕時計をチラリと見た。開始のアナウンスの時間が迫っている。

 自分のセッティングの時間を考えると、そろそろバックステージに戻らないといけない。二人に断りを入れると、彼は客席の前の通路を走った。


「ダイキさん、早く!」

 裏に入ると同時に、衣装を用意していたスタッフが、着替えを持って飛び出してきた。

 ダイキは防水のジャージを脱ぎ捨て、衣装のズボンに片足を突っ込んだ。


 その時、柱のスピーカーから放送が鳴り始めた。

「本日はお足元の悪いなか、市営水族館にお越しいただき、まことにありがとうございます。ここで皆様にお知らせがございます」

 ダイキの背中に嫌なものが走った。

「本日の午後に予定しておりました、イルカのダイナミック・ジャンプショーですが、天候不順の為、本日の残りのショーについては、全て中止とさせて頂く事になりました。ご来場中の皆様には大変――」


 ズボンがずり落ちた。

 終わった。

 彼女に振られた大学のあの日に匹敵するぐらい、ダイキの人生の中でも最悪な瞬間だった。

 この一週間の間の俺とシエルの努力、あの父娘の時間。そいつらが泡みたいに弾けて消えていく。過去の時間だけじゃない。俺は最も大事なシエルと少女の、これからの思い出も奪ってしまったんだ。ダイキの足は力をなくし、膝から地面に崩れた。


 ブーイングこそ起きなかったものの、観客たちの不満の声は止まなかった。ポンチョの客たちも顔を見合わせ、重い腰をあげて去ろうとしていた。


 突然、甲高いハウリング音が響いた。館内放送ではなかった。一本の拡声器ごしの女性の声が、その場全員の注意をステージの中央に集めた。

「イルカショーの中断、誠に申しわけございませんでした」

 いつの間にかあらわれた一人の女性スタッフが、深々と頭を下げていた。ダイキは目を見張った。あの女性飼育員だ。

「すでにご案内したとおり、通常のプログラムによるショーはお楽しみ頂けません。しかしながら、どうしてもここで、お見せしたいものがございます」

 息継ぎの間に、女性はダイキのいるバックステージに振り向き、すばやく右手を回した。「続けて」の合図だった。

「それは、可愛い小さなイルカ、一匹だけの短いミニ・ショーです。生まれつき、少しだけ皆と違う身体で生まれた為に、ひっそりとステージの隣で暮らしてきた男の子です」


 ダイキが立ち上がった。頭に血が回り、目に光が戻ってきた。彼はすぐに残りの衣装を着込み始めた。

 客席を見ると、全員がその場に立ち止まって、中央に注目していた。


 放送は続いた。

「彼はまだ大人ではありません。けれどもコツコツと練習して、素晴らしい技を手に入れました。ご存知の方もいるかもしれません。それは【バブルリング】です」

 驚きの声、そしてひとつ、ふたつと拍手が始まった。知っているものは大きな音で、知らないものはこれから起きる何かへの期待感で。やがてそれは大きな「パチパチ」の波になった。


 着替えの終わったダイキが走った。シエルとショーステージを遮る青いネットにたどり着くと、懸命に網を巻取っていった。


「でも彼はまだ、ジャンプにチャレンジしたことがありません。身体の中にある大きなブレーキが、激しい運動の邪魔をしているのです。でも今日は――今日だけは、彼は飛びます。彼に生きがいを与えてくれた、ひとりの女の子の為に。本当に短いショーです。けれど皆さん。見てあげて下さい…バンドウイルカの…」

 彼女は両手を天に向かって指差した。

「シエルです!!」


 すべての網が引っ張り上げられた。シエルとステージを遮るものは、もう何もなかった。ダイキは広いプールの中央を指さして、大声で叫んだ。


 「ゴー! シエル、ゴー!!!」


 同時に吹き鳴らしたダイキの笛の音が、ステージから灰色の空に昇るまで、ずっとずっと鳴り響いていた。

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